海女房の噺
狸を終えまして、今日からは「海」にまつわる妖怪のショートショートを投稿して参ります。
東京を江戸と申した時分のお話。
今の島根県は十六島と漁村に絵無蔵という年老いた漁師がいた。絵無蔵の漁場ではよく鯖が獲れ、長者とまでは行かなくともそこそこの暮らしを立てていた。
今日も今日とて網いっぱいの鯖を取ると、夜にはせっせとそれを塩漬けしていた。鯖は腐りやすく、すぐに食べるのでない限りはそうして塩漬けにするのが常である。
樽に鯖と塩を入れ、重石を乗せるという作業を繰り返していると、ふと窓の外に目がいった。すると妙な事に気が付いた。窓の外に怪しげな赤っぽい光が二つ灯っている。よく目を凝らすとそれは眼のようであった。
絵無蔵は飛び上がりそうなほど驚いたが、何とか平静を装った。そして窓からは見えないところへ道具を取りに行くふりをして、上手く隠れたのだった。
しばらくすると、戸を開けて何者かが入ってくる気配があった。
恐る恐る様子を盗み見ると、そこにいたのは『海女房』という妖怪であった。
海女房は二匹の子供を連れていた。そして絵無蔵が渾身の力で置いた重石を片手で軽々とどかすと、塩鯖を取り出して三匹揃ってバリバリと貪り始めた。恐ろしい速さで樽いっぱいに入っていた鯖を食べ終わると、指先や口元についている塩をぺろぺろと舐める。
「それにしても、ここにいた爺はどこへ行った。口直しに後で喰おうと思っていたのに」
その言葉に絵無蔵は背筋が凍った。
◇
その時、身震いしたあまり樽にぶつかり物音を立ててしまった。それに気が付いた海女房とその子らは、飛び掛かる勢いで絵無蔵に襲い掛かって来た。戸が近くにあったことが幸いして、絵無蔵は転がるように外へ出た。
海女房たちは眼を光らせ、牙を剥き出しにして追いかけてくる。絵無蔵は悲鳴を上げながら逃げ出した。とにかく足を止めれば喰い殺されると、懸命に走った。
ところが。
追いかけてくる海女房たちは、嘘のように足が遅い。老年の絵無蔵にもまともに追いつけぬ程であった。
絵無蔵は一番近くの友人の家に逃げ込むと、事情を話し匿ってもらった。窓から外を見れば、家に入られては仕方がないと諦めたのか、すごすごと海へ引き返していく海女房達の姿があった。
◇
ようやく落ち着いた絵無蔵は友人に事の仔細を言って聞かせた。
「しかし海女房達は、なぜあんなに足が遅かったんだ? まあ、そのおかげで助かったんだな」
「そりゃあ塩鯖を先に食べたからだろう」
「どういうことだ?」
「鯖はそのままだと足が早いが、塩漬けになってりゃ話は別だからよ」
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