第7話:黒い波紋
深夜一時を回った墨田区の町工場には、夜露の湿り気を帯びた重い沈黙が横たわっていた。
事務所の片隅、古びたスチールデスクの上に置かれたノートパソコンの画面を、佐伯朋香は瞬きも忘れたように見つめ続けていた。
画面に表示されているのは、夕方に開設したばかりの『L'OMBRE』の公式アカウント。
無音の十五秒動画――夕暮れの路地を、漆黒のトレンチコートを纏った朋香の後ろ姿がただ歩き去るだけの映像だ。
「……五十二回」
朋香の唇から、かすれた呟きが漏れた。
F5キーを押してブラウザを更新するたび、数字がわずかに動く。だが、動くといっても一度に一回か二回。
動画を放流してからすでに六時間以上が経過していたが、数字の伸びは完全な凪の状態だった。
再生回数は五十四回。いいねは三件。コメントはゼロ。
広大なネットの海において、それは存在していないのと同じことだった。
「やっぱり……無謀だったんじゃないかしら」
朋香は両手で顔を覆い、深く息を吐き出した。
「ハッシュタグもつけてない、キャプションも『L'OMBRE — 001』だけ。検索に引っかかるわけがないわよ。現代のアルゴリズムは、おすすめ欄に載るか、インフルエンサーに拾われない限り、無名の新規アカウントの動画なんて海の底に沈めちゃうのよ。……せめて、ファッション系のタグを数十個つけたり、知り合いに拡散を頼んだりした方が――」
「朋香」
裁断台の向こうから、穏やかだが決して揺らぐことのない声が響いた。
詩織だった。
彼女はパソコンの画面など一度も見ようとせず、黙々と作業台のメンテナンスを続けていた。
目の細かい砥石に油を一滴垂らし、愛用の「庄三郎」の刃を一定のリズムで研ぎ澄ましていく。
シュッ、シュッ、と規則正しく鳴り響く砥石の音が、冷え切った工場の中に静謐な空気を生み出していた。
「焦る必要はないわ。タグを並べて大声で叫ばなければ気づかれないようなものは、その程度の服だったということよ。……私たちが作ったのは、消費されて消えていく流行のゴミじゃない。布と人体の力学を極限まで突き詰めた、本物の骨格を持つ服よ」
詩織は研ぎ終えたハサミをネル生地の布で丁寧に拭い、光にかざして刃先の狂いがないかを確かめた。
青白い刃が、工場の裸電球を反射して一筋の冷光を放つ。
「本物の目を持つ人間が、世界に一人でもいればいい。その一人が見つけさえすれば……火は、勝手に燃え広がるわ」
その言葉には、気休めや強がりなど微塵もなかった。
自らの腕に対する絶対的な自負と、世界に対する冷徹なまでの観察眼。
かつて夫の影に怯え、小さく縮こまっていた友人の横顔には、今や一国の城主のような威厳すら漂っていた。
朋香は小さく息を呑み、再びモニターへと視線を戻した。
そして――時計の針が深夜二時十四分を指した、その瞬間だった。
チリン、とパソコンから微かな通知音が鳴った。
画面の右下に、英語のアカウント名がポップアップする。
『@Julian_V_Archive quoted your post.』
「……え?」
朋香が首を傾げた。
「ジュリアン……アーカイブ? 誰かしら、外国の人……?」
「朋香、今のアカウント、もう一度見せて」
詩織の手が止まった。
朋香が慌てて通知をクリックし、相手のプロフィール画面を開く。
そこに並んでいた情報を見た瞬間、朋香の呼吸が止まった。
フォロワー数、八十四万人。
自己紹介欄には『Fashion Archivist / Mode Historian / Based in London』の文字。
ジュリアン・ヴォーン。
ヨーロッパのヴィンテージ・オートクチュールの蒐集家であり、世界中のモード関係者やトップデザイナーたちがこぞってその審美眼を参考にする、ロンドン在住の伝説的なファッションアーキビストだった。
流行に媚びたインフルエンサーの服を歯に衣着せぬ毒舌で切り捨てることで知られる彼が、『L'OMBRE』の十五秒動画を引用し、英語で長文のコメントを投稿していたのだ。
『What the hell is this hemline movement? Is it CGI?』
(――この裾の揺れ方は一体何なんだ? CGか?)
画面に並ぶ英文を、朋香が震える声で翻訳して読み上げる。
『歩行時における生地の落ち感と陰影の変化が、ミリ単位で完全に計算されている。静止時には完璧な垂直を保ちながら、一歩踏み出した瞬間に布地が重力を手放したかのように螺旋を描く。このバイアスカッティングの狂気的な精度を見ろ。現代のアパレルで、これほど構築的な前肩設計とヘムの流動性を両立できる職人がまだ生き残っていたのか? どこのメゾンの未発表アーカイブだ? 誰かこのデザイナーの正体を教えてくれ。頼むから』
「う、嘘でしょ……!?」
朋香の口から悲鳴に近い声が上がった。
「あの辛口で有名なジュリアンが……うちのコートを……!?」
それが、巨大な濁流の始まりだった。
ジュリアンの引用リポストが投下された直後から、画面が狂ったように明滅を始めた。
十秒ごとに百件、二百件と増えていく通知。
リポスト、ブックマーク、引用、コメント。
英語、フランス語、イタリア語、中国語――世界各国の言語が、タイムラインを濁流のように埋め尽くしていく。
『待って、これ本当にCGじゃないの? 歩くたびに光の反射が青から黒へとグラデーションしてる』
『生地は日本の高密度ウールギャバジンだ。しかも低速織機で織られた旧式の生機に見える。信じられない、どこのファクトリーだ?』
『サヴィル・ロウの老舗テーラーでも、既製服でこのイセ込みとダーツ処理は不可能だぞ』
『背中のアンブレラヨークの浮き方が異常に美しい。風を完璧に計算している』
『ブランド名はL'OMBRE……フランス語で「影」? 公式ウェブサイトすらないのか!?』
『買いたい。いくら出せば手に入るんだ!?』
五十四回だった再生数は、瞬く間に千を超え、一万を超え、五万を超えた。
パリのモード誌のライター、ニューヨークの高級百貨店のバイヤー、ミラノのパタンナー、さらにはロンドンの名門服飾大セントラル・セント・マーチンズの教授に至るまで、世界中の「服の骨格を見抜けるプロフェッショナルたち」が、この名もなき十五秒の映像に釘付けになり、熱狂的な議論を交わし始めていた。
チチチチチ、と更新音が途切れることなく事務所に鳴り響く。
「詩織……! 止まらない、通知が止まらないのよ……!」
朋香が青ざめた顔でモニターにしがみつく。
その熱狂の光を浴びながら、詩織は静かに目を細めた。
唇の端に、冷たく研ぎ澄まされた笑みが浮かぶ。
「言ったでしょう、朋香。本物の目は、暗闇の中でも決して見失わないわ」
世界が、名もなき影の存在に気づいた瞬間だった。
同じ時刻。
南青山の一等地に建つ「アトリエ・アルカ」の試作室は、夜中であるにもかかわらず、怒号と罵声が飛び交う修羅場と化していた。
「痛い……っ! 痛いです、もう無理! これ以上着ていられません!」
中央のフィッティング用ステージの上で、現役のコレクションモデルである女性が、悲鳴を上げて涙を浮かべていた。
彼女が身に纏っているのは、三ツ星百貨店との大型コラボのために急ピッチで仕立てられた、秋冬コレクションのファーストサンプル。
立花莉乃の「ネオ・ゴシック・フェアリー」という曖昧なコラージュを、チーフパタンナーの長谷川が会社の命令で無理やり形にしたトワル(試作ドレス)だった。
「動かないでください、今、ピンを外しますから!」
長谷川が膝をつき、慌ててモデルの脇下に手を伸ばす。
だが、その手は震えていた。
モデルの左の脇下からは、無理なカッティングによって圧迫された皮膚が赤く鬱血し、極薄のシルクシフォンと分厚いツイードを無理やり剥ぎ合わせた縫い目が、生地の張力に耐えきれずにピキピキと悲鳴を上げていた。
「何よそれ! ちょっと我慢しなさいよ!」
ソファの上で腕を組み、不機嫌そうにガムを噛んでいた莉乃が、ヒステリックに怒鳴り声を上げた。
「モデルのくせに何甘えたこと言ってんの!? ちょっと腕が上がりにくいだけで大げさに騒がないでよ! 私の世界観をランウェイで表現するのがあんたの仕事でしょ!?」
「世界観以前の問題です!」
モデルの女性は、痛みに顔を歪めながら言い返した。
「アームホール(袖ぐり)の位置が異常に高すぎて、腕を下ろしているだけで脇の下の動脈が締め付けられるんです! おまけに、この重たいツイードの重みが全部このシフォンの縫い代にかかっていて、歩くたびに針穴が引き裂かれて皮膚に擦れるんですよ! こんなの、服じゃない! 拷問具です!」
「なっ……! 拷問具ですって!?」
莉乃が跳ね起き、ピンヒールを激しく鳴らしてモデルに詰め寄った。
「あんた、自分が誰に口答えしてるか分かってんの!? 私はアワードで大賞を取ったデザイナーなのよ! あんたの体型が太いから着こなせないんでしょ! モデル失格よ、今すぐ事務所に言ってクビにしてもらうから!」
「結構です! こんなブランドの服、二度と着たくありません!」
モデルは長谷川がピンを外すのも待たず、乱暴にドレスを脱ぎ捨てた。
バサリと床に落ちたサンプルの脇下は、無理な力で引っ張られたせいで、縫い目から十数センチにわたって無残に裂けていた。
モデルは私服をひったくるように抱え、試作室のドアを乱暴に叩きつけて出て行ってしまった。
重苦しい静寂が、部屋を支配する。
壁際で腕を組み、事の顛末を見ていた神代俊樹の顔は、怒りで青黒く染まっていた。
「……おい、長谷川」
俊樹の低く濁った声が、静まり返った部屋に響いた。
「これはどういうことだ。三ツ星の役員に見せるサンプルチェックは、明後日の朝だぞ。何のために高い給料払って雇ってると思ってんだ。言われた通りに形にしろと言ったはずだぞ!」
「社長……!」
床に散らばった裂けた布地を拾い上げながら、長谷川は絞り出すように言った。
「ですから、最初から申し上げたはずです! 莉乃さんのデザイン画は、人体の骨格を完全に無視していると! この生地の組み合わせでこのシルエットを作れば、こうなることは目に見えていたんです! デザインの根本的な構造から見直さなければ、量産ラインなど絶対に組めません!」
「見直すわけないでしょ!」
莉乃が金切り声を上げた。
「私のデザインは完璧よ! 大賞を取った『宵闇のプリマ』だって、私の感性で作ったんじゃない! それを形にできないのは、あんたの腕がヘボいからよ! この無能な老害!」
莉乃は激昂のあまり、作業台の上に置かれていた別のサンプルのジャケットを鷲掴みにした。
長谷川が徹夜でミリ単位のパターンを引き、どうにか形にしようと苦心していた渾身の試作品だった。
「こんな使えない服、いらない!」
――ビッ、ビリリリリッ!!
耳障りな破壊音が、試作室に響き渡った。
莉乃の両手によって、ジャケットの袖が無残に引きちぎられ、中から純白の毛芯と肩パットが綿のように飛び散った。
彼女はそれを足元に投げ捨て、ピンヒールの踵で力任せに踏みにじった。
「莉乃さんの感性を形にできないパターンなんて、ゴミよ! ゴミ箱に捨てちゃいなさいよ!」
床に散らばる、引き裂かれた布の死骸。
長谷川は、それをただ無言で見つめていた。
怒りすら湧いてこなかった。
あまりの浅ましさと、服に対する冒涜の凄まじさに、心の中のすべての感情が、スーッと急速に冷え切っていくのを感じていた。
(……ああ、そうか)
長谷川は胸の奥で、静かに呟いた。
(この女は、服を作ったことなど一度もないのだ)
布の目を読むことも、針の痛みに耐えることも、一反の反物に込められた機屋の汗を想像することもできない。
ただ、自分の虚栄心を満たすためだけに服を消費し、思い通りにならなければ引き裂いて踏みにじる。
そして俊樹もまた、そんな女の耳障りの良い言葉に踊らされ、職人の魂を土足で踏みにじっている。
脳裏に、かつてのアトリエの光景が鮮やかに蘇る。
どんなに過酷な納期でも、どんなに困難なデザインでも、神代詩織は決して布を粗末に扱わなかった。
モデルが少しでも痛がれば、その場で膝をつき、ミリ単位でパターンを修正した。
長谷川の引いた型紙を両手で受け取り、「長谷川さん、この袖のライン、本当に素晴らしいです。ありがとうございます」と、深々と頭を下げていた。
服に対する敬意と、着る人間への誠意。
それが、この会社からは完全に消え去っていた。
「おい、長谷川! 突っ立ってないで、代わりのモデルを手配して今夜中に縫い直せ!」
俊樹が横柄に命令を下す。
「腕が上がらなかろうが関係ない、明後日のプレゼンでマネキンに着せて見栄えが良ければそれで通るんだよ! さっさと手を動かせ!」
長谷川はゆっくりと立ち上がった。
そして、胸ポケットから一本の黒い万年筆を静かに抜いた。
「……長谷川?」
俊樹が訝しげに眉をひそめる。
長谷川は作業台の引き出しから、あらかじめ用意されていた白い封筒を取り出した。
机の上に、丁寧に置く。
そこには、達筆な毛筆体で、はっきりと書かれていた。
――『退職届』。
「……何だ、これは」
俊樹の顔色が変わる。
「辞めさせていただきます」
長谷川の声は、驚くほど静かで、平穏だった。
「は……? ふざけるなよ! 三ツ星のプレゼンを明後日に控えたこの土壇場で、チーフパタンナーが抜けられるわけがないだろ! 業界で二度と働けないようにしてやるぞ!」
「どうぞ、ご自由に」
長谷川は作業台の上の私物の工具箱――長年愛用してきたスチール定規やカーブ定規、ルレットを静かに箱へと収めた。
「布の重みも分からん素人二人に、私の引く線は一ミリたりとも渡せません。……社長、先代の遺したこの会社は、もう死にました。あとはお二人で、その素晴らしい『世界観』とやらで服をお縫いなさい」
「待ちたまえ、長谷川!」
俊樹の制止を完全に無視し、長谷川は工具箱を抱えて背を向けた。
足元に転がる引き裂かれたサンプルの布屑を、靴の先でそっと避けるようにして、試作室のドアを開ける。
背後から莉乃の「何よあいつ! 偉そうに!」という金切り声と、俊樹の「契約違反で訴えてやる!」という怒号が追いかけてきたが、長谷川が振り返ることは二度となかった。
深夜の南青山の路上に出ると、冷たい夜風が吹き抜けた。
長谷川は空を見上げ、深く息を吐き出した。
当てなどなかった。五十歳を目前にして職を失い、退職金も望めない。
だが、その胸の中には、腐りきった泥舟からようやく抜け出せたという、清々しい解放感だけが広がっていた。
(……詩織さん)
長谷川は夜空に浮かぶ細い月を見つめた。
(あんたは今、どこで何をしているんだ。……あの天才的な腕を、こんな下らない男たちに奪われたままで、本当に終わってしまうのかい……?)
その呟きは、夜の風に溶けて消えていった。
彼がまだ知らない事実。
彼が案じるその女性の引いた線が、今この瞬間、海の向こうのロンドンを、パリを、そして世界中のモード界を、漆黒の熱狂で激しく揺るがし始めているということを――。




