虚空太鼓の噺
東京を江戸と申した時分のお話。
時節は六月。春と夏の境の風が心地よく吹いている海を、飛井太の船が穏やかに進んでいた。長州の萩にある港を拠点に瀬戸内海を行き来して、荷を運ぶ商戦である。
飛井太はこの時に五十を過ぎており、頭にはちらほらと白髪が混じっていた。しかし若い時分から舟で鍛え上げてきた体は衰え知らずで、その経験も相まって働き盛りの船乗りと比べても劣ることのない仕事っぷりであった。非常に無口で愛想のない男だったのだが、面倒見もよく先の通り仕事もこなせるので、取引先の商人や同業の仲間たちからの信頼は厚かった。
航海は恙なく進んでいた。ところが波と風は何の前触れもなく大人しくなり、とうとう動かなくなってしまった。その内に日も暮れかかり、仕方なく停泊を決めたのであった。
◇
雲一つなく月の映える夜である。夕飯を済ませた船乗りたちは、何をするでなく食休みをしていた。
その時。
どこからともなく、まるで軽業師の巡業のような賑やかしい太鼓や笛の音が聞こえてきた。飛井太は空耳かと思ったが、他の仲間たちも反応を示したので、一緒に音の出所を探し始めた。ところが当然、舟の中には演奏できる者はおろかそもそも楽器の類すら見つからなかった。
「まさか、海から」
ふと誰かがそう言った。皆はそんな馬鹿な事はないだろうと言ったが、それでもそれ以外には考えられなかった。誰に指図された訳でなく、それぞれが船縁に集まり暗い海を見つめた。
「いや・・・やはり海から聞こえておる」
飛井太がそう言うと仲間の一人が、そう言えばと前振りをしてかつて聞いた昔話を語り出した。
◇
かつてこの海を軽業師の一行が船で渡っていた。だが、生憎の大嵐に遭い転覆してしまったという。その間際に、乗っていた連中が陸にいる人に助けを乞うつもりで盛大に演奏をしていたらしく、舟が沈んだ後もその時の演奏だけが空しく響き渡るのだそうな。いつしかそれを知る者たちは、この音を『虚空太鼓』と呼び始めた。聞けばその一行が難破したのが、丁度今くらいの季節らしいのだ。
そう聞いた仲間たちは一様に気味悪がった。けれども飛井太はむしろ憐れむ気持ちでいっぱいになっていた。
さて、あくる朝。
日の出とともに虚空太鼓は鳴りやんでしまった。仲間たちはさっさと錨を上げて、いち早く出発しようと飛井太に申し出てきた。遅れた仕事を早く終わらせたいと言っていたが、曰くのある海から少しでも遠ざかりたいという思いが透けていた。とは言っても、仕事が遅れてしまったのは事実である。飛井太は錨を上げるように指示を出した。
景気のいい掛け声とともに錨が上がる。次に帆を張らせようとしたのだが、それは悲鳴によって掻き消された。何事かと思い、駆け寄ると錨を上げていた男が震えながら引き上げた錨の先を指差している。目線を送ると、飛井太も流石に心臓が跳ねた。
錨の先にはしゃれこうべが一つ引っかかっていた。
飛井太にはそれがとても悲し気な目をしているように見えた。
仲間たちが慄く中、飛井太は曳かされるような気になって錨の沈んでいた辺りに飛び込んで行った。急にそんな事をしたものだから仲間たちは更に慌てふためいて、様子を窺っていた。
しばらくすると飛井太が海面から顔を出したので、一同は安心した。だがそれも束の間、すぐに桶を海に投げるよう言われた。訳が分からないまま大きな桶を海に投げ入れると、飛井太は海底から拾ってきたであろうしゃれこうべを、いくつもその中に入れ始めた。
◇
「この辺りで船が沈んだんだろう。寄り添うようにしゃれこうべが集まっていた」
やがて船に上がった飛井太は、誰に言うでなくそう呟いた。
「お頭。この仏さん方どうするんですか」
「放ってはおけんだろう。持って帰って寺に相談して供養してもらうつもりで引き上げた」
仲間たちは最初のうちこそ気味悪がっていたが、思えば気の毒な人達だと手を合わせたり念仏をあげるなりして弔い始めたのだった。
◇
港につくと、飛井太は荷下ろしや他の雑務を手下たちに任せて、真っすぐに寺に向かった。
和尚は事情を聞くと、快く供養を引き受けてくれたのだった。
「虚空太鼓ですか・・・噂には聞いておりましたが、あなたに見つけてもらってさぞ満足でしょう。もう海に太鼓が鳴ることはないでしょうな」
「そうなると良いのですが・・・ワシが思うに、虚空太鼓は今わの際の演奏が響いていたのではなくて、今なお誰かに見つけてもらいたくて骸たちが鳴らしていたのかも知れませぬ」
「ふむ。拙僧もあの辺りの海を探してもらいたくて楽器を奏でていたのだと思いますよ」
「和尚様も、そう思われますか」
「何しろ笛や太鼓を鳴らすのは『調べ』と申しますからな」
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