第五章(2)
クリュティオスの森。様々な戦場に行く騎士学校の生徒を含めたリルアルドの騎士たちは年に二度ほどここで戦闘訓練を行うが、それ以外はほとんど誰も足を踏み入れない深く古い森。
その森の名物とも言える巨大な樹木の頂上近くにキールは立っていた。眼下にはキールたちの戦闘相手となる『銀』の実行部隊三人。キールの相手はその中の一人――フレッド・シーカーである。一言では語り尽くせない間柄の人間だが、『銀』で何年も過ごしてきたキールだ。情で手が鈍るなんてことはない。そもそも、あの男を相手に手をわずかにでも抜けば、瞬く間に殺される。
そのフレッドが不意に立ち上がり、次いで構成員らしき人物が近付いてきた。どうやらリルアルドの騎士たちが動き出したようだ。打ち合わせ通り、雑兵をこの場から引き離してくれるはずだ。
キールは息を整える。殺意は胸の奥底にしまい、無機質に敵だけを殺す。それは『銀』の時代に培った技術だ。今でもその技術は体に染み込んでいる。
そして、そのまま倒れるようにして樹木から真っ逆さまに飛び降りた。懐から今朝ラッセルのところから仕入れた投擲用のナイフを数本取り出し、それを地面に向かいながらフレッドに投げ付けた。
奥底にしまったはずの殺気。それでも、わずかに滲み出たのを感じ取ったのか、フレッドは長剣を引き抜き一閃する。それだけでキールが放ったナイフは全て叩き落とされてしまった。
フレッドの実力はよく知っている。これで仕留められるなんて思っていない。キールは腰の鞘から剣を抜き、逆さまになった状態でフレッドと切り結んだ。
お互いに傷は付けられない。フレッドは半歩その場から下がり、キールは猫のようにしなやかに腐葉土の上に着地する。フレッドの背後には『銀』の実行部隊と思われる女性と少年。
「はははっ。やっぱりやるなー。あのフレッドと逆さまの状態で斬り合うなんて。やっぱりちょっとぐらい味見したいなぁ」
例の子供が好戦的な笑みを浮かべて、剣を鞘から引き抜いた。一際強くなる殺気。二桁になるかならないかという年齢の子供が出すものとは到底思えないが、キールはそれに目もくれない。フレッドに集中することで手一杯だし、彼の担当はキールではない。
「あんたの相手はこっちだって――のっ!!」
フィーネが茂みから飛び出して少年の斜め後方から襲いかかった。紋章術で宙を飛ぶようにして突撃したので、普通にこの足場の悪い腐葉土の上を走るよりも速い。
少年は「わっ!」と驚きながらもフィーネの槍の先端を剣で受け止める。一戦すでに交えているので奇襲が防がれることは予測していたのか、フィーネは慌てずに左手をかざして小さく「ぶっ飛べ」と呟いた。瞬間、そこから突風が生まれ、不意の襲撃で体勢も整えられていなかった少年の体を軽々と吹き飛ばした。
「テオっ! ――っ!?」
森の奥に吹き飛ばされた少年を女性が追おうとして、その踏み出しかけた足を止めた。
先ほどの少年の殺意とはまた種類の違う燃え盛る炎のような殺気が、周囲を包み込んだ。
女性がその殺気を受けてその発信源を見る。その視線の先にはアインが立っている。いつもと違い、その赤い髪が一つに束ねられていた。あれは本気で戦う時の姿だ。そのアインは女性に向かって手招きをして、森の奥に移動する。詳しいことは知らないが、因縁があるのは事実のようで彼女はアインを追う。
フィーネも吹き飛ばした少年の後を追いかけようとして、不意に拳を突き出してきた。
「私、変わるきっかけをくれたあんたには感謝してるんだからね。その借りも返させないでいなくなるんじゃないわよ。そいつに死んでも勝たなくちゃ許さないから」
それだけ言い残し、フィーネはアインとは別方向に駆け出した。
それぞれの気配が知覚できなくなったところで、フレッドは長剣を真横に構えた。キールもそれに呼応するようにして、剣を逆手に持つ。
一触即発。空気が張り詰め、キールがそれを切り裂くようにして斬りかかろうとした時だった。フレッドの唇が動いたのは。
「……隠れても無駄だぞ、花彫。キール並の技量があるならともかく、おまえの気配の消し方は完璧じゃない」
いる場所まで見抜かれているようで、フレッドは視線をキールの背後にやった。イヴが茂みを掻きわける音が聞こえてきた。促される形にはなったが、イヴは元からフレッドに見える位置でキールを援護する予定だった。奇襲が通じる相手ではないので、見える位置から矢を構えていた方がまだ牽制になる。
そんなキールたちを見て、フレッドは小馬鹿にするように鼻を鳴らした。
「正気の沙汰とは思えないな、キール。少しぐらい弓が使える奴が増えたところで俺とおまえの差が埋まるとでも?」
「おまえと最後に会ってから四年。この国で騎士になるために力を磨いてきた。やってみなくちゃわからねえだろ!」
キールはフレッドに斬りかかった。
キールの攻撃を容易く防ぐフレッド。手数はキールが圧倒しているが、巧さはどうあがいてもフレッドには届かない。
「――っ!! やっぱり昔よりも剣の捌き方がうまくなったな、フレッド」
「当たり前だ。鍛錬を一日たりともサボったことはない。四年前と同じなわけがないだろう」
キールの連続攻撃の間隙を縫ってフレッドが剣を強く振った。それを剣で防ぎつつも後退を余儀なくされるキール。そのキールの目に映ったのは剣を振り上げたフレッドに向かって飛ぶ一本の矢。イヴも殺らなければ殺られるということを理解しているようで、躊躇いのようなものは見られずに喉めがけて飛んでいく。しかし、フレッドは右手を剣から離して、無造作にそれを掴んで止めた。
「……嘘」
フレッドは手の中でそれを持ち替えると、イヴに投げる。それを紋章術でイヴの前に移動したキールが片方の剣の腹で止めた。
フレッドは長剣の峰を肩に乗せ、キールを鋭利な刃物のような視線で睨む。
「おまえは反対に弱くなったな、キール」
「なんだと?」
心外だと言わんばかりに眉を寄せるキール。
リルアルドの騎士は強さを第一に求められる。そのため、戦闘訓練は欠かしたことがない。その腕前は当時よりも間違いなく上がっているはずだ。事実、キールの腕前は騎士学校の中でもかなりのもので、正騎士となった卒業生と遜色ない。
それを証明するようにキールは紋章術でフレッドの懐に飛び込んで、剣を振るった。それをいつの間にか持ち替えていた右手の長剣で抑え込み、左手でキールの肩を掴んだ。次の瞬間、キールの腹部に衝撃が走った。鳩尾に膝が埋まっている。内臓にダメージが入ったのか、血飛沫を口から飛ばしながらキールは後方に投げ出された。
「キールっ!!」
一本では防がれたので、今度は三本一斉にフレッドに向けて矢を射出するイヴ。キールに蹴りを繰り出したために今度は防げる体勢ではない。だが、フレッドはその矢を一瞥しただけで特に慌てるような素振りは見せなかった。
ジャラとどこからともなく金属の擦れる音が聞こえる。その正体がキールにはすぐにわかった。フレッドの紋章の特性である『鎖』が伸びる音だ。しかも、おそらく一本二本の話ではない。地面を転がりながらキールが見た光景は何本もの鎖が壁のように矢の進行方向に立ち塞がり、フレッドを守るものだった。
「……げほっ!」
肋骨は折れていなさそうだし、内臓の傷もそれほど深いものではないようだが、強烈な一撃だった。すぐには立ち上がれずにキールは咳き込んで血の飛沫を吐き出す。
どう考えても致命的な隙に対し、フレッドは動こうとしない。じっとキールを凝視するだけだ。正確にはその視線は服が破れて露出したキールの右肩に視線が集中している。
「リーンの花」
フレッドはぽつりと言った。それはキールの右肩から覗くイヴによって彫られた花の名前。気候が合わないためかリルアルドには咲いていない花だ。
「おまえはその花言葉を知っているか?」
唐突にそんなことを言われ、キールは口の端から血を流しながらフレッドを見つめ返す。さすがは『銀』で何年も同じかまの飯を食っただけのことはある。それだけでキールの回答を読み取ったようだ。
「その顔は知らないようだな」
知るわけがない。彫られた紋様がリーンの花であることぐらいは知っていたが、その花言葉なんて考えもしなかった。
「花彫――というより、あいつら一級の彫り師が彫られる側の願望や信念をくみ取って、紋様を彫るのは知っているか?」
「まあ――なっ!!」
キールは立ち上がって懐から取り出した数本のナイフを投げる。フレッドはそれを剣ではなく、どこからともなく出現させた鎖で阻ませた。
攻撃されたことなど意にも介さず、フレッドは続ける。
「花彫と呼ばれる家系の連中は、その願望や信念に近い意味を持つ花を彫るらしい。おまえのその花の意味はな……」
「やめてっ!!」
いつもはのんびりとしたイヴの珍しく慌てた声。それと金属音が重なる。イヴの放った矢をフレッドが長剣で止めた音だ。
フレッドはイヴに目も向けない。その冷た過ぎる目はキールを捉えて離そうとしない。その目でキールを射抜いたまま、フレッドは静かに告げた。
「『逃避』。リーンの花の意味はそれだ」
心臓がどくんと脈打つのを感じた。これ以上、喋られると取り返しのつかない事態になる。
本能でそれを感じ取ったキールはフレッドを黙らせるために駆け出していた。しかし、鳩尾のダメージが思ったよりも大きく、いつもの俊敏性は見る影もなくなっている。
フレッドは紋章術も長剣も使わずにキールの顔面を掴むと、間髪入れずに押し倒した。後頭部を強打して、視界が暗転しかける。
「ついでに言うとな、キール。紋章術って言うのは無限の特性の中から無作為に選ばれるわけじゃない。法則がある。そいつが持つ願望や信念、あるいは育ってきた環境やらが影響するらしい」
「何が……言いたいっ!?」
駄々をこねる子供のように右手に持った剣を逆手に持ち替えて、フレッドの首を刺そうとするが、それを左手の長剣で抑え込まれて傷一つ付けられない。
フレッドが笑う。四年前までは何度も任務で組んだ仲だ。一般人に溶け込む時には何度も笑顔は見た。だが、その仮面の笑みとは明らかに違う残虐性を秘めた笑顔。
「だとすれば、おまえの特性は『逃避』。おまえが何から逃げたかったのかなんて、すぐにわかる。言ったことがあったからな。拾われた場所が『銀』ではなかったら、とな!」
剣技が飛び抜けて優れていることは事実だが、フレッドは膂力も凄まじい。フレッドは顔面を掴んだ右手でキールの体を持ち上げ、力任せに投げ付けた。背中から地面にぶつかり、先ほど鳩尾に受けた蹴りの効果も相まって激痛が体中の神経を駆け巡る。
だが、その傷よりも別の部分が痛む。
フレッドの指摘は当たっていた。キールは『銀』にいることが嫌で仕方がなかった。
一言で言えば『銀』は汚れ役だ。その中でキールは暗殺を任せられることが多かった。子供だったので油断させられるという点を考慮されたのだろう。血の臭いがしない日はないほど、殺して殺して殺し尽くした。
売られたのか、それとも捨てられたところを拾われたのかわからない。物心付いた頃にはそんな仕事をしていて、キールにとってそれは生活の一部になっていた。キールだけではない。『銀』にいる人間はほとんどがそうだ。
しくじれば即座に死を意味するような過酷な仕事もある。昨日組んだ人間が今日にはいない。そんなことは日常茶飯事だ。
その『銀』でキールは生き延びてきた。同じような境遇で少しばかり年上、ついでに割り当てられた部屋まで一緒のフレッドと共に。
キールは立ち上がり、ナイフを数本投げて牽制した後、再びフレッドと切り結ぶ。
正直に言うのなら、キールは『銀』という組織に嫌悪感を抱いていた。『銀』は闇の中の存在だ。血生臭い仕事ばかりで、子供の頃からそれを繰り返される。もっと普通な生き方をしたいと思うのは至極当然の話だった。
その願いを持ち続けた結果、キールは『銀』から脱走し、リルアルドにやってきた。そこで真っ当な職業である騎士を目指し、今ここで昔の仲間と殺し合いを演じている。
そのかつての仲間はキールの殺意に塗れた攻撃を全て受け流しつつ言った。
「『銀』ではない、もっとまともな世界で生きたい? そう思うのはおまえの勝手だ。だけど、逃れられるわけがないんだ」
「何を根拠に……っ!!」
「人の在り方にはな、それぞれ役割が決まってる。俺たちはまともになんかなれはしない。そういう風に作られたんだからな。現におまえの動きは暗殺者のものだ」
その言葉でキールの太刀筋がわずかに鈍った。それを見逃さずにフレッドはキールの胸を長剣の柄で殴り飛ばした。追撃を食らわせようとするフレッドの動きをイヴが矢で止める。
キールは紋章術でフレッドの背後に移動し、その首筋に剣を走らせるが、それも読まれていたようでフレッドは振り返りもせずに長剣でそれを止めた。
「そら見ろ。おまえは相手を真っ先に殺すことを考える。相手を倒すという目的ではなく、相手を殺すという目的で体が動く。最初に見せた投擲術もそうだ。おまえは全て急所に向けて投げ付けていた。防がれるのは承知の上だったんだろうが、見事なものだった」
キールは目を見開いた。そのキールを顔だけを振り向けたフレッドが見て、ギチギチと剣を鳴らしながらせせら笑う。
「やはり無意識だったか。それでも体は自然に動く。『銀』に戻って少し訓練を積めば、数日で現役復帰は可能だろうな」
そう言われて、キールはフレッドから距離を取った。それは精神的なものから来る後退ではない。肉体的な違和感から来るものだった。肩甲骨から右肩の辺りに違和感を感じる。そこは紋章が刻まれている場所だ。
イヴに紋章を入れてもらって数年が経つ。こんなことは今まで一度もなかった。うまく言い表せないが、何かがおかしい。
怪訝な顔をするキールにフレッドは剣の背を肩に乗せる。
「顔出してきたな。そんなおまえに一ついいことを教えてやる。おまえはゼーレン――サソリの紋様を持つあの男がどうしてあんな姿になったか知っているか?」
キールは警戒心を解かないまま、沈黙を保つ。それが続きを促していると思ったのか、フレッドは言う。
「あれはな、紋章が暴走した姿なんだよ。だけど、ああいう風になるのは一級の紋章師だけ。それがなぜだかわかるか?」
「キール、ダメ! 聞かないでっ!!」
フレッドは取り返しのつかない言葉を突き付けようとしているとキールは理解している。おそらくはキール以上にそれがわかっている一級の彫り師であるイヴはその先を言わさないように矢を放つが、フレッドは長剣を横に払って簡単に弾き、唇の端を釣り上げる。
「一級の紋章というのは信念や願望に寄生する。それが暴走するっていうのはな、根底にあったものが崩れ去ったということなんだよ。おまえにはすでにその兆候が表れている。おまえの願望は『銀』からの『逃避』。だがな、はっきりと言ってやる。四年間、ここで騎士を目指したところで誇りなどとは程遠い暗殺の技術を捨てることはできなかった。まともな世界とやらで長い時間を過ごしたとしても、その血生臭さは消えなかった。――おまえはまともになんかなれない」
それが鍵となって自分の中にある何かの扉を開けた。紋章が一際強く疼き、全身の神経がかき乱されているかのような不快感が襲ってくる。
「ああぁぁぁああああああああああああああああああああああああぁぁぁっ!!」
痛みとも違うその感覚に突き動かされ、キールは絶叫する。その悲鳴が森に響き渡った。
本当は心のどこかでわかっていた。まともな世界に身を置いても拭い去ることのできない過去の自分。まともになりたいと思いつつも、その自分がそれを許そうとしない。常に暗殺なんて非日常的なものに怯える悪癖もその一つとして数えられるのだろう。
リルアルドの騎士見習いという仮面を被った『銀』の自分。どんなに願っても根底にあるものから逃れることはできない。
「ようやく自覚したようだな、キール。だから、おまえは醜いんだよ」
フレッドの嫌悪感に塗れた言葉。反論の余地はなかった。
抱き続けてきた願いが脆くも崩れ去る中、キールの視界に肌の露出した右手が入り込んだ。キールの右肩に入っているリーンの花。そのつるらしきものがそこまで浸食している。
このままでは紋章に飲み込まれるとわかっていながらも、キールにはどうすることもできない。そもそもそれに抗うだけの理由も見出せない。どうあがいたとしても、『まともな自分』の存在価値すらも見つけられないのだから。