治安維持チーム篇『空中遊歩』プロローグ
『自然はアーティストにとって最も豊かなインスピレーションの源です
-ヨハネス・フェルメール-』
フェルメールは室内でも日傘を外さない
影の中に安心するのだと彼は言っていた
彼はいつもどこかふわふわと浮いていて、気が付いたらその光と影の透明な世界に何時でも吸い込まれていきそうな印象があった。
ドストエフスキーはフェルメールに対してメールを送る
「フロイトも誘うから、今晩どうだ?」_と
フェルメールは「もちろん」と返した。
ドストエフスキーは子供達への授業を終えて、窓から見てる外を見る。
カミュが子供達とサッカーをしていたり、テグジュペリが子供達を連れて泥だらけになりながら遊んでいる。
カフカの姿は見当たらないが、きっと室内で子供達と遊んでるんだろう
彼らは子供達に順応できている。
ドストエフスキーが継承者として就任して500年が経っている。
この数字はこの組織では最初期のメンバーとして知られていて、ドストエフスキーと後二人__フェルメールとフロイトだ。
ドストエフスキーは三人だけの飲み会をする時間を今か今かと待ちながら自分が書いたとされている罪と罰の続きを読んでいた。
__夜が来た。世界が暗くなった。
先に居酒屋の看板の前に立っていたドストエフスキーは寒い冬を象徴させる白い息を吐いた。
指先が冷たい。冷たいという感覚は感覚が無くなった指先ではなく、その指先を当てた手のひらで感じられた。
冷たいと同時に、手のひらは温かい。
ドストエフスキーは暖かい体内の息を吐きかけながら、両手の冷たさを温めようとしていた。
「遅れたかもしれん」
日傘を部屋に置いてきたフェルメールは周囲のネオン看板の光を浴びて目を細めさせていた。
「すまんな、フョードル。オレとしたことが」
「いや、いい。まだ10分前だ」
「それでもだ。今から10分以上オマエを寒くさせるわけだぞ」
ドストエフスキーはふぅと手を温めた時よりは冷たい息を吐いた
「その口調は…レンブラントだな。フェルメールはどうした?」
「オマエらに会うのを楽しそうにしながら寝落ちした」
フェルメールは腕時計を見て時計の針が進んだのを確認した
「フロイトのやつ、遅いな」
「仕事が立て込んでるんだろう。心療チームだ。心労は計り知れん」
「心だけにな!ガハハハハハ!!!」
フェルメールは豪快に笑った。
ドストエフスキーは今のどこに笑う要素があったんだろうと思いながら、手を温める為に息を吐くのではなく、両手を擦り合わせた。
フロイトはいつも以上に服を着込んで小走りできた。
受肉に失敗して子供の姿のまま固定されてしまった彼が服を着込んで小走りで走るなど、忘れ物を取りに帰る子供のようだった。
「よぉクソガキ、やっと来たのか!?寝坊助が!」
フェルメールであり、今はレンブラントが最低な暴言と共に挨拶をした。
フロイトはいつもの事だと言わんばかりに無視しながら、葉巻の先をハサミで切り、そのまま口に咥えて火をつけた。
見た目だけが、教育上よろしくない
「貴様らみたいに子供や治安などといった単純な人間相手ではないのでね」
フロイトは葉巻から十分な煙を肺に貯めると、フェルメールの襟首を掴んで顔を近づけさせ、煙を吐いた。
「げほっ……ごほっ………」
フェルメールは急にかけられた煙に驚き、咳き込んだ。
ドストエフスキーは慣れたものだとしてただ見ているだけだ。
「…乱暴だなぁ、フロイトってば。王子様はちゅーもしてくれないのかい?」
「黙れフェルメール。これでも丁寧だぞ」
ドストエフスキーはフェルメールが来た事にほっとした後「それでは行こうか」と待ち合わせ場所にしていて、ドストエフスキーの大きな身体で看板を隠していた居酒屋の中へと入っていった。
三人は椅子に座り、各々頼みたいものを注文した。
料理を待っている間は料理が来るということだけを楽しみに待ち、やがて運ばれてきたグラスを手に持って三人で「乾杯」をした。
「教育チームの様子は?」
「色々あったが、なんの変わりもない」
「それでは治安維持チームは?」
「こっちも同じ、なんの変わりもないよ」
フロイトは二人に確認をとった後、つまらなそうに「面白みに欠けるな」と言った。
「心療チームは大変そう」
「大変もクソもあるか。あの二人は言う事を聞かん」
「今までずっとそうだったじゃーん」
フェルメールは焼かれたソーセージをちまちまと食べながらフロイトの愚痴を聞いていた。
「ユングだって、もう六人目だっけ?アドラーももう十人目だろう?」
「知らん。数えるのはやめた」
ドストエフスキーはそれを静かに聞きながら、さっきまでここで飲むのをやめておこうと思った量を超えて、もう一口飲んだ。
「心療チームは人の心を覗き見しちゃうから、皆疲れちゃうんだよ。お疲れ様〜」
フェルメールはフロイトの背中をバシバシと叩いた
「痛い。やめろ」
フロイトはフェルメールを睨みつけると、手が止まらない事を身体で分からされたまま、攻撃が止むのを待った
「にしても治安維持チームは優秀だもんね。皆可愛い子ちゃんだ
ドストエフスキーには感謝してるよ。いい子達をこっちにくれたから」
ドストエフスキーは生ハムをつまみにして食べていた口を休めながら「感謝しなくていい」とだけ伝えた。
「私は子供達を育てただけ、最終的にどの偉人にするかは司令チームと…フロイトの指示だ。」
ドストエフスキーはフロイトの方を見る。
「司令チームよりも私の意見の方がよく通る。私に感謝するんだフェルメール」
フロイトはフェルメールに対して己の威厳を誇示した。
フェルメールはそのまま感謝を伝えたが、フロイトは欲しい反応じゃなかったので拗ねた。
三人は酒が進んでいくと昔話のような話題に切り替えていった。
「今や継承者の全員が私の子供のようだよ」
ドストエフスキーは教育チームの古株として、多くの子供達を継承者にした。
今共に働いているテグジュペリもカフカもカミュも、かつては孤児院でドストエフスキーに色々と教わっていた子供なのだ。
また、彼らだけでなく他の人達も全員そうだ。
最初期のメンバー以外はほぼ全員ドストエフスキーを親にしていた。
継承者になったあとはフロイトの世話になることになる。
フロイトの心療をさせなかった継承者はいない__そもそも、それは強制的にされるものでもあるが
継承者にとっては生まれの親がドストエフスキー、育ての親がフロイトのようなものだ。
フェルメールは親のように懐かしむドストエフスキーを見ながらニコニコとしていた。
「最近の継承者達は、受肉がちゃんと上手くいくからまともなのが多くていいねぇ」
フェルメールは自分と、フロイト、ドストエフスキーを順番に指をさして言った。
「うるさい。多重人格者」
フロイトは勢いよく机にグラスを置いた。
「そもそも上層部が馬鹿なんだ。一人の子供に対し、実験とはいえ三人の偉人を混ぜるなんて頭おかしいだろ」
「…彼らに頭なんてないよ。んふふ…」
フェルメールは細く笑った。
「…その笑い方はモネだな。酔うと出てきやすい」
「ボクはお酒に強いから、レンブラントを出してもいいけどさっきフロイトちゃんに押し込まれて大変拗ねてるからね」
「どうとでも言え」
フェルメールはフロイトの頭をポンポンと叩いた。
フロイトは腹が立ったが、長い付き合いでもあるので許した。
「皆、失敗したね」
今はモネであるフェルメールはニコニコとしたまま、事実を突きつけた。
「ボクは三人が混ざっちゃった。フロイトは子供のまま。
ドストエフスキーは____」
ドストエフスキーはフェルメールを見つめた
「子供が生まれちゃった」
フロイトはモネがそれをそれとして責めているのではなくただ事実を残酷なまでに並べているだけだとわかっていた。
「ボクらは本来、過去の存在になる。偉人ってもう死んでる存在だから、その概念を植え付けられたボクらに生殖機能なんてないのに、ドスったらあるんだから上層部もびっくりしてたよねぇ」
ドストエフスキーは少しだけ気まずそうに氷が溶けて薄くなっただけの水を、底から無くなるくらいに飲み干した。
「上層部にそれを嗅ぎつけられて望まぬ性交渉をされた時はただただ苦痛だったよ」
ドストエフスキーはグラスを置くと、店員を呼んで全員分のおかわりを頼んだ。
「見知らぬ女二人から生まれた子達、私は赤子の頃から丁寧に育てたさ。上層部の職員があの子達を奪って洗脳しようとするのを私は必死に止めた。私が一から教育をするといって…初めて駄々を捏ねたな」
「ボクも初めて哺乳瓶なんて持った〜」
「あのガキに髪の毛引っ張られた時なんて、殺意が湧いたわ」
フロイトはその時の記憶を昨日の事のように思い出し、忌々しそうに自分の毛先を弄った。
「でも嬉しかったな。ドスの子がうちに来るなんて」
フェルメールは少しだけウトウトと目を閉じて、ハッと目を覚ました時に話を続けた。
「……ミケランジェロとロダンは仲良いよ。ドストエフスキー」
ドストエフスキーは目を細めた。
曲がりなりにも自分の子供が楽しそうで嬉しかったのに加えて、口調からフェルメールが戻ってきたことを察したからだ
「そうか」
「ミケランジェロとして、ロダンとして、確かに子供の時の、元の子としての記憶は無いけどそれでも兄妹の繋がりは感じるんだ」
フロイトは煙草に火をつけて煙を吸いながらミケランジェロとロダンを思い返した。
「兄がミケランジェロ、妹がロダンになったか、両方彫刻家ではあるし、オーギュスト・ロダンはミケランジェロ・ブオナローティに影響を受けていたしな。兄妹の絆は植え付けられた概念さえも覆せるものだ。記憶が無くともな」
フロイトは煙草の煙を吐き出して、灰皿にジュウと押し付けた。
「私の懸念としては、両方ともダンテと共通している点だ」
ドストエフスキーが髭を触りながら、深刻な表情で話す。
「完成してしまったダンテ…、ミケランジェロは元よりダンテの為に作られた訳では無いがね。
ミケランジェロ・ブオナローティはダンテの神曲を暗記した人を雇い、好きな部分をその場で読ませていたし、ダンテの地獄篇を最後の審判に描き出した。共通点が普通より多い」
ドストエフスキーは酒に酔った時の癖で話すのが長くなりがちになる。
「ロダンは、ロダンはもっと酷い。いや、エリーゼが酷い訳じゃない。ダンテが完成者になって暴走した後に、当て付けかのようにロダンを継承者として生み出した。
地獄の門、詩人…。わざとだ。ダンテを制御させる駒として、私の子供を使ったのだ。」
フロイトは大袈裟に煙を吐き出して物理的にもドストエフスキーの話を止めた。
「否定はせんがね。しかし、ロダンはダンテをどうこうできる次元に居なかった。ダンテはもう地下の奥深くで封印されたままだ。ダンテを制御できるのはな。テグジュペリだ。あの怪物は偉人としての枠組みに縛られてない。素晴らしいものだよ。上層部の企みすらも凌駕したものがそこにある…!」
フロイトは惚れ惚れとした。
フェルメールは運ばれてきた酒を飲み干すと、二人が楽しそうにしている事にただニコニコとしていた。
「にしても、最終的に上層部がゴリ押しで決定するとはいえ、ある程度まではフロイトが継承者に何を継承させるかを決めてるけどさ」
フロイトは次は何を言い出すんだとハラハラしながら話を聞いていた。
「ゴッホとテオドルスってなんで本物の兄弟を使わなかったの?
しかもゴッホの…元のクルスの弟のオズ、ユングとして持ってっちゃってさ」
フロイトはそんな事かとバカにするように鼻で笑った。
「オズがユングとして相応しかったから頂いたんだ
クルスとオズは兄弟だが、仲は良くないとドストエフスキーから聞いていたからな。クルスはオズを弟として溺愛してたがオズにとってはそれが負担だったんだよ。
そしてベンジャミン__今のテオドルスはクルスとオズにいじめられていたのを助けられた経験から特にクルスに懐いてた。
クルスは絵に興味を持っていて、精神的にも危うかった。他にも色んな要素でゴッホに近かったから継承させようとしてたが、今までのゴッホは失敗続きだったからな」
フロイトは話を一旦区切るように伸びをした。
「ゴッホ、やっぱり適合率が暴走しやすかったもんね」
芸術家が集まる治安維持チームの元リーダーとして、フェルメールはかつての継承者を懐かしみながら答えた。
「ゴッホを継承した子達は皆、精神が不安定だったさ」
ドストエフスキーは子供達を見ていた視点で答えた。
「だから先に精神を安定させる為にゴッホの弟であるテオドルスを作ったんだ。概念として呼べたらそれで十分だ。ベンジャミンに先にその事を話したら嬉々として受肉の儀式にも着いてったよ」
フェルメールは端末を見ながらフロイトに聞いた
「テオドルスの適合率は35%、かなりベンジャミンとしての意識があると思うけど、偉大なフロイト先生はどう思ってるのかな?」
「ゴッホの抑止力になっているならそれでいい」
フロイトは冷たく言い放つと、フェルメールの端末の電源を落とさせた
「私としてはユングの継承者が手に入ったから他はどうでもいいね」
「ひっどーい。どう思う?ドストエフスキー!」
「皆が元気なら、それで構わないさフェルメール」
三人はいつものように互いの悪い所を少し貶したり、はたまた褒めたり、チームメンバーの愚痴や自慢を交えつつ酒を進めた。
その後2、3軒ハシゴした後、三人はフロイトを真ん中に手を繋ぎながらフラフラとスターバーストの施設へ帰ろうとしてた。
「これは明日が辛くなるなぁ!アッハッハ!!」
フロイトがいつにも増して笑顔でいる。酔っている。
「授業に出れなかったらまたカフカに怒られるな…」
酒に強かったドストエフスキーは手をブンブンと振っているフロイトの手に自分を合わせながら、振り回される左腕の痛さに悶えていた。
フェルメールは空を見上げた。
空は街灯や電光掲示板の光で、かつて見えていた空よりずっと明るいように見えた。
この現代でゴッホが再び星月夜を描こうものなら、きっと白紙だ
人工光で照らされたこの世界はなんてつまらない色をしているのだろう。
フェルメールは、微かに残る|ヨハネス・フェルメール《生前の記憶》を手繰り寄せ、かつて見ていたあの暖かな光と柔らかな影が現代のこの世界ではすっかり無くなったことを理解した。
ただ確実に言えるのは、光に照らされた暗いはずの夜の空は青いことだ。
「___青いんだ」
フェルメールはその青さに人目奪われ、手を空にかざした。
ドストエフスキーはなにかに取り憑かれるようなフェルメールの姿を見ながら、二人に歩幅を合わせてゆっくりと部屋に戻ることにした。
『フェルメール・ブルー』
最高級の天然素材であるラピスラズリを原料とした絵の具のこと
ラピスラズリから生み出されたこの顔料は海を越えてヨーロッパに渡ったことからウルトラマリンと呼ばれており、フェルメールはこの通常の絵の具よりも倍の価格だったこの絵の具を借金してまで購入し、作品に使用していた。




