プロローグ
空には曇天。太陽の光は分厚い雲に遮られ、周囲は薄暗い。
その空を特徴的な深緑の瞳で見つめながら、少女は肌寒さに微かに身を震わせた。綺麗な服を着てはいるが、防寒性に優れたものではない。少女は軽く両肩を擦る。
その寒さに耐える少女の耳に人々の喧騒が届く。町中なので当然なのだが、その声はいつも窓の外から聞こえるものよりも騒然としたものを帯びているように感じられた。
少女は身を潜めている建物の陰から顔を覗かせる。腰に剣を差した数人の男たちが走ってきて、少女の近くで足を止めた。
「救助は他の部隊に任せろ! 我々は現場の封鎖だ! 帝都の人間を近付けるんじゃないぞ!」
小隊長だと思われる中年の男が指示を出し、再び部下たちを伴って大通りを駆け抜ける。その姿を見送った少女はほっと安堵の息を漏らした。
彼らが走り去った方向は今、大通りにいる人間のほとんどが見ている方向だ。その方向には黒煙が立ち上っていた。建物で阻まれているのでその発信源を見ることはできないが、その黒い煙は一目で火事だと教えてくれる。
千載一遇の好機を得たのだから、いつまでもここでこうしてはいられない。
それにこの場から離れたい理由がもう一つできた。
金色の長髪に何かが触れる感触がし、少女は空を見上げる。その瞳に何かが飛び込んできて、少女の視界を揺らした。雨だ。空模様から察するに本降りになるのは時間の問題だろう。
ただでさえこの服は防寒性に優れているわけではない。その上、雨に打たれれば風邪を引いてしまう可能性が高い。そうなって動けなくなれば、この好機も水泡に帰する。
どうにかしなければと、少女は周囲を見回し、眉を持ち上げた。大通りとは逆方向の路地の先。そこに一台の幌付きの馬車が止まっている。少女はそれに近付く。
馬車の中にはいくつもの籠が積まれていた。蓋はされておらず、そこからは畳まれた鮮やかな絹織物が見える。行商人の馬車のようだ。それを裏付けるように開け放たれたままの近くのドアからそれらしい会話が聞こえてきた。
「毎度ありがとうございます。ご注文の品は以上ですね。……それにしても今日は騒がしいですね」
「ええ。どうやら大きな火事らしいですよ。騎士様たちも大慌てのようです」
「騎士の方々がですか? こういうのは火消しの仕事だと思うのですが……」
「あたしも詳しいことはわからないんですけど、どうやら火元が国直轄の建物のようなんですよ。それが関係してるんじゃないでしょうかね?」
「なるほど。そんな建物だとすれば、一般人の目に触れさせてはいけないものもあるかもしれないですしね。面倒事に巻き込まれる前にさっさと撤収した方がいいみたいですね」
「それがいいでしょう。ところでこれからどちらの方に?」
「ラドの方へ。二日ぐらいかかる予定ですけど」
「まあ。それではリルアルドに?」
「いえ、船には乗りますが、行先は別です。しばらく休暇も取れてないですし、騎士祭も近いですから羽を伸ばしたいところですけどね」
そんな女性たちの会話が聞こえてきた。珍しいことにこの馬車の持ち主は女性の行商人のようだ。
褒められた行為でないことはわかっていたが、背に腹は代えられない。それに港町に行くというのは好都合だった。少女は迷いを投げ捨てて、その馬車の中に潜り込んだ。途中で放り出される可能性もあったが、人目に付かずにこの町から出ることが最優先だ。
ギシッと馬車の板が軋む。荷を引く馬は大人しいようで、見知らぬ闖入者の気配に鼻を鳴らしただけだった。少女は籠と籠の隙間に隠れるように身を屈めた。
雨足が強まり、幌を叩く音が大きくなり始める。それに混じって行商人が挨拶を交わす声と板の軋む音が聞こえてきた。幸い行商人は少女に気付かなかった。
馬車が動き出す。石畳の道の上を車輪が転がるため、ガタガタと馬車が揺れる。その心地よい振動と安心感が少女の緊張の糸を解き、急速に眠りへと誘う。その誘惑に耐え切れず少女は目を閉じた。