プロローグ
「はぁ……疲れたぁ……身体中痛い……アリア……膝枕してよぉ……」
ソファーに座る私の膝に頭を乗せながら旦那様が甘えた声を出す。
私に会う前に湯浴みをしてきたらしいけど薄っすら魔物の血の匂いがするような……
「ねぇアリア……今日もたくさん魔物を狩ったんだ。偉い? ねぇ、偉い?」
膝から私を見上げるキラキラのエメラルドみたいな瞳。
耳より少し長いサラサラのシルバーの髪はまだ少し濡れている。
こんな甘えん坊が『悪虐辺境伯』と呼ばれているなんて……
まだ十五歳……
私と同じ年なのに悪虐……か。
「ねぇアリア……髪を撫でてよぉ……」
かわいい……
子犬みたい……
モフモフをかわいがるみたいに身体中撫で回して称賛の言葉を浴びせたいっ!
私の旦那様は世界一っ!
笑うと現れるエクボ……
服の上からも分かる鍛え抜かれた肉体……
筋肉……
筋肉ぅ……
堪らない!
堪らないっ!
でも……
「旦那様……旦那様は辺境伯なのですよ? このような姿はその地位にふさわしくありません」
あぁ……
また言っちゃった……
私のど変態を他人に知られないようにする『スン』……
はぁ……
伯爵令嬢である私を心配したお母様に『筋肉好きのど変態を隠しなさい』って口うるさく言われ続けてきたからこうなったんだよね……
痩せている人だったら問題ないのに筋肉のある人を前にすると無表情で冷たい態度を取ってしまう……
話したい。
事実を全て話したい。
そうすれば一見痩せているようだけど実は筋骨隆々な夫の身体を隅々までつつけるんだっ!
あぁ……
こんな理想の人が実在しているなんて……
異世界転生万歳っ!
到底信じられない事だけど……
今から十五年前まで私は日本人だった。
あれは高校三年生の夏休み。
大学受験の為に毎日三時間睡眠で勉強して、その日もフラフラしながら塾に向かっていた。
その途中、私は倒れた。
熱中症だったのかな?
寝不足……
四十度近い気温……
肌を刺すような日差し……
今考えれば水分も塩分も足りていなかったんだ。
そして目が覚めると『アリア』になっていた。
あの時の事は今でもはっきりと覚えている___
……何これ。
ここはどこ?
確か倒れたよね?
じゃあ病院?
……?
歩いている誰かに抱っこされているような感覚……
ん?
小さい手……
……?
あれ?
この手……
まさか……
私の手!?
どうなっているの!?
赤ちゃんの手だよねっ!?
でも……
これって……
もう受験勉強をしなくて済むんだよね?
……医師のお父さんに言われるがまま勉強する生活が終わったんだ。
お父さんの顔色をうかがうお母さんの姿を見る事もない。
やっと解放された___
『赤ちゃん』になる前の私は『自分』を出す事を許されなかった。
代々続く医師の家系。
二つ年上の兄は優秀だった。
でも私はどんなに勉強してもそうはなれなくて……
出来損ないの妹
兄に『遺伝の優秀さ』を全て持っていかれた、かわいそうな妹
頑張ってクラスで一番になっても、塾で上位に居続けてもずっとそう言われてきた……
何をしても報われない日々……
そんな地獄の中で唯一私の心を満たしてくれたものがあった。
そう!
筋肉っ!
初めて筋肉を意識したのは駅前で配られたポケットティッシュの裏に入っていたジムの広告だった。
この世のものとは思えないような見事に割れた腹筋……
身体は筋骨隆々なのに顔は幼さを残している姿への違和感……
そして……
私の頭の中はいつの間にか筋肉でいっぱいになっていった。
でもそれを表に出すわけにはいかなかった。
ただひたすら筋肉への愛を隠しながら受験勉強に励む日々……
そう。
全てはスポーツドクターになる為にっ!
医師にならなければいけないのなら私はスポーツドクターになるっ!
常に合法に筋肉に囲まれていられるなんて最高だよっ!
ああっ!
筋肉最高っ!
でも、それを声に出す事は許されなかった。
常に抑圧されていたから……
……ここがどこだろうと関係ない。
少なくとも今までよりは生きやすいはず。
メイド服らしい物を着た女性が私を『お嬢様』と呼んでいる。
絶対にお金持ちだ!
ん?
温かい……
お風呂?
身体を洗われているの?
あ……
小さい脚……
私……
やっぱり赤ちゃんになっているんだ……
そうか……
これが漫画やアニメで聞く異世界転生……
私は家で娯楽を禁止されていたからよく分からないけど噂でなら聞いた事がある。
「奥様。お嬢様の湯浴みが終わりました」
「あぁ……なんて愛らしい子なの……」
奥様?
愛らしい子?
……今度は愛してもらえるのかな?
今までの両親は私に愛を与えてはくれなかった。
あ……
お母さんらしい女性に抱っこされた……
温かくて柔らかい……
でも赤ちゃんだからか、はっきり見えないな。
「本当に愛らしい子だ」
男性の声……?
優しく髪を撫でているのは、この声の人?
「あなた……ふふ。ずっと欲しがっていた女の子……嬉しいでしょう?」
あなた?
じゃあこの人が私のお父さん?
「すぐに婚約者を決める事になる。はぁ……嫌だなぁ。ずっと手元に置きたいのに」
「ふふ。貴族だから仕方ないわ。この子が苦労しなくて済むような立派な方を見つけましょう」
「そうだね……絶対に女遊びをしなくて絶対にギャンブルをしなくて……穏やかで誠実な男を見つけてこないと」
「ふふ。この子の婚約者ならまだ赤ちゃんでしょう? どうやって誠実で穏やかなんて分かるの?」
「あ……確かに……あはは! 気が早過ぎたね! ……美しい瞳。美人になりそうだ。アリア……君の名はアリアだよ」
アリア?
私の新しい名前?
綺麗な響き……
「ははうえ……あかちゃんうまれた?」
……子供の声?
「ふふ。かわいいでしょう? 今日からお兄様になるのね」
「……うわぁ。はい! やさしいおにいしゃまになります!」
……!?
やさしいおにいしゃまになります?
くぅぅっ!
声しか聞こえないけどかわい過ぎるっ!
……家族から大切にされるのなんて初めてかも。
こんなに幸せな家庭があるなんて……
しかも、家族に疎まれていた私が愛される対象?
夢みたい……
十年後___
本当ならメイドに開けさせないといけない分厚いカーテンを開けると……
うーん……
まだ日の出前か……
あ!
ちょうど日が昇り始めた!
綺麗に整備された嘘みたいに広い庭園。
朝日に照らされた噴水。
色とりどりの花を庭師のおじいさんが手入れしている。
朝早くから大変だ。
後でお菓子を持っていってあげよう。
庭園にはレンガでできた立派な階段があってその下にもレンガの道が続いている。
新しく三年前に造られた二段の庭園……
伯爵家としてそれなりに裕福に暮らしていたんだけど、夏場になると食中毒になる事があったんだ。
この世界には冷蔵庫も冷凍庫もないからだと思って色々調べたら『魔法石』っていう物がある事が分かった。
魔法石に魔力を入れると魔法が使えない人でもその力を使えるようになるらしい。
その魔法石に氷の魔力を入れてもらって冷蔵庫を作る事に成功したんだ。
って言っても前の世界みたいにパッキンがあるわけじゃないから冷気が逃げやすいんだけどね。
それでも、この世界初の冷蔵庫の噂を聞きつけた貴族達が我先にと欲しがったんだ。
この機を逃すまいと、まだ三歳だった私の代わりにお母様が商団を立ち上げて次から次に冷蔵庫を作らせた。
おかげで我が家は前にも増して大金持ちになったんだ。
初めて冷蔵庫の試作品を作る時、パッキンの説明をお母様にしたんだけど……
『パッキンがないおかげで魔法石に魔力を入れるペースが早くなる。冷蔵庫の魔法石は我が家にしか作れないからさらに儲けられるわ』
って悪そうに笑っていたっけ。
この世界にも特許みたいな物があって我が家以外はこの先五十年冷蔵庫を作れないらしいから……
お母様があんな風に笑うのも納得だよね。
窓を開けると大きく息を吸う。
澄んだ空気……
花粉症も無いし快適だな。
開けた窓のガラスに映る、腰まで伸びたサラサラの金の髪に澄んだ海のような水色の瞳の女の子……
これが今の私の姿……
日本人だった記憶があるから見慣れないな……
あぁ……
本当に異世界に来たんだ……
日本では味わった事のない高揚感……
ずっと抑圧され続けてきた狭い狭い世界から抜け出せた喜び……
でも……
その喜びも長くは続かなかった。
昨日、私の筋肉愛を心配したお母様に筋肉禁止令を出されたからだ。
いや……
正確に言えば『筋肉を見てもニヤニヤするのは禁止令』かな?
昨日、騎士団の筋肉を盗み見に行きさえしなければこんな事にはならなかったのに。
昨日の朝に戻れるなら『過去の私! 今日訓練場でお母様に見つかったら大変な目に遭うよ』って教えてあげたいっ!
昨日、筋肉禁止令を出された朝___
「さてと……お母様に見つかる前に朝の日課に行きますかねぇ」
誰にも見つからないようにこっそり部屋を出ると足音を立てないように走り出す。
えへへ。
伯爵家の騎士団のお兄さん達……
皆、筋肉がすごいんだよね。
騎士団の訓練場に続くレンガの道を猛ダッシュして植え込みに潜り込む。
この植え込みに入りさえすれば……
ほらほら、見えてきた。
今日も朝からお疲れ様ですっ!
あぁ……
どこを見ても上半身裸の騎士!
どこを見ても鍛えられた筋肉っ!
目の保養になる……
心が豊かになっていく……
幸せ……
「あらあら……お母様のかわいい一人娘はこんな所で何をしているのかしら」
……!?
この声は……
「お母様っ!?」
今日も見つかった……
まだ六時前なのにしっかりヘアメイクも終えている……
一体何時に起きているのっ!?
「まったく……毎日毎日……そんなに騎士の筋肉を見たいの?」
「だって! ほら見てくださいっ! あの腹直筋!」
「はぁ……腹直筋がなんだか分かる自分が怖いわ」
「お母様っ! ほら、あの騎士は後背筋が!」
「後背筋……アリア……鼻息が荒いわ。あと数年でデビュタントなのに……このままでは社交界の笑い者になりかねない……『筋肉好きのど変態』とね!」
「……うぅ。ど変態……」
「アリアの未来が心配だわ。お父様はアリアがかわい過ぎて結局婚約させていないし……このままお嫁に行き遅れたら……」
「そうなったらずっとお父様とお母様と一緒にいられますねっ!」
「……アリア。貴族の世界は恐ろしいのよ。そんな事になったらアリアがどんな酷い事を言われるか分からないわ」
「……私は構わないのに」
「社交界は魔の巣窟よ……はぁ……デビュタントまでにそのど変態をなんとかしないと……」
「ええっ!? お母様は私のど変態がなんとかなると思っているのですかっ!?」
「思うはずがないでしょう……それは一生治らないわ」
「その通りですっ!」
「開き直らないのっ!」
「……うぅ。ごめんなさい……」
「……そうよ。治らないのなら……」
「……え? どうかしましたか?」
「隠しなさい……隠すのよっ!」
「そんなの無理です! ……やるとしてもどうやって隠すのですか?」
「……訓練するのよっ! 筋肉を見ても反応しないようにっ!」
「……反応しないように? ……筋肉を……見ても……? それってお母様との訓練では筋肉見放題という事ですかっ!? 合法で見放題っ!?」
「……合法? ……仕方ないわ。デビュタントまで約四年……死に物狂いでやるしかないっ!」
「うわあっ! 今日から筋肉見放題っ! お母様公認で見放題っ!」
「……はぁ。……アリア……あなたの未来が心配だわ……」
「えへへっ! お母様大好きですっ!」
「お母様もアリアを愛しているわ……筋肉好きのど変態でもね……さぁ、部屋に戻りましょう。顔も洗っていないでしょう?」
「大慌てで部屋から出てきましたからっ!」
「その筋肉への愛を別の事に向けられたらいいのに……」
「顔を洗ったらまた筋肉を見に来てもいいですか?」
「……仕方ないわね。全てはアリアが変人扱いされない為……許可するわ」
「うわあっ! ありがとうございますっ!」
これからはお母様に隠れて訓練場に来なくていいんだ!
嬉しいなぁっ!
なんて簡単に考えていたけど……
お母様の『ど変態矯正の為の訓練』はえげつないほど恐ろしいものだった……
今まで書いてきた物語は伏線が……悪者が……ここはこう繋がっていて……と考える事が多かったのですが、今回の物語はただただ楽しく難しい事を何も考えずに書いています。
今連載中の物語がもう少しで落ち着きそうなのでとりあえず一話だけ投稿しました。
アリアのドタバタな日常を楽しんでいただけたら嬉しいです。




