第三章(2)
大体どんな物語であっても、終盤が一番盛り上がる。それはこの祭りも例外ではなく、夜の帳が落ちてから更なる賑わいを見せていた。花火が上がり始めたのである。
花火は大通りから見やすい角度で上げられ、ほとんどの人はそれが見える位置に移動する。本来ならばアインも酒を片手にそれを見物したいところだが、運が悪いことにその時間帯は見回りの任務が入っていた。上位騎士であっても、その義務からは逃れられない。
さらに運が悪いのは、今日は見回りのかいがあったということだ。
「さてさて、あんた何者よ? 観光客じゃないんでしょ?」
昨日、猫を探していた路地裏の一角。建物に囲まれた場所なので昼間でも薄暗いが、夜になるとさらに濃い闇に包まれる。表通りにあるような火を灯す街灯もない。花火の閃光もここまでは届かない。ここは閉ざされた闇の空間だ。幸い夜目は利くし、暗がりで戦った経験も何度もある。問題はない。
アインが立つ空間は開けた場所で、四方に細い通路が伸びている。小説などで何か怪しげな取引に使われそうな空間だ。
そんな場所でアインに背を向け佇む男が一人。格好や雰囲気は騎士祭を楽しみに来た旅行者のように思えるが、アインの直感はその中のわずかな綻びを見逃さなかった。旅行者とは明らかに違う、もっと深い闇の中にいる人間の臭いを感じ取ったのだ。
それを見抜いたアインはその後を追い、この人気のない場所に辿り着いたのである。
「――ちっ」
舌を鳴らす。アインが歩んできた道を含む四方に伸びた道の先。そこから、こちらに近付く気配を感じた。どうやら誘い込まれてしまったらしい。
暗闇から姿を現し、男たちがアインを包囲する。数はアインが追っていた男を含めて五人。
アインをここまで連れてきた男が不意に振り返る。それに合わせてアインは剣を抜き、その刀身を喉の前まで持ってきた。建物のおかげで少しばかり小さくなった花火の音に混じって、キンッと金属音が響いた。
掃除されておらず、埃の積もった石畳の上に落ちたのは針だった。一目でわかる。毒針だ。あの一瞬、手首がこちらに向けられたので、手首に針を射出できる仕掛けが施されていたのだろう。アインはその軌道を見極めて、剣の腹で受け止めたのだ。
「どうやらどこぞの国の暗部らしいわね。素性はわからないけど、たった五人であたしを止められると思ってるわけ?」
檻から放たれた魔獣のような殺気をアインは放つ。先ほどの舌打ちは誘い込まれたことに対してではない。たった五人で止められると侮られたことに対しての苛立ちだった。
その舌打ちが正しかったことは、終盤に差し掛かった花火が連続して上げられている間に証明された。かつては伝説級の手柄をいくつも立てたアインだ。相手が暗部だろうが、何だろうが問題はない。
たった数秒で、その場で息をしているのはアイン一人になった。
暗闇の中、剣を一度強く振って血を払い落とす。しかし、剣を収めようとはしない。倒した連中とは違う人の気配に気付いているからだ。
相手もそれがわかっているのだろう。隠れるどころか、パチパチと手を叩きながら四方に伸びる路地の一つから姿を見せた。
「相変わらずですね。嫉妬すらも感じさせないほどの腕前です」
修羅場というものはいくつも経験しているし、絶体絶命の危機に瀕したことだって何度もある。それらの経験が精神力を鍛え上げていき、アインの強さの一端を担うようになった。
その強靭な精神を持つアインの頭が、この一瞬だけは真っ白になった。まさかこんな場所にいるわけがないと思っていた人物が、そこには立っていたからだ。
その動揺を胸の内で静め、アインは口を開く。
「……ここであんたが出てくるとは思わなかったわ」
「ええ。私も命令が下るまでは、こんな形で再会するとは思いませんでした」
切れ長の目を向けるショートカットの髪の女性。ソフィア・コールゼン。アインが団長を務めた頃の『赤』の騎士団に配属された女性騎士で、団長であるアインが剣を教えた弟子のような存在。
アインが騎士団の頭を降りてから五年。こんな場所で再会するとは想像もしていなかった。
そして、彼女がここに現れたことでわかったことが二つある。
「つまり、こいつらはクロムガルドの連中ってわけね」
アインは剣の切っ先で周りに転がる死体を示しながら言った。ここにソフィアが現れたということは十中八九そうなのだろうが、余計な情報を与えないためか、彼女は答えようとはしない。
気付いていることはもう一つ。その事実を前にアインは敵意をむき出しにした。
「今は『銀』の手先ってわけね。正道一直線だった騎士が堕ちたものね、ソフィア」
クロムガルドの騎士団の十二色は『白』、『黒』、『青』、『赤』、『黄』、『緑』、『茶』、『灰』、『紫』、『桃』、『空』、『橙』。
その十二色には含まれない『銀』という色。騎士団にして騎士団ではない存在。そんな部隊がクロムガルドにはある。
その『銀』に所属する部隊は様々な任務を遂行する。戦争を起こす火付け役だったり、他国の有力な人物を暗殺することだってある。場合によっては自国の人物であっても手にかける。
十二の騎士団がクロムガルドの表の顔ならば、彼らは裏の顔。公にはできない任務をこなす暗部の部隊――それが『銀』だ。騎士団の一角を任されていたアインでさえも、存在は知っていても全容はわからない。
それほどまでに秘匿された存在であると同時に、女子供でさえも容赦なく手にかけるために真っ当な騎士からは嫌われている組織でもある。クロムガルドは巨大な国なのだから、そういう組織が必要だとアインもわかっていながらも、その存在には嫌悪感があった。
そんな組織にかつての部下が在籍している。その事実が『銀』に対するアインの嫌悪感に拍車をかける。
「あれから五年です。立場だって変わりますよ。それにそんなことは今はどうでもいいでしょう。重要なのは、今の私はあなたの敵だということです」
ソフィアは腰に差した剣を抜く。アインと稽古していた時と同じ、騎士の中でも使用者が一番多い両刃の剣。
その片手剣を構えるソフィア。あの頃は盾も使っていたが、今は持っていない。
対するアインは剣を構えようともしない。ソフィアには稽古を付けていたが、訓練用の剣で打ち合うだけで型らしい型は教えたことがない。そもそもアインには教えることができない。
アインは正式に剣を習ったことが一度もない。その時に合わせて剣を振るう。それは類まれな天性の才能を持つアインだからこそできる芸当であり、それだけで戦場を駆け抜けてきた。とてもじゃないが人に教えれるようなものではない。かつての師弟であっても型が違うのは、それが原因だった。
「行きます」
昔の師に対する礼儀のつもりなのか、ソフィアは宣言するとアインに向かって駆け出した。
暗部にいるだけのことはあり、その敏捷性は昔とは比べ物にならない。だが、アインが反応できない速度ではない。難なく剣を合わせる。最低限の筋力はあるようだが、今までアインが戦ってきた猛者たちに比べれば圧力が足りない。
ソフィアを押し返すと、アインは追撃しようとし――なぜか自分の足が動かないことに気付いた。何が起こったのかアインにはわからなかったが、ソフィアはそれが当然だと言わんばかりに剣を振ってくる。それを受け止めながら、アインはソフィアの唇が微かに動いているのを見た。
金属がぶつかり合う音に混じって何か妙な音が鳴っている。小枝を折るような音だ。それに気付くと同時に自分の足が冷たくなるのを感じ、それでアインは自分の変化を悟った。
アインは剣を横薙ぎに振るい、ソフィアを引きはがすと、力任せに足を動かす。微かな硬直の後、バリッと何かが剥がれる音が耳に届き、アインはその場から離れることができた。
アインは剣の切っ先をソフィアに向けつつ、自分の足下に視線をやった。黒い靴を履いていたはずだが、白く彩られている。つま先を地面に叩き付けると、それが剥がれ落ちた。
その正体は氷だ。見ると、先ほどまでアインが立っていた地面も白くなっており、靴があった場所だけがその浸食から逃れられていた。
「あんたの紋章か……」
アインがその原因を言い当てると、彼女も隠すつもりはないようで「ええ」と首肯した。
今の騎士にとって必須となった紋章。アインが剣を教えていた頃には入れていなかったが、ソフィアの言った通り、あれから五年だ。その辺りのことも変わったのだろう。
「あんたの特性は『氷結』ってところかしら。予備動作は息を吐き出すことと見た」
「さすがですね。あの一瞬で予備動作まで見抜くとは」
二級の紋章は四大元素に縛られることはないが、予備動作という呪縛からは逃れられない。
それを見抜けないと死ぬ場面も少なくなかったので、自然と鍛えられた観察眼の賜物だ。
「いいもの貰ったじゃない。国から入れてもらったのかしら?」
クロムガルドではほとんどの二級の彫り師が国に登録されている。そのため、彫ってもらうには国から要請が行く場合がほとんどだ。自力で彫る場合には結構な額がかかってしまう。
予備動作までバレてしまったのなら、隠す必要もないと思ったのか、ソフィアは息を長く吐き出す。すると、ソフィアの前につららのように先端の尖った氷が作られた。
その数は四つ。そのつららの先端は全てアインに向けられている。
ソフィアが剣を左手を水平に振ると、右から順にそれが射出された。
文字通り鋭い攻撃だが、アインはそれを簡単に剣で全て打ち砕いた。
「当たり前の話だけど、動きを封じるだけの紋章じゃなかったみたいね。大気中の水分を凝固させて操る。それがあんたの特性か」
答える代わりにソフィアは先ほどよりも長く息を吐き出し、倍以上の氷の刃を作る。その氷の刃が次々にアインに襲いかかる。それを避け、避けきれない分は剣で砕きながら迫ってきたソフィアとアインは切り結ぶ。
「剣の腕じゃ敵わないから紋章術に頼ろうってわけ? 『赤』にいた頃はどれだけ実力差があっても剣で挑んできたのに。この五年で根性まで失くしちゃったってこと?」
「挑発は無駄ですよ。これは訓練ではなく、殺し合いです。気に食わないなら、あなただって紋章術を使えばいい。――もっとも、使えればの話ですが」
アインにとっても挑発は無駄だ。そんな劣等感はとっくの昔に拭い去っている。
アインは紋章術が使えない。しかし、紋章を入れていないわけではない。腰の辺りに入ってはいるのだ。
彼女が持つ紋章は三級以下のもの――四級と呼ばれるものだ。巷では粗悪品扱いされ、これを彫る彫り師は詐欺師同然の存在となる。見つかれば、捕縛される可能性も高い。
四級の紋章師は正確にはまったく紋章が使えなくなるわけではない。三級の紋章師と同じように四大元素のいずれかの特性を得ることはできるが、三級以上の紋章師が無意識に行っているコアの制御がまるでできない。
例えばアインは『火』の特性を有するが、三級以上の紋章師が何の危険性もなく同じ紋章術を使用できるのに対し、四級の紋章師はコアの制御ができずに自分の体を燃やしてしまう。炎を投げることも操ることもできない。ただ自らの体を焼くだけの紋章術。戦いで役に立つような代物ではない。
アインがこの紋章を入れたのは十五歳になる前。結論を言ってしまうと、子供だったので騙されたのである。
つまり、アインは紋章術を一切使うことなく、己の技量一つで騎士団長にまで上り詰めたということだ。その辺りも彼女の武勇が称えられる要因だろう。
従ってアインは相手がどのような特性を持っていたとしても、紋章術で対抗することはできない。身一つで敵と戦わなければならないのだ。
その技量を持っている自信はあったが、ソフィアの攻撃は手数がとにかく多い。一本の氷が頬を掠め、そこから一筋の血が流れ出した。それを乱暴に手のひらで拭いながら言った。
「へえ。あの頃はどんなに頑張っても一太刀も入れられなかったのにやるようになったじゃない。紋章術とは言え、そこは誇ってもいいと思うわよ」
「自惚れが強過ぎます。こんな場所でのうのうと生きてきたあなたよりも、今の私の方が強い。最強と呼ばれていたのも過去の話ですよ」
「言うじゃない。で、その実力者さんがこんな国まで何の用? あたしを消しに来たわけ?」
「あなたがこの国にいることぐらい、とっくの昔に掴んでましたよ。偽名なんかで隠す気もなかったようですしね。そんなあなたを消しに来るなんて今更でしょう」
確かにその通りだ。クロムガルドの情報収集能力は凄まじい。例え偽名を使っていたとしてもアインがこの国にいることは数日で知られていただろうし、暗殺しようと思えばとっくの昔に刺客を放っていたはずだ。とは言え、脱走ではなく正規の手続きを経て、この国に渡っているので暗殺などというのは筋違いなのだが。
では、ここにやってきた理由は何なのか、アインは思考を巡らせる。国の暗部がやってきた上に正式な騎士と戦闘になったなんてことがバレれば外交問題、下手すれば全面戦争になりかねない。その危険性を冒してまでやってきた理由があるはずだ。
今のソフィアは仮にも『銀』だ。口を割らせるのは難しい。だが、推察はできる。リルアルドで『銀』が動くほど大きな変化は特にない。リルアルドという国が目的だとは思えない。
大きなヒントとして考えられるのは、ここでアインとソフィアが対峙しているという事実。ソフィアは確かに強くなったが、『銀』もアインを殺せるとは思ってはいないだろう。だとすれば、ソフィアの目的はただの足止めだ。そして、そうしなければならないということ、アインの介入が予測できるほど彼女の身近に目的があるということだ。
ここ最近でアインの身近に起きた変化と言えば一つしか心当たりはない。
「あんたらの狙いは、イヴか……っ!」
無論、ソフィアが答えることはない。黙々と剣を振るうだけだ。
こんな半端な時期にやってきたのだ。イヴに何らかの事情があるのは想像していた。
だが、まさか『銀』を動かすほどの事情だとは思いもしなかった。その事情についてアインは見当も付かない。この場でできるのはソフィアを切り結ぶことだけだ。
そこで再び花火の音が聞こえ始め、アインは不審に思う。花火が上がる時間はとっくに終わっていた。