万屋、霹靂2
ちりりん
涼やかなドアベルの音をくぐり抜け薄暗い店の中に戻ったエルムドは、大きく息を吐いた。
「あー、おばちゃん達の相手めんどー……」
愛想の良さを脱ぎ捨てた青年は、気だるげな表情で片手を首に当てぐるりと肩を回す。
「さて、と。まずは昨日入ったヤツを修繕して、あとは……」
「朝飯を頼む」
「そうそう、朝飯を……って。旦那?」
さらりと割って入った声の主は、店の奥、一段高くあつらえられた座敷に座っていた。
卵形の愛らしく清楚な美貌、なめらかな肌、艶やかな黒髪を持ち、しなやかでみずみずしい魅惑的な身体を簡素な僧服に包んだ妙齢の美女である。
「どうしたんです、珍しいですね。こんな朝早くから起きてくるなんて……」
エルムドは一瞬驚きの表情で目を瞠ったが、彼女の手に握られた物に気付くと眉をひそめ、声も剣呑なものへと変わった。
「旦那? 何を食ってんですか?」
「見たらわかるだろ、甘菓子だ」
「わかるだろ、じゃないですよ! そりゃ上客用の高級羊羮じゃないですか!」
「うむ、美味い」
「あーあー、もうほとんど喰っちまって……。珍しく早起きだと思えば……」
エルムドは片手でぐしゃりと髪をかき混ぜ、大きく首を振った。諦め悪く羊羹を見やりながらも、朝食の支度をするために店の奥へと移動しかける。
それを、旦那と呼ばれている女が止めた。
「――待て。客人だ」
エルムドの足が止まり、振り返る。数拍遅れて、控えめにチェッカーがドアを叩く音がした。
*****
「今回のはこれか」
目の前の畳の上に置かれた煙管を眺め、僧服の女は淡々と呟いた。
真鍮の煙管は凝った細工でかなりの値打ち物だと一目でわかる。その煙管を紫の布に包んで持ってきた男は、薄くなった頭を低くして恐々と頷いた。
「へえ。なんでも旦那様が仰るには、そいつを吸うた日は妙な夢を見るそうで」
「妙な夢?」
「ええ。髪の長い女がどうとか……ただ、目が覚めるとほとんど忘れておしまいになるそうで」
「ふぅむ」
しきりに額の汗を拭く初老の男にひとつ唸って、女は白魚のように白くほっそりした手を煙管に伸ばした。
――かたん、と煙管が動いた。
「ひいっ!」
絡繰り仕掛けのように飛び跳ねた煙管を見て、初老の男が悲鳴を上げた。しかし、女もその後ろに控えるエルムドも、畳に正座したまま、微塵の動揺も見せていない。
女はさらに手を伸ばす。
再び飛び跳ねた煙管を女の手が無造作に掴んだ時だ。
ひぃいいぃぃ
甲高い女の悲鳴が、煙管から響いた。
「ひぃい、神様水瀬母神様、スーイール様ぁっ!」
初老の男は大声で己の信ずる神の名を口にしながら頭を抱えてしゃがみこみ、ガタガタと震える。
狂ったように悲鳴を上げ続ける煙管を、女は不愉快そうにねめつけた。
「うるさい」
がん、と。
女は手に持つ煙管を畳に打ち付けた。
短くしゃくりあげるような声が一瞬響き、煙管から煙が立ち上った。細く立ち上る煙を女が吹き消す。
――それで仕舞いだった。
*****
「あちらの旦那も厄介そうだな……」
かなりの礼金を払い、また一段と薄くなった頭を何度も下げて帰っていった初老の男を見送り、エルムドはしみじみと呟いた。
彼の“旦那”は、新しく手に入った煙管を吹かしながら、今や遅しと朝食を待っているはずである。
溜め息ひとつで気持ちを切り替え、店に戻ろうとエルムドは踵を返した。
「――もうし」
その背に、低い声が掛けられる。
なぜかぞくりとしたものを感じながら、エルムドはゆっくりと振り返る。逆光のせいか、声を掛けてきた相手の顔はよく見えなかった。