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愛人のデザインで賞を取った元夫へ。独立して立ち上げた私のブランド、あなたの会社の下請け契約を切る側になりました  作者: タカケンサンバ


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第8話:100万回再生の夜

墨田区の片隅に佇む佐伯縫製の事務所は、まるで嵐の吹き荒れる夜の洋上に浮かぶ、小さな灯台のようになっていた。


無音の十五秒動画をインターネットの海へと投下してから、ちょうど七十二時間――三日が経過していた。

古びたスチール机の上に置かれたノートパソコンのファンが、異常な負荷に耐えかねてキーンと甲高い回転音を上げ続けている。冷却台を敷いているにもかかわらず、プラスチックの底面は触れれば火傷しそうなほどに熱を持っていた。

画面の中央、漆黒のサムネイルの右下に刻まれた数字は、もはや朋香の動体視力では追いきれない速度で回転していた。


――1,048,290 Views.


「ひゃ、ひゃくまん……」

パイプ椅子に浅く腰掛けた佐伯朋香は、両手で頭を抱え込んだまま、喉の奥からヒックと引きつったしゃっくりを漏らした。

目の下にできた隈は三日前よりさらに濃くなっているが、それは絶望のせいではなかった。脳内でアドレナリンが過剰に分泌され続け、睡魔という人間の生理現象そのものが麻痺してしまっていたからだ。

「詩織……! 百四万回よ! 百四万回! たった三日で、墨田区の人口の四倍近い人間が、あの川沿いを歩く私の背中を見たってことよ!? ちょっと、冗談でしょ!? サーバーが焼き切れるんじゃないの!?」


「落ち着いて、朋香。サーバーを管理しているのは米国の巨大テック企業よ。零細工場の動画が一本バズったくらいで壊れたりしないわ」

淹れたての熱いほうじ茶を湯呑みに注ぎながら、詩織は至極穏やかな声で言った。

三日間、彼女はほとんど取り乱す姿を見せていなかった。

ネットがどれほど沸騰しようとも、朝六時に起き、工場の作業台を水拭きし、裁ちバサミの手入れをし、余った型紙用紙を整理する――職人としての変わらぬルーティンを淡々と崩さずにいた。

だが、その瞳の奥には、すべてが自分の計算通りに進行していることを冷徹に見届ける、氷のように澄み切った光が宿っていた。


「落ち着いていられるわけないじゃない!」

朋香はマウスを掴むと、カタカタと震える指先でコメント欄をスクロールさせた。

「見てよこれ! 通知のベルマークが狂ったみたいに点滅して、もう何万件あるのかすらカウントできないのよ! 英語だけじゃないわ、フランス語、イタリア語、スペイン語、アラビア語まである……! 翻訳アプリに通すだけで指が攣(つ)りそうよ!」


ジュリアン・ヴォーンの引用リポストが投火された夜を境に、『L'OMBRE』の存在は、世界中のファッションフリーク、デザイナー、モード批評家たちの間で急速に神格化を遂げていた。

誰が作ったのか。

どこの国の、どんな工房が、何のために放ったものなのか。

デザイナーの顔写真も、経歴も、ブランドの沿革すら一切明かされていないという「完全な匿名性」が、かえって人々の考察欲と熱狂を爆発させていたのだ。


『この生地の落ち方は絶対に既製服のパターンじゃない。かつてクリスチャン・ディオールやバレンシアガが手作業で組んでいた、幻のクチュール技術が現代に蘇ったとしか思えない』

『シルエットの重心が恐ろしいほど低いのに、歩くと羽のように舞い上がる。日本の古い機屋と組んだ、引退した伝説の日本人テーラーが、余生をかけて下町で道楽として作っているのではないか?』

『いや、これは既存のメガメゾンが仕掛けた極秘のゲリラ・プロジェクトだ。過剰なロゴブームとインフルエンサービジネスに中指を立てるため、正体を隠したトップデザイナーが反乱を起こしたんだ』

『どこのメゾンでもいい、頼むから価格を教えてくれ。今すぐ五千ドル振り込む準備がある』

『L'OMBRE――「影」という名の怪物が、商業主義にまみれた現代のパリに爆弾を投げ込んだ』


画面を埋め尽くす、崇拝にも似た熱烈な賛辞の嵐。

ネット上の特定班が、動画の背景に映り込んだ街並みから「東京の下町」であることを突き止めようと躍起になっていたが、詩織が計算して切り取った画角には、電柱の地名看板も、特徴的なランドマークも一切映り込んでいなかった。ただの乾いたアスファルトと、夕暮れの斜光、そして歩き去るコートのヘムラインだけ。

情報がないことが、人々の想像力を無限に掻き立て、ブランドの価値を天文学的な高みへと押し上げていた。


「老巨匠の道楽、ね」

詩織は湯呑みから立ち上る湯気を見つめ、微かに口角を上げた。

「面白いわね。世間の評論家たちは、服そのものの美しさの向こう側に、勝手に『伝説』や『重厚なストーリー』を夢見てくれる。……私がただの、夫に捨てられて着の身着のままで放り出されたサレ妻だとは、夢にも思わずにね」


「笑い事じゃないわよ!」

朋香は悲鳴のような声を上げながら、受信トレイを開いた。

そこには、世界中のセレクトショップのバイヤーやファッション誌のライター、そして個人コレクターから届いた問い合わせメールが、滝のように雪崩れ込んでいた。


「これ、見て! ニューヨークの老舗デパートのバイヤーから『展示用サンプルを今すぐ空輸してくれ』って! ロンドンの気鋭セレクトショップからは『今季の仕入れ予算を白紙にするから独占契約を結びたい』って来てる! 個人からも『十着まとめて買う、一着百万円でも構わない』って……! 詩織、手が震えてキーボードが打てないのよ! どうするの!? どう返事すればいいの!?」


机を叩いて取り乱す朋香の肩に、詩織がそっと両手を置いた。

その手のひらの確かな重みと温かさに、朋香の震えがぴたりと止まる。


「深呼吸して、朋香。バイヤーへの個別返信はすべて不要よ。契約の話なんて、今は一切乗る必要はないわ」

「えっ……!? な、なんでよ! 相手はニューヨークの有名デパートよ!? うちみたいな町工場の借金なんて、一発で吹き飛ぶような大口の取引じゃない!」

「駄目よ」

詩織の声は、静かだが鋼のように硬かった。


「大手の流通網に乗せた瞬間、私たちの主導権は奪われるわ。彼らは『売れる』と分かれば、次は『もっと安く、もっと大量に、もっと早く作れ』と要求してくる。……それでは、あなたのお父さんを倒したあの大手アパレルや、私を使い捨てにした神代俊樹と同じ構造に逆戻りよ。私たちは誰の軍門にも降らない。服の価値を決めるのは、仲介業者(バイヤー)じゃない。私たち自身よ」


詩織はスツールを引き寄せ、パソコンの前に腰掛けた。

そして、画面を開いて朋香の顔を真っ直ぐに見据えた。


「朋香、現実的な計算をしましょう。……あの手切れ金の五十万円で仕入れた、尾州のデッドストックのウールギャバジン。残りの反物で、私たちが縫い上げられる限界は何着?」


現実的な数字を問われ、朋香は職人の顔に戻った。

頭の中で、工場の設備、資材の残量、そして自分たちの体力を冷静に計算していく。


「……生地の残りは、約三十メートル。あの一着を作るのに、バイアスの贅沢な取り方をするから、一着あたり二・八メートルは消費するわ。型入れ(マーキング)を極限まで詰めて、ロスをゼロに抑えても……取れるのは、最大で十一着分よ」

「一着は手元にマスターサンプルとして残す必要があるわ。……ということは、十着ね」

「十着……!? たった十着なの!?」

朋香は頭を抱えた。

「世界中から何千通も『売ってくれ』ってメールが来てるのに、出せるのがたったの十着!? 焼け石に水じゃない! もっと生地を買い足せないの!?」


「買い足せないわ。あれは十年前にションヘル織機で織られた、二度と手に入らないヴィンテージの生機(きばた)よ。今流通している現行のウールで同じ型紙を引いても、あの落ち感と光沢は再現できない。……だからこそ、この十着は世界で唯一無二の価値を持つの」


詩織は淡々とした手つきで、海外の個人向け決済が可能な簡易販売プラットフォーム(ECカート)の立ち上げ画面を開いた。

商品登録のページ。

商品名は、ただ一言。


『L'OMBRE — 001 Trench Coat』


商品の説明文も、華美な宣伝文句は一切削ぎ落とした。

サイズ展開は、朋香の体型をベースにミリ単位で調整したワンサイズ(フリーサイズ)のみ。

尾州産ウールギャバジン100%、墨田区にて完全手縫い併用仕立て。

そして――価格設定の入力欄。

点滅するカーソルを前に、詩織は躊躇うことなく数字を打ち込んだ。


――¥250,000(税込)


「に……にじゅうごまん……!?」


画面を覗き込んだ朋香の喉から、変な声が出た。

目が飛び出そうになるほど見開かれている。


「ちょ、ちょっと待って詩織! に、二十五万って……本気なの!? 無名の、昨日今日立ち上げたばかりのブランドなのよ!? うちが今まで大手から請け負ってたコートの縫製工賃なんて、一着三千五百円よ!? 百貨店の上代(販売価格)だって、せいぜい五万から七万円台だったじゃない! 二十五万なんて、ハイブランドのインポートコートの値段よ! いくらなんでも強気すぎるわ、誰が買うのよそんな高額な服……!」


「いいえ、朋香。二十五万円でも安すぎるくらいよ」


詩織は首を横に振った。その瞳には、自らの技術に対する絶対的な誇りが宿っていた。


「十年熟成された奇跡のような極上ウール。人体の力学を極限まで計算し、着る人間から重力を奪う立体パターン。そして、日本の熟練の職人が一針一針魂を込めて縫い上げる、寸分の狂いもないステッチ。……これだけの工程と情熱を注ぎ込んだ服を、なぜ安売りしなければならないの? 下請けが買い叩かれ、職人がすり潰されてきたのは、作り手自身が自分の技術の価値を信じず、元請けの言い値に屈してきたからよ」


詩織は朋香の目をじっと見つめた。


「私たちは、もう誰かの下請けじゃないのよ。私たちの技術には、世界最高峰のメゾンと同じだけの、いや、それ以上の尊厳があるの。……この価格を支払えない人間には、私の服を着る資格はないわ」


凛としたその言葉に、朋香は圧倒され、言葉を失った。

下請けとして、常に「コストを下げろ」「納期を縮めろ」と脅され続け、自らの技術を卑下することに慣れきってしまっていた自分の卑屈さが恥ずかしかった。

そうだ。自分たちは、世界で一番美しい服を作ったのだ。

その価値に、誇りを持たなくてどうする。


「……分かったわ」

朋香は拳を固く握りしめた。

「二十五万ね。十着で二百五十万。……もし、もしこれが全部売れたら、今月末の手形のうち、一番危険な一本を決済できる。工場の倒産を、首の皮一枚で食い止めることができるわ……!」


「売り切れるわよ。一瞬でね」

詩織は腕時計に目を落とした。

午後八時五十八分。

ロンドンは昼の十二時前、ニューヨークは朝の七時前、そして東京は夜の九時。

世界の主要都市で、人々がスマートフォンを手にしている時間帯だった。


詩織は公式アカウントに、たった一行の告知を投稿した。


『L'OMBRE — 001. Only 10 pieces. Available now.』

(L'OMBRE — 001。限定10着。販売を開始します)


投稿に、ECサイトの決済リンクを添付する。

詩織は迷うことなく、エンターキーを人差し指で押し込んだ。


――カチリ。


張り詰めた静寂の中、乾いたプラスチックの打鍵音だけが響いた。

販売開始。

画面が切り替わり、在庫数『10』の数字が表示される。


「……始まった」

朋香は息を呑み、祈るように両手を組んで画面を見つめた。

一秒。

二秒。

三秒。

何の反応もない。

やはり高すぎたのだろうか。二十五万円という大金を、実物も見ずに、試着もせずに、ネットの十五秒動画を見ただけで即決する人間など、本当にいるのだろうか――。

朋香の背中に、冷たい汗がツーと流れ落ちた。


だが、五秒が経過した瞬間だった。


ピピッ。

パソコンから、決済完了を告げる甲高い電子音が響いた。


「え……?」

朋香が声を漏らす間もなく。


ピピッ! ピピピッ! ピピピピピピッ――!!


狂ったような電子音の連打が、事務所のコンクリート壁に反響した。

画面上の在庫カウンターが、目にも留まらぬ速さで削り取られていく。


『10』――

『7』――

『4』――

『2』――

『1』――


そして。


『SOLD OUT』。


真っ赤な太文字が、画面の中央に無慈悲なまでの力強さで突き刺さった。


朋香は目を見開いたまま、ピクリとも動けなくなった。

事務所の柱時計が、コチ、コチ、と無機質な音を刻んでいる。

販売開始ボタンを押してから、わずか四十秒。

一着二十五万円のコート十着――総額二百五十万円の売上が、瞬きをする間に完売していた。


「よ……四十秒……?」

朋香の唇が、ガタガタと震え出した。

購入者の住所一覧が、管理画面に次々とポップアップしてくる。

ニューヨーク、マンハッタン。

ロンドン、ケンジントン。

パリ、サンジェルマン。

ミラノ、モンテナポレオーネ。

東京、南麻布――。

世界中の富裕層やトップバイヤーたちが、時差を飛び越え、血眼になって購入ボタンを押し合っていたのだ。


「う……嘘……嘘でしょ……!?」

朋香の膝から力が抜け、彼女はその場にへたり込んだ。

冷たい工場の床に手をつき、ぼろぼろと大粒の涙をこぼし始めた。


「売れた……! 本当に売れちゃった……! 二百五十万よ、詩織……! 親父の工場が……私たちのミシンが、世界に認められたのよ……!」

朋香は顔を覆い、子供のように声を上げて泣きじゃくった。

大手アパレルに理不尽に踏みにじられ、ゴミのように切り捨てられた下町の町工場が、自分たちの技術だけで、世界中から正当な対価をもぎ取った瞬間だった。


詩織は立ち上がり、静かに作業台へと歩み寄った。

木製の台の上には、祖父から受け継いだ「庄三郎」の裁ちバサミが、静かに横たわっている。

詩織はその黒光りする重厚な鋼の柄を、右手でそっと握りしめた。


ひんやりとした金属の冷徹な感触が、手のひらの皮膚を通して、心臓の奥深くまで染み渡っていく。


(……届いたわ)


詩織は瞳を閉じ、深く息を吸い込んだ。

胸の奥底で、何かがカチリと音を立てて噛み合わさった。


神代俊樹の顔が脳裏をよぎる。

『お前は言われた通りにミシンを踏んでいただけの作業員だ』

『俺のプロデュース力と莉乃の華があるから服が売れたんだ』

『お前一人じゃ一円にもなりゃしない無能な寄生虫だ』


嘲笑う元夫の言葉が、耳の奥で木霊する。

だが、その声はもう、詩織の心を一ミリも傷つけることはできなかった。


(私の服は、私の名前がなくても通用する)


目を開けた詩織の瞳には、かつてないほど強大で、揺るぎない光が宿っていた。


(神代俊樹……あなたのプロデュースなんて、最初から一欠片も必要なかった。華だの、知名度だの、人脈だの……そんなメッキがなくても、本物の服は、それ自体の力で世界をねじ伏せるのよ)


十着の注文。

それは、失われた尊厳を取り戻すための、最初の一歩に過ぎない。

これから自分たちは、不眠不休でこの十着を完璧に縫い上げなければならない。

一本の糸のほつれも、一ミリのパターンの狂いも許されない、世界最高峰の戦いがここから始まるのだ。


「朋香、泣いている暇はないわよ」

詩織はハサミを鞘から抜き、作業台の上に置かれた反物へと目を向けた。

「世界中のお客さんが、私たちの服を待っているわ。……最高の十着を、縫い上げるわよ」


朋香は涙を乱暴に袖で拭うと、力強く頷いて立ち上がった。

「ええ……! やってやろうじゃないの! 世界一のミシン目を、見せつけてやるわ!」


深夜の墨田区の町工場に、再び鋭くリズミカルなミシンの駆動音が響き渡り始めた。

かつて死にかけた工場は、今や世界を揺るがす震源地へと変貌を遂げていた。


そして――この四十秒の奇跡の波紋が、海の向こうの巨大な怪物を動かそうとしていることに、二人はまだ気づいていなかった。

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