億の平伏、復讐の軍勢
静まり返った酒場を後にし、俺と椿は再びあの薄暗い路地裏へと戻っていた。
俺の右手にある短剣の刃は、赤く濡れている。
10年間、泥水をすすりながら耐え続けてきた屈辱を、ようやく一つ、自らの手で雪ぐことができた。 だが、これはまだ始まりに過ぎない。
俺が首を落とすべき本当の仇は、こんな街の小悪党ではない。帝国の最前線で世界を蹂躙している、実の姉――アルティだ。
「主様。羽虫の処理、お見事の一言にございます」
背後を歩く椿が、椿色の美しい黒髪を揺らしながら、狂信的なまでに熱い視線を俺に投げかけてくる。
彼女は額の一本角を誇らしげに上向かせ、自らの華奢な両手を広げた。
「さぁ、これからは主様の宿願を果たすための時間です。我が主の真なる領土へ、お戻りいただきましょう」 椿が虚空へ向けて、再びその白い指先をパチンと鳴らした。
バリバリバリッ……!! 大気を引き裂く凶悪な音が響き、路地裏の空間が大きく縦に裂けた。
割れた空間の向こう側から吹き付けてくるのは、現世の生ぬるい風ではない。肌を刺すような濃密な魔力と、不毛の乾いた大気の匂い。魔界の風だ。
「――お手を、我が主」
差し出された椿の小さな手を握り、俺は一歩、空間の裂け目の向こう側へと足を踏み入れた。
*
視界が開けた瞬間、俺は息を呑んだ。
そこに広がっていたのは、赤黒い月が浮かぶ、果てしない荒野だった。
そして――。「「「「「おおおおおおおおおおおおおおおッッ!!!万歳!!!」」」」」
鼓膜が破れんばかりの、大地を揺らす地鳴りのような咆哮。
地平線の彼方までを埋め尽くしていたのは、文字通り『億』を超える、異形の魔物と魔族の大軍勢だった。
天を覆う巨大な漆黒の竜。
山ほどもある巨大な巨獣。
洗練された鎧に身を包んだ、凶悪な上級魔族の兵士たち。
そのすべてが、俺と椿が姿を現した瞬間、一斉に武器を掲げ、嵐のような歓声を上げたのだ。
あまりの圧倒的な光景に、俺の身体が硬直する。
俺が……ネズミ一匹しか呼べなかった落ちこぼれの俺が、あの日、無意識にこれほどの化け物どもを世界に呼び出していたのか。
大軍勢の最前線から、ひときわ巨大な影がこちらへと歩み寄ってきた。
全身を禍々しい漆黒のフルプレートアーマーで包んだ、身の丈3メートルはある骸骨の騎士。その眼窩には、妖しい紫色の業火が燃え盛っている。 魔界軍総大将、バアル。
世界の軍隊を一人で壊滅させられる伝説級の不死者が、俺の目の前まで来ると――ドスン、と激しい音を立てて、その場に跪いた。
「――お待ちしておりました、我が至高の君」 地割れのような重低音が、骸骨の顎から響く。
「あの日、幼き貴方様が下された『すべてを滅ぼせ』という御命令。それを果たすため、我ら魔界の全軍、椿様の統率の元で牙を研ぎ澄ませてまいりました。帝国を、世界を、貴方様を阻むすべての首を落とす準備は、すでに完了しております!」
バアルの言葉に呼応するように、背後の億の軍勢が、一斉にその場に膝をつき、平伏した。
地平線の果てまで、すべての魔物が俺一人のために頭を垂れている。
「レオン様。あの日、里の奴らに全てを奪われた貴方様は、もう無力な子供ではありません」 椿が俺の隣に並び、真紅の瞳を妖しく光らせる。
「貴方様は、この世界の王となるお方。さぁ……まずは何処から滅ぼしましょうか?」
億の軍勢の絶対的な忠誠を背に受け、俺は腰の短剣を強く握りしめた。
湧き上がってくるのは、恐怖ではない。全能感と、冷徹なまでの復讐の意志だ。
「――まずは、帝国の前線基地だ。アルティの足元から、すべての首を刈り取る」
「「「「「御意ッッ!!!」」」」」
魔界の咆哮が、復讐の進軍の合図として、赤黒い夜空へ轟いた。




