国境の要塞街と、肥え太った豚
魔界の荒野から現世へと戻った俺と椿は、数日間の隠密進軍を経て、目的地である国境の要塞街『バルカ』へと辿り着いていた。
バルカは、かつては大陸でも一、二を争う強固な防壁と屈強な守備隊で知られた、他国の要塞都市だった。しかし数ヶ月前、実の姉――『冷撃のアルティ』率いる帝国軍第一軍の電撃侵攻により、一滴の血も流さずに無血開城を選んだ街でもある。
「ここが、姉さんの落とした街か……」
俺は深くフードを被り、街の往来を歩いていた。
無血開城。それは戦火による破壊を免れ、多くの民間人の命が救われたことを意味する。それなのに、街を行き交う住人たちの表情は、一様に死人のように暗く、何かに怯えきっていた。
活気があるはずの中央広場ですら、露店はまばらで、人々は互いに目配せをしながら足早に通り過ぎていく。街の至る所には帝国の軍旗が掲げられ、黒い甲冑に身を包んだ帝国兵たちが、傲慢な態度で住民を監視していた。「おい! どけドケェ! 貴様ら家畜どもが、我が進路を塞ぐな!」 背後から響いた、耳を刺すような粗暴な罵声。 同時に、何頭もの軍馬に引かれた、金銀の装飾がギラギラと輝く派手な馬車が、中央通りを猛スピードで駆け抜けていった。
「うわあああッ!?」
逃げ遅れた一人の老人が、馬車の風圧に煽られて激しく転倒した。老人が大事そうに抱えていた露店の果実が、泥塗れの石畳へとバラバラに転がり、無残に踏みつぶされていく。
しかし、馬車は止まらない。それどころか、窓から脂ぎった顔を不快そうに歪めた、丸々と太った男が顔を覗かせ、泥をかけられた老人に向かって冷酷に言い放った。「チッ、不愉快な貧民どもめ。汚い体を我がバルカ子爵家の馬車に近づけるな。ラインハルトの奴め、無血開城などという生ぬるい真似をして占領するから、家畜どもが調子に乗るのだ。最初から全員叩き潰して奴隷にしていれば、このような不快な思いをせずに済んだものを」 男は下卑た唾を吐き捨てると、窓を乱暴に閉めた。馬車はそのまま、街の中央にそびえ立つ巨大な領主館へと吸い込まれていく。
周囲の住民たちは、転倒した老人を助けようともせず、ただ怯えた目で地面を見つめていた。少しでも反抗の意志を見せれば、即座に帝国兵に首を撥ねられる。それが、この街の『日常』になっていた。
「……あれが、この街の新しい領主か」
「はい、主様。帝国の腐敗貴族、バルカ子爵。通称『豚貴族』にございます」
隣を歩く椿が、椿色の黒髪の隙間から、真紅の瞳を妖しく細めた。彼女の周囲だけ、大気が凍りついたかのように冷徹な気配が漂っている。
「アルティ将軍が、死傷者を最小限に抑えるために血の滲むような策略を練り、無血で降伏させたこの街……。ですが、彼女が次の戦地へと向かった直後、帝国の過激派貴族であるあの男が統治権を買い取り、現在は略奪と暴政の限りを尽くしているようです。住民から財産を巻き上げ、逆らう者は見せしめに処刑する。まさに、私利私欲のために肥え太った豚にございますね」
「……なるほどな」 俺は懐の中にある、あのボロい短剣の柄に、そっと手を置いた。
胸の奥から、ドロリとした冷たい怒りが湧き上がってくる。
あの深夜の玉座の間で、姉さんとクラウス王が語っていた『世界統一による真の平和』。
それが本物かどうかは、今の俺にはわからない。信じるつもりもない。
だが――彼らがどれだけ綺麗事を並べようとも、その足元にある現実は、あのようなクズどもによって汚され、踏みにじられている。
「姉さんは、こんな奴らをのさばらせるために、俺たちの故郷を滅ぼしたのか? クラウス王は、こんな地獄を肯定するために、悪の皇帝を演じているのか?」
だとしたら、あまりにも滑稽だ。あまりにも、救いがない。
「主様。あの豚の首、今すぐここで私がねじ切り、その血で街を染め上げましょうか? 指を一つ鳴らすだけで、あの領主館ごと塵にしてみせますが」
椿が俺の顔色を伺いながら、楽しげに囁く。彼女の細い指先には、すでに濃密な漆黒の魔力が集まりつつあった。
「いや、まだだ、椿。大通りで派手にやれば、民衆が巻き込まれる。それに……あの豚は、俺の復讐の狼煙にちょうどいい」
俺はフードをさらに深く被り、領主館の厳重な警備体制を鋭い目で見据えた。
「姉さんたちがどれだけの覚悟で泥を被っているのかは知らない。だが、俺は俺のやり方で、一族の仇を討つ。まずはあの豚の首からだ。椿、今夜、館を襲撃する。魔界の軍勢を動かせ」
「――御意にございます、我が主」 椿は下唇を妖艶に舐め、暗がりの中で残酷に、しかしこの上なく美しく微笑んだ。俺たちの復讐の最初の獲物は、あの肥え太った豚に決まった。




