イクチの噺
ほぼ創作です。イクチの説明は本当です。
東京を江戸と申した時分のお話。
今でいう茨城の海での物語である。
大之介という商人が船に荷を乗せ、江戸から常陸の国へと向かう航海をしていた。事無く辿り着けば店は安泰、万が一にも嵐にあったり難破したりすれば店は潰れて己も首を括らねばならぬという、博打のような商売であった。
順調に進めば五日で終わるという船旅の、その四日目のことである。空は晴れ渡り波も風も穏やかという、これ以上ない日和であった。
「このまま行けば、無事に辿り着けるだろう」
大之介だけでなく、江戸で雇った船乗りたちも皆そう思っていた。
◇
まもなく夕暮れという時刻である。明るいうちに飯を食い、蝋燭代を節約しようと実に商人らしい考えで早めの夕餉を済ませていた。明日の朝には港に着く予定である。港に着けば荷下ろし、帳簿合わせ、これからの商いの話し合いなど目まぐるしく働かなくてはならない。大之介はまだ日のあるうちから、たっぷりと寝ておこうと考えて、うとうととしていた。
ようやく微睡が消えようかという時、甲板の誰かが大きな声で助けを呼んだ。食事のためにほとんどの者が船内にいたので、一体何事かと慌てて船上へ駆けていった。
声を荒げていたのは見張りの男だったようで、その訳を聞いた。
「い、『イクチ』が出やがったっ」
その言葉に船乗りたちは慌てふためいた。そして各々が喧々諤々と何かの支度をし始めた。ところが、大之介は何のことだかさっぱりわからない。甲板を走り回る誰かを止めると、イクチとは何事かと尋ねた。船乗りは立て板に水の如く大之介にイクチの事を話した。
イクチとは巨大な鰻のような妖怪であるという。これに狙われた船の多くは沈んでしまうと恐れられている。太さは大したことがないのだが、恐るべきはその長さにある。頭の先から尾の先までが一体何十里あるのかという長く、もしも船を跨がれると通り越すのに二、三日はかかる。その上、イクチの体からは夥しい油が出るらしく、油を海に投げ捨てなければ重みで沈んでしまうというのだ。
それを聞かされ大ノ助の顔は他の船乗りたちと同じようになった。
「一体どうすればよいのだ」
「イクチを退ける術はねえ。うまく逃げ切るか、もしも跨がれたときは笠や桶を使って油を船の外に流すしか」
大之介はすぐさま帆を張る手伝いをした。慣れぬ作業だったために、手の皮はすぐに擦り剥け、高価な羽織袴はすぐに汚れ、ところどころが破れていく。しかし、そんなことは最早どうでも良かった。
荷を沈められて堪るか。
その一心で船を進める仕事をこなした。
◇
ところが。
その努力も空しく、イクチは帆船の尾部に胴体を乗せたのである。言われた通り体は油で覆われており、欄干を伝って船の中央に滑り落ちてきた。
瞬く間に奇怪な油が滴り始め、甲板は油地獄に変わった。
大之介を始め、他の船乗りたちもこうなっては仕方がないと、油を掬える器のようなものを手当たり次第に使って、それを掬い出した。イクチが動くたびに船は揺さぶられ、油で踏ん張ることも出来ず作業は難航した。
その時である。不幸中の幸いと言うべきか、尾部がイクチの重さに耐えきれず割れ落ちたのだった。イクチの胴体も支えを失って、大量の油と共に海に滑り落ちていった。
ひょんなことから九死に一生を得た大之介たちは、歓声をあげた。イクチも再びこちらを狙っている様子もない。大之介の体からは緊張と同時にあらゆる力が抜け落ちた。
そして不運は起こる。
不意に船に横波が辺り、船体は多く撥ねた。そのせいで大之介の体は宙に舞った。そしてそのまま欄干を飛び越え、海の上に放り出されてしまったのだ。何が起こったのか理解できず、大之介は悲鳴を上げることすらできなかった。目に映る全てのものの動きがゆったりと遅くなり、手を伸ばして足掻けば助かりそうな錯覚に見舞われた。しかし所詮は錯覚である。無情にも大之介の体は海に向かって落ちていった。
ザブンっ。
という波音が喧騒の中にもはっきりと大之介の耳に届いた。
◇
何故、自分は甲板の上にいるのだろうか。
心臓が高鳴る中、一寸前の記憶を辿る。間一髪のところで、ある船乗りが大之介を手繰りよせ、その引き換えに海に落ちていった映像がはっきりと大之介の脳裏に焼き付いていた。
大急ぎで欄干から身を乗り出して下を見た。けれども助けてくれた船乗りの姿はもうどこにもなかったのである。
◇
その後の船は無事に目的の港に辿り着いた。港の人々はイクチに遭いながらも生き延びた船と船乗りたちを称賛した。取引先の商人も大之介の無事を喜び、またイクチから逃げ延びたことがより名を広めると喜んだ。
しかし、大之介は粗方の仕事を終えた後、店を信頼できる者にそっくりそのまま譲り渡したのである。しかも引き換えに得たのは僅かばかりの金子だけであった。
一体どうしたのかと、譲り受けた者が大之介に尋ねた。
「私は本当だったら死んでいたのだ。あの時、自分の命も顧みず助けてくれた男がいたからこそ、荷も無事に届き店を安泰にさせられた。もう十分だ。これ以上私服の為に生きるのでは、あの男に申し訳が立たぬ」
「それでは、これからは如何なさいます?」
「頭を丸め、あの男の供養のためにも仏門に入ろうと思う」
「なんと。あなたほど商才溢れる方が衣をつけるなど・・・もったいない」
その言葉に、大之介は健やかに笑って答えた。
「あれだけの油を浴びたのだ。衣をつけるには十分だろう」
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