第四章(5)
リリーと対峙し、剣を交えるキール。状況は残念ながらリリーに有利だと言わざるを得ない。
海の方からは波の音が聞こえる。それよりもはるかに多い剣戟の音。それが防砂林の中に響き渡る。
海水浴にはまだ時期が早く、海風は肌寒さを伴っている。そのせいか、あるいはリルアルドに潜伏している『銀』の連中が何らかの工作を行っているのか、浜辺には誰もいないし、誰かがやってくる気配もない。
さらにキールとリリーの主戦場となっているのは、サンの町からでは見えにくい防砂林。騒ぎになると困るのはリリーたちの方だ。その辺りのことも計算されているのだろう。キールだけがここにやってこれたのは、もしかしたらリリーの手引きなのかもしれない。
そして、状況もそうだが、肝心の戦闘面でもキールはリリーに押されていた。
「――ちぃっ!」
思わず舌打ちが出る。
先ほどまでは激情に任せるように振るわれていた剣だが、今は冷静さを取り戻したようで本来の突き主体の攻撃に戻っている。
最短距離で伸びる剣先。それを二度までは防ぎ切ったが、三つ目を完全には防ぎ切れずに肩を掠める。リリーが昔から得意だった三段突きだ。
キールがまだ『銀』にいた頃、彼女と手合わせしたことは何度もある。その頃のものよりもさらに磨きがかかった鋭い突き。
それも厄介だが、それよりも厄介なものがあった。その速度だ。
剣を突き出す速度ももちろん速い。だが、尋常ではないのはその踏み込みの速度。キールが紋章術で移動しても、剣を振るう前にリリーは目の前に現れる。
どう考えても人間の身体能力を超えている。こういう真似ができる理由は一つしかない。紋章術だ。
だとすれば、紋章術が普及したこの現代の戦いにおいて、その分析が何よりも重要なのだが、その猶予をリリーは与えてくれない。冷静に、そして胸に秘めた殺意を糧にキールの急所を的確に貫こうとしてくる。
それに対してリリーはキールの紋章術を当然のように把握している。この時点でハンデの差は大きい。キールがどこに移動しても、リリーは驚きもせずに淡々と距離を詰めて攻撃を仕掛けてくる。
もっとも逆転のカードがないわけではない。先日目覚めたキールの新しい紋章術。手で触れたものを移動させる紋章術。これを使えば、リリーを止めれる可能性は高い。
しかし、キールはその紋章術の使用を躊躇っていた。
その心情をリリーは見透かす。
「使えばいいじゃない。どんな手段でも目的のためなら何だってする。そういう組織でしょ、『銀』は」
どうやらキールの新しい紋章術はバレているらしい。相手はアイロシオン大陸随一の大国で、『銀』だ。諜報なども行う仕事柄、知られていたとしても何の不思議もない。
「さっきも言ったけど、俺はもう『銀』じゃない」
「この国の騎士様だから、無闇に殺せないってわけ? 違うでしょ?」
リリーはキールの言葉を鼻で笑い飛ばした。そして、一際鋭い突きを繰り出す。キールはそれを剣の腹で受け止めた。
予想以上に強い突き。キールは思わず数歩後退した。
いや、違う。鋭くはあったし、今までよりも威力は高かった。だが、所詮は細い剣による突きだ。キールの体を押しのけるほどの威力は到底ない。そうさせたのは物理的なものではなく、精神的なものが理由だった。
リリーは形のいい唇を曲げた。
「後ろめたいからでしょ?」
その通りだった。
仲間を殺したという事実が、泥の中に沈んでいるかのようにキールの体を、心を鈍らせる。
当たり前の話だが、リリーはそんなキールの心情に配慮することはない。威嚇するように枯れた松の積もった砂を踏み付け、キールの懐にまたしても一瞬で潜り込んだ。
だが、そういう速度でやってくるとわかっていれば対処もできる。キールは体を砂浜に倒して、その突きを避けながら、右足をリリーの腹に当てた。リリーが突っ込んでくる勢いと、キールが倒れ込む力を利用して、リリーを後ろに投げる。
リリーの体は空中に放り投げられたが、空中で体勢を整えると、軽やかに砂浜に着地した。
立体的な戦いを得意とするキールには及ばないが、リリーも『銀』の一員として身のこなし方は心得ている。ダメージを負うようなことは期待していない。キールが見定めたかったのは、もっと別のことだ。
「おまえの紋章術、『軽量』ってところか」
キールは観察していた。彼女が着地した際に埋まった足を。女性で体重が軽いことを差し引いても、あまりにも浅い。それに先ほど投げ飛ばした時も、異常なほど重さを感じなかった。
考えられるのは、彼女が軽くなっているということ。それも人として考えられないぐらいまで。そう考えると、その異常な速度も説明できる。軽くなれば、物質に作用するエネルギーは大きくなる。それを利用して、リリーはあの速度を生み出しているのだ。
「予備動作は『足を踏み付けること』だな」
あれからいきなり動きが変わったので、こちらの方は最初から予想が付いていた。あの短い時間で二回もその動作を見せたということは、紋章術の持続性はそこまで高くないと思われる。
答えを期待していたわけではない。当たっていたとしても、それを肯定して余計な情報を与えるようなことはしないだろう。
それを理解していながらも、キールがそんなことを口走った理由は実に女々しい。話を逸らしたかったのだ。
そのキールの心を知ってか知らずか、リリーは指摘を無視して訊ねる。
「キール、今、あなたは楽しい?」
その唐突な質問にキールはわずかに動揺した。表情には出さなかったつもりだが、リリーはその隙を見逃さずに間合いを詰めた。とっさにキールは後ろに後退すると同時に、紋章術を発現させ、リリーの背後に回り込む。
しかし、それは読まれていた。リリーは右足を軸にして体を半回転させると、そのままの勢いで後ろに現れたキールに襲い掛かる。思わず反撃しようとするが、リリーに対する負い目が枷となりキールの体の動きを鈍らせる。
それはこの戦いにおいては致命的な隙だ。反撃する前にリリーの剣がキールの目に迫る。
何とか目玉が串刺しにされる前にかわすことができたが、こめかみを剣先が掠めた。血液の温かな感触が涙のように頬を伝う。
だが、そんなものに構っている余裕はない。リリーの連続した突き。キールは二つの剣でそれを辛うじて捌いていく。
防戦一方になるキールに容赦なく突きを放ちながら、リリーは口を開く。
「楽しいでしょうね。あなたはそういう表の世界に憧れてたみたいだったから」
リリーに話した覚えはなかったが、見抜かれていたらしい。さすがは姉代わりだった女性だと言うべきだろう。
「あなたが表の世界で生きてくことはあなたの勝手よ。だけど、フレッドを殺した責任はどう取ってくれるの!?」
感情のこもった一際強い突き。致命傷は防げたが、逸らした剣が今度はわき腹を掠め、皮を一枚持っていく。そこからも血が流れ出し、服が染め上げられるのを感じる。
間髪入れずに繰り出される突き。今度は首筋の皮膚が持っていかれた。あと少しで頸動脈が切り裂かれていた。
そこから始まる怒涛の突き。まるで篠突く雨のようだ。キールはその嵐のような攻撃にさらされながら、致命傷になるものを何とか防ぐ。
それでも、キールは尻もちをついた。致命傷は防いだが、無数の切り傷から夥しいほどの血液が流れている。しかし、出血多量によって力が抜けたわけではなかった。どちらかと言えば、精神的なダメージの方が大きい。要するにリリーの憎悪に心が折れてしまったのだ。
そんなキールの喉元にリリーは細剣の切っ先を突き付けた。
死にたいわけではないが、殺されるべきなのかもしれないと思った。姉代わりだった人物にここまでの憎悪と殺意を抱かせてしまった。なら、彼女に殺されてやるのも一興なのかもしれない。
それで彼女へのけじめはつけられるだろう。
「これでフレッドへのけじめがつけられるわね」
キールが思ったものとは似ているようで違う言葉。それがキールの体を無意識のうちに動かした。
キールは手に持った剣を振って、リリーの細剣を弾いた。完全に心が折れてしまったと思っていたのだろう。その思わぬ行動にリリーは目を見開く。間髪入れずにキールは立ち上がり、左手に持っていた剣をリリーに投げ付けた。リリーは飛びずさりながら、その剣を自分の剣で防いだ。
「この期に及んで死にたくなくなったわけ?」
リリーの侮蔑の入り混じった言葉。胸に刺さらないと言ったら嘘になるが、キールはそれを肯定した。
「ああ。死にたくないね。俺は死にたくない」
キールはため息交じりにそう言い、右手に持った剣の切っ先をリリーに向けた。
「さっきの質問に答えてやる。俺は今の生活がたまらなく楽しい」
それは嘘偽りのない答えだった。
「別に俺は騎士になりたいわけじゃない。他に食っていける手段が思いつかなかっただけだ。それだけの理由で俺は騎士学校にいる」
はっきり言って成り行きだ。探そうと思えば、他にも道はいくらでもあったのかもしれない。
――しかし、
「イヴの世間知らずなところに振り回されたり、フィーネに理不尽なことで追いかけ回されたり、エリスの世話を焼いたり、教官にしごかれたり、ジンやリンクとくだらない話で談笑する毎日が楽しいんだ」
それはキールにとって何よりも価値があるものだ。
「フレッドへのけじめ? それはたぶん、俺が死ぬことじゃない」
そこまで言い放ったところで、リリーが紋章術を発現させ、キールに向かって飛び込んできた。その身にまとう雰囲気には隠しても隠し切れない怒気が入り混じっている。
それに対してキールは一歩足を前に踏み出すと同時に、紋章術を使用する。
「わかってんのよ! 後ろに現れることぐらい!」
リリーは背後に一瞬目をやって、息を飲んだ。そこには誰もいない。現れる気配もない。
キールが選んだ紋章術による移動先はリリーの正面。進行方向上のほんのわずかの距離を紋章術で潰したのだ。
アインに言われていた『背後に回り込む癖』をまったく意識しなかったと言えば嘘になる。だが、リリーには正面からぶつかりたいと思った。いや、そうするべきだと思った。それが彼女にキールが見せれる精一杯の誠意だ。
しかし、リリーがキールのその行動に戸惑いを見せたのは一瞬だった。リリーはキールが『銀』の構成員だった時から最前線で活躍していた。あれからも活躍していたとすれば、実戦経験は今のキールなんかよりもはるかに多い。
冷静さを取り戻したリリーは、懐に潜り込もうとしているキールから距離を取り、その首めがけて剣を突き出した。だが、キールは止まらない。止まる気もない。
しかし、死を受け入れるつもりもない。キールは躊躇わずに左手をその剣の前に出した。
「――ぐっ!」
左手に剣が突き刺さる。容易くキールの手のひらを貫通し、当初の目的通り首へと迫るが、その左手を握り締めて強引に剣を止める。そして、無理矢理進行方向をキールから外した。キールが剣を握り締めているので、リリーは再度突くこともできない。そもそも、そんな暇もなく、キールはリリーとの間合いを詰めた。
剣で刺そうと思えば刺せたが、キールはそれを選択しなかった。右手に持った剣を手の中で回転させ、その柄をリリーの腹にめり込ませる。その痛烈な一撃はリリーの意識を一気に刈り取り、剣を持つ手から力を奪った。次いでキールに寄りかかり、リリーはその体重を預けてきた。
「あいつへのけじめは俺が死ぬことじゃない。あいつに見せつけてやることだ。おまえが選ばなかった道はこんなに楽しいものなんだって。そうして羨ましがらせてやることが、俺があいつにできる唯一の罪滅ぼしだ」
自分勝手な話だ。自分が生きることに対する言い訳のようにも感じられる。それでも、キールはそう信じる。そう信じることしかできない。
「そのためにも全力で生きてやる。おまえが納得できるとは思えないけど」
「……そうね。わかってるじゃない」
意識が朦朧としているためか、その声に力は感じられない。接近し過ぎているので、表情も見れない。しかし、その声にはどことなく懐かしいものを感じた。
「私はあなたを許してあげることなんてできないと思う。たぶん、一生ね。どこかで鉢合わせすれば、殺意を抑えることなんてできないわ」
「ああ。そうだろうな」
愛しい人を奪った人間に対する当然の反応だ。この罪はキールが生涯背負わなければならないものだ。
「でも、あなたがそう信じるんならそうして生きなさい。宣言通り全力で毎日を楽しみなさい……」
リリーの姉としての最後の言葉。それを心に染み渡らせるようにキールは一度だけ目を閉じた。
キールが目を開けた時には、すでにリリーの意識はないようだった。
力を失くした彼女の体を受け止め、地面に横たえる。リリーの髪に砂が絡みつくだろうが、そんなことを気にしている余裕はない。キールも重傷だ。
左手に刺さった剣を一気に引き抜く。痛みが一気に襲い掛かり、決壊したため池のように血が勢いよく流れ出した。それを口と右手を使って持っていたハンカチできつく縛り上げた。白い布地が瞬く間に赤く染まる。気休めにしかならないのはわかっていたが、これ以上どうすることもできないので諦めた。
傷口はこれで仕方がないとしても、リリーのことはどうするべきか。キールは思案する。相手は『銀』。他国の諜報員をこのままにしておいていいはずがない。
仮にも騎士を目指すもの。彼女を拘束するべきなのだろうが、かつては家族に近い人間だったのだ。気乗りはしない。
しかし、キールの心情など気にする場面ではない。彼女たちが何の目的でここにやってきたのか知る必要があった。
キールがリリーの体を抱え上げようとして、その声が聞こえた。
「悪いね、キール。リリーをこの国に渡すわけにはいかないんだ」
「――っ!」
とっさに飛びずさって、キールはリリーから離れた。それと同時に響く風切り音。
キールはいつものように剣を両手に構えようとして、一本しか手元にないことに気付いた。もう一本は投げたまま、まだ回収していない。それにそもそも左手は剣なんか握れる状態ではなかった。
仕方なく右手だけで剣を構える。手数は半減。これでは勝つのは難しい。しかも、相手がこれほどの手練れならばなおさらだ。
緊張感を顔に表すキールの目に映るのは、『銀』の団長のシーモアだった。変わらない顔の上半分を覆う仮面。体は旅人がよく使う長いローブをまとっている。その手には剣が一本握られていた。
「団長……」
キールの声を聞いて、シーモアは口元に微笑みを浮かべた。
「昨日は遠目だったからね。よく見るといい男になったじゃないか、キール」
キールは物心ついた時から『銀』にいた。なので、親というものを知らない。そんなキールが唯一親と呼べる人物。そして、戦い方を教わった師匠と呼ぶべき人物。それが『銀』の団長シーモアだ。
「ここでリリーとぶつかるのは予想外だったが、どうやらいい方向に働いたようだ。昨日はちょっと元気がなかった――というよりも、迷いがあったように思えたから気になっていたんだ」
ブランクがあるにもかかわらず、シーモアはこうして親のような言葉をかけてくれる。しかし、今のキールはこの国の騎士見習いで、シーモアは不法入国者だ。その立場上、キールはシーモアに剣を向けなければならない。
そんな愛弟子の態度に気を悪くした様子もなく、シーモアはキールに訊ねる。
「その迷いはおそらくフレッドを殺してしまったことにあったんだろうね。解決できたのかな?」
「……はい。団長がどう思われるかわかりませんが、俺は俺なりに人生ってのを楽しんで、あいつに見せつけてやるつもりです。『銀』ではないこの場所で」
キールのその回答を聞いて、シーモアは笑みを深めた。
「なるほど。それでいいさ。私もそれがフレッドへの手向けになると思う。せいぜいあの子を羨ましがらせてやるといい」
シーモアはそう言い残すと、リリーの体を担ぎ上げた。その際にまとっているローブがめくれて、その下に着ている服が見えた。血に濡れている。この国の騎士――特に上位騎士のような連中がただで彼らを逃がすとは思えない。ここに来るまでの間に激しい戦闘を繰り広げてきたのを物語っていた。
その傷の弊害もなさそうにリリーの体を肩に担ぐシーモア。それを合図とするように眼鏡をかけた幼い少女が、頭上から降り立ちシーモアの傍らに立った。エリスやイヴよりもはるかに幼い年齢だが、キールにとっては驚くに値しない。キールだってあの年齢の頃には戦場に立っていた。『銀』とはそういう場所だ。
彼女は小声で何かを語りかけ、シーモアはそれに頷いた。立ち去ろうとする気配を鋭敏に感じ取り、キールは叫ぶ。
「団長!」
「すまないね、キール。久方ぶりに会った愛弟子と積もる話もあるが、今日のところはお預けだ。怖い怖い赤鬼さんもやってきているようだしね。また会えたら酒でも酌み交わすとしよう」
何か返事をする間もなく、シーモアは足元の砂をキールの顔面めがけて蹴り上げた。キールはそれを避けるために一瞬視線を逸らす。そして、目線を戻した時には彼らはもう姿を消していた。
この国に上陸する際に利用したと思われる小船はまだこの場にあった。これが第一の手段だったと思われるが、当然、彼らがここから脱出する手段はこれだけではないのだろう。このリルアルドに潜伏している『銀』の連中が手引きしている可能性も高い。そうなると、脱出までに捕まえるのはほぼ不可能だと思われた。
キールとしては複雑な心境だった。『銀』の連中に逃げられてしまった悔しさはあるが、その反面、家族のようだった存在とこれ以上戦わずに済んだことにホッとしていた。キールは右手に握り締めていた剣を腰の鞘に戻した。
投げたもう一本の剣を回収し、その剣も腰の鞘に戻したところで背後から近付く気配に気付いた。
「どうやらそっちも逃げられたみたいね」
キールが振り返ると、そこにアインが立っていた。全速力で浜辺を走ってきたようで、靴は砂まみれになっている。悔しそうに歯噛みするアインに、キールは「すみません」と頭を下げた。
「構成員の一人は倒したんですが、拘束する前に団長が現れまして、その構成員と一緒に逃げられました」
「くそ。ってことはやりたい放題やられて、得るものなしってことじゃない。完全にこっちの負けね」
地団太を踏みそうな勢いのアインにキールは「すみませんでした」ともう一度謝った。すると、アインはその謝罪を振り払うようにひらひらと手を振った。
「あんたの責任じゃないわ。仮にも相手は団長。一級の紋章師でもそう簡単に止めれる相手じゃないわよ。あたしたちですら無理だったんだから。あんたにお咎めはあり得ないわ。それにあたしたちにもないでしょう。あんな隠し玉があるなんて知らなかったし。ま、校長のお小言ぐらいは仕方ないかもしれないけど」
『校長』というのは騎士学校の現校長のことである。ちなみに上位騎士の序列第一位――つまり実質的なトップも務めている。上位騎士の第一位は代々騎士学校の校長を務めることになっていた。
「隠し玉?」
アインが取り逃がすほどのもの。キールはそれが気になり首を傾げたが、その様子を見てなぜかため息を吐かれた。
「あんたも知らないみたいね。――まあいいわ。とにかく何人か騎士を動員して探すしかないでしょう。人手を集め終わる頃にはもう逃げ出してる可能性が高いけど」
手がかりもなくなった状態で、逃げに徹した『銀』を探し出すのは困難だ。それをアインも理解しているだろうが、懐から紋章術の施された紙を取り出し指示を出し始めた。キールはそれを聞きながら、緊張が解けたためか、その場にへたり込んだ。
海に晒されているせいで、塩気を含んだ砂。それが左手に触れて痛みが走った。軽傷というには少々痛過ぎる怪我。だが、これはキールが一歩を踏み出した証だ。今を精一杯生きるという大きな一歩を。
それを誇るように痛むのを気にせずに、キールは一度だけその左手を強く握り締めた。




