第1話「旅立ちの聖印」
勇者家の門前に、三頭の馬が並んでいた。
朝の空気は澄み、石畳にはまだ夜露が残っている。屋敷の使用人たちは、誰も大きな声を出さなかった。見送りの場でありながら、どこか出陣にも似た緊張が漂っている。
その中心に立つ少年は、十七歳だった。
艶のある黒髪。整った顔立ち。旅装に身を包んではいるが、立ち姿には育ちの良さがにじむ。
名を、ミツクニという。
勇者家の正統継承者。
そして、本人しか知らぬことだが――前世において、一国の政を背負った記憶を持つ者である。
「旅装、食料、水袋、替えの外套、簡易寝具。必要なものは一通り揃えてあります」
淡々と告げたのは、長身痩躯の青年だった。
鋭い目つきに、無駄のない所作。腰に提げた片手剣は飾りではない。磨かれた刃と同じく、本人の雰囲気にも余計なものがなかった。
名をスケイル。
ミツクニの護衛にして、表の刃である。
「最初の宿場町までは、陽が高いうちに着けるはずだ! 道中で魔物でも出りゃ、俺が盾でまとめて転がしてやる!」
豪快に笑った大男が、背に負った大盾を鳴らした。
カクタスである。
大柄な体格に似合わず、荷の固定は丁寧だった。声は大きく、態度も大きい。だが、ミツクニに向ける視線には揺るがぬ忠義がある。
ミツクニは二人を見て、満足そうに頷いた。
「うむ。よろしい。では、参ろうかのう」
若い声に似合わぬ老成した口調。
初めて聞く者なら面食らうところだが、スケイルもカクタスも今さら驚かない。十七年もそばにいれば、人間、大抵のことには慣れる。
屋敷の奥から、白髪の老執事が進み出た。
「若君。本当に、王都への召しを断られるのですね」
「断ったわけではない。少し待ってもらうだけじゃ」
ミツクニは柔らかく笑った。
「国を知らぬまま国を語るのは、どうにも気が引けてのう」
「王都では、叔父君がすべて整えてくださっていると聞いております」
「整っておる、か」
ミツクニは静かに目を細めた。
勇者家の実務は、今や叔父ラウフェルドが預かっている。
外向きには温厚篤実。王都にも顔が利き、貴族たちからの評判も悪くない。地方から上がる報告も、いつも美しいほど整っていた。
民心に乱れなし。
税収は順調。
飢餓の兆しなし。
街道は平穏。
地方役人の勤務態度も概ね良好。
だが、ミツクニにはそれが不自然に見えた。
人は欲を持つ。
権力は、その欲を映す。
そして、綺麗すぎる報告書ほど、裏に泥を隠している。
前世で嫌というほど見てきたことだった。
「帳面の上に並ぶ数字と、人の顔に刻まれる苦しみは、えてして一致せぬ」
ミツクニは門の外を見た。
「平和とは、城の上から眺めるものではない。民の顔を見て、初めて分かるものじゃ」
老執事は目を伏せた。
「叔父君は、若君の巡察を快く思っておられません」
「じゃろうな」
「それでも?」
「だからこそじゃ」
ミツクニはあっさりと言った。
「叔父上の報告が正しいなら、それでよし。わしが余計な疑いを抱いただけで済む。だが、違っていたなら――」
そこで言葉を切る。
声は荒げない。
ただ、静かだった。
「見て見ぬふりはできぬ」
老執事はしばし沈黙し、それから深々と頭を下げた。
「……どうか、ご無事で」
「ほっほっ。そう心配するでない。頼もしい供もおる」
スケイルは静かに胸へ手を当てた。
「若のお疑いが杞憂で終わるなら、それが一番です」
カクタスは胸を張った。
「だが、臭うってんなら嗅ぎに行くしかねえ。そういう旅だろ、主」
「うむ。まこと、話の早い供で助かるのう」
こうして三人は門を出た。
勇者家の若き継承者が、初めて自分の意思で世を見に行く朝であった。
◇
最初の宿場町は、繁栄しているように見えた。
高い外壁。石造りの門。行き交う荷馬車。門前には商人たちが列を作り、兵士たちが通行証を確認している。
だが、ミツクニは門に近づくなり、目を細めた。
「ふむ……」
「何かございましたか」
スケイルが問う。
「空気が重いのう」
カクタスは周囲を見回した。
「俺には、普通の宿場町に見えるがな」
「あそこを見るとよい」
ミツクニが顎で示した先で、門番が一台の荷車を止めていた。
荷台には麦袋がいくつかと、痩せた山羊が一頭。荷車の脇には、日に焼けた老農夫と、小さな孫娘らしき少女が立っている。
「追加徴収など聞いておりません! 先月も納めました!」
老農夫が必死に訴えていた。
だが門番は、面倒そうに槍の石突きで荷車を小突く。
「先月は先月、今月は今月だ。文句があるなら代官様に申し立てろ」
「そんな余裕はありません。これを売らねば、冬を越せぬのです」
「知るか。払えぬなら荷は没収だ」
少女がびくりと肩を震わせ、老農夫の服をぎゅっと掴む。
その時だった。
「やめなさい」
凛とした女の声が、門前の空気を切った。
振り向いたミツクニの目に、銀色の髪が映る。
長い髪を高く結い上げた、美しい女騎士だった。年の頃は二十代後半だろうか。背筋は伸び、青い瞳には強い意志が宿っている。
ただ、その顔には疲れがあった。
耐えてきた者の疲れだ。
「シュタイン隊長……」
門番が苦いものを噛んだような顔になる。
シュタインと呼ばれた女騎士――は、老農夫の前に進み出ると、荷車の側面に打たれた印を確認した。
「この家は先月、干ばつ被害の申告をしています。免除審査の返答が来るまでは、徴収の強行を避けるよう通達したはずです」
「しかし、代官様は――」
「私は、通達したはず、と言いました」
低く、よく通る声だった。
門番は一瞬たじろぐ。
シルヴィアは書類を確認し、静かに告げた。
「書類の不備もあります。ここで押収すれば、あとで余計に面倒です。通しなさい」
「ですが……」
「通しなさい」
今度は命令だった。
門番は不満を隠しきれない顔で、それでも槍を引いた。
老農夫は何度も頭を下げた。少女は涙目のまま、小さく礼を言う。
シルヴィアは表情を崩さなかった。
ただ、短く告げる。
「急ぎなさい。日が暮れる前に市場へ」
「は、はい。本当に、ありがとうございます……!」
荷車が門をくぐっていく。
その背を見送りながら、ミツクニはふっと口元を緩めた。
「ほう」
「何か?」
スケイルが問う。
「あの騎士殿、心まで役目に売ってはおらぬ」
ミツクニはシルヴィアを見ていた。
「冷たい顔をしておるが、民を見る目をまだ捨てていない。ああいう者がいるなら、この街はまだ死んでおらん」
カクタスが腕を組んで唸る。
「主はほんと、年寄りくせえな」
「年寄くさいとは何じゃ、正真正銘17歳じゃ」
ミツクニが眉を寄せると、カクタスは大声で笑った。
だが、その笑いはすぐに止まった。
門前の人垣が、ざわりと割れる。
絹の上着をまとった男が、数人の兵を従えて現れた。
年は四十ほど。丸い頬に、手入れされた髭。指には宝石のついた指輪がいくつも光っている。歩き方には、自分がこの街の空気まで所有していると信じている者の傲慢さがあった。
「何の騒ぎだ」
兵たちが慌てて道を開ける。
「ベルノルト代官様」
シルヴィアの表情が、ほんのわずかに硬くなった。
ベルノルトと呼ばれた代官は、老農夫の荷車が門を抜けていくのを見て、顔をしかめた。
「なぜ通したのだ、隊長殿」
「干ばつ被害の審査待ちです。強行徴収は避けるべきと判断しました」
「判断?」
ベルノルトは鼻で笑った。
「この街の財政を預かるのは私だ。審査など、私が不要と言えば不要となる」
「しかし、民の生活が――」
「生活?」
ベルノルトは不快そうに眉を上げた。
「税を納められぬ者が、生活を語るか。国に守られ、街道を使い、市場で商いをする。ならば対価を払うのが当然だろう」
言っていることだけを聞けば、理屈は通っているように聞こえる。
だが、その目は老農夫も少女も見ていなかった。
見ているのは、帳簿だけだ。
「今年はどいつもこいつも干ばつだの不作だのとうるさい。払えぬなら労役に出せばよい。働き手が足りぬ場所なら、いくらでもある」
少女が祖父の背に隠れる。
ベルノルトはそれを見て、薄く笑った。
「子どもも大きくなれば使い道はある。奉公口くらい、私が世話してやってもよいぞ」
老農夫の顔から血の気が引いた。
周囲の空気が凍るつく音が聞こえるようだ。
ミツクニの目から、笑みが消えた。
「代官殿」
穏やかな声が響いた。
ベルノルトが振り向く。
門前の喧噪の中、ひとり静かに立つ若者がいた。
黒髪の少年。上等ではあるが旅用の衣服。腰には小さな黒塗りの箱。
一見すれば、どこかの名家の若君が物見遊山に来たようにも見える。
「……誰だ、お前は」
「通りすがりの若輩者じゃよ」
ミツクニは柔らかく笑った。
「ただ、税とは民の暮らしを立てるために取るもの。息の根を止めるための縄ではあるまい、と申し上げたくてのう」
周囲がざわついた。
ベルノルトの眉が吊り上がる。
「小僧。代官たる私に説教する気か」
「説教ではない。確認じゃ」
ミツクニは一歩前に出た。
「おぬしは、この街を治めておるのか。それとも、搾り取っておるのか」
その言葉に、ベルノルトの顔から笑みが消えた。
「不敬者め。兵! その生意気な餓鬼を叩き伏せろ!」
四人の兵が一斉に槍を構える。
だが、動いたのは兵よりも早い二つの影だった。
スケイルの剣が一閃する。
槍の穂先が跳ね上がり、兵の手から武器が弾き飛ばされた。ほとんど同時に、カクタスの大盾が唸りを上げ、二人の兵をまとめて地面に転がす。
「ぎゃっ!」
「な、何だこいつら……!」
「怪我はさせぬ。寝ておけ」
スケイルが冷ややかに告げる。
カクタスは大盾を肩に担ぎ、豪快に笑った。
「主に刃を向けるには、百年早え!」
「十年ではないのか」
スケイルが淡々と突っ込む。
「主相手なら百年だ!」
「なるほど」
門前に、思わず小さな笑いが漏れた。
だが、ベルノルトだけは笑えなかった。額に脂汗がにじむ。
「シュタイン隊長! 何を見ている! そいつらを捕えろ! お前はこの街の騎士だろう!」
全員の視線がシルヴィアに集まった。
彼女は息を呑んだ。
これまで何度も、理不尽な命令はあった。
露骨に逆らえば、自分は外される。
自分が外されれば、残された部下も民ももっと苦しむ。
だから書類で遅らせ、手続きで止め、兵をなだめ、ぎりぎりの線で耐えてきた。
それが最善だと、自分に言い聞かせてきた。
だが、今この場で従えば。
老農夫も、少女も、この街の民も、また同じ地獄に沈む。
そして何より、シルヴィア自身が――二度と、自分を騎士とは呼べなくなる。
拳を握る。
爪が掌に食い込む。
喉が熱い。
それでも声は、よく通った。
「……それは」
一拍置いて、シルヴィアはまっすぐベルノルトを見た。
「それは、守るべき者に向ける命令ではありません」
門前が静まり返った。
ベルノルトが目を剥く。
「き、貴様……!」
ミツクニは静かに頷いた。
「うむ。それでよい」
そして、カクタスが腰に提げた黒塗りの小箱へ手をかけた。
その所作だけで、空気が変わった。
カクタスが一歩前へ出る。
スケイルが剣を収め、背筋を正す。
カクタスは箱を胸の高さで開いた。
中に収められていたのは、金と蒼で象られた聖印。
勇者家直系のみが受け継ぐ、王国統治の正統を示す印。
建国の儀にも、即位の儀にも、その名は必ず唱えられる。地方役人が一生に一度でも目にすることなど、本来あり得ないはずのもの。
最初に意味を理解したのは、シルヴィアだった。
「……聖印……」
彼女の顔から血の気が引く。
次いで門番が膝をついた。兵たちがざわめき、商人たちが息を呑む。
ベルノルトは二、三歩よろめいた。
「ま、まさか……なぜ、それを……」
カクタスが大きく息を吸った。
そして、門前の空気を震わせる声で叫ぶ。
「控えおろう!」
その一声で、残っていた兵たちまで膝をついた。
ミツクニは穏やかな顔のまま、ベルノルトを見据えた。
「ベルノルト代官。おぬしの罪、聞こうかの」
誰も動けなかった。
「干ばつ被害の審査案件を握り潰し、不当な追加徴税を行った罪」
ベルノルトの唇が震える。
「払えぬ民を労役へ追い立て、その家族の生活を顧みなかった罪」
「ち、違……私は街の財政を……!」
「騎士の権限を私欲のために使い、法を脅しの道具にした罪」
シルヴィアが息を呑む。
「そして、守るべき民を家畜のように扱い、勇者家と王国の名の下に敷かれた法を汚した罪」
ミツクニの黒い瞳が、まっすぐベルノルトを射抜いた。
「軽いとは申すまいな」
ベルノルトはがくりと膝をついた。
「お、お許しを……! 私はただ、秩序を守ろうと……街を維持するには金が要るのです! 多少の痛みは、統治にはつきもので――」
「多少、か」
ミツクニの声は静かだった。
静かだからこそ、重かった。
「では聞くが、その“多少”とは誰の痛みじゃ」
ベルノルトの口が止まる。
「おぬしの腹は痩せておらぬ。おぬしの子は怯えておらぬ。おぬしの屋敷の倉は空ではなかろう」
ミツクニは一歩近づいた。
「民が痩せ、子が怯え、働き手を労役で潰しておいて、何が財政じゃ。数字だけ積んで街が立つと思うたか」
黒い瞳が細くなる。
「人が生きておってこその街であろうが」
ベルノルトは喉をひきつらせた。
聖印の前に立っているのは、ただの少年ではなかった。
人の欲も、嘘も、言い訳も見尽くしてきた者の目だった。
「ひ、ひぃっ……!」
とうとうベルノルトは額を地につけた。
「お助けを! どうか、どうかご慈悲を……!」
カクタスは聖印を閉じた。
「慈悲は民に向けるものじゃ」
そして、静かに告げる。
「おぬしには、裁きが要る」
その一言で、場は決した。
ベルノルトに従っていた兵たちは、もう誰ひとり逆らわなかった。
シルヴィアの部下たちが、ようやく憑き物が落ちたように前へ出る。
「隊長殿……任せてよいかな」
ミツクニが、静かだが確かな声で言った。
シルヴィアは一瞬だけ目を閉じた。
そして、顔を上げる。
そこに迷いはなかった。
「ベルノルト代官を拘束。被害の出ている家々の名簿を集めなさい。倉庫を封鎖。徴税記録、審査書類、通達文書をすべて確保。逃がしてはなりません」
「はっ!」
部下たちが一斉に動き出す。
老農夫はその場にへたり込み、少女は泣きながら祖父にしがみついていた。
ミツクニは少女の前にしゃがみ込み、そっと頭を撫でた。
「もう大丈夫じゃ」
少女は涙で濡れた顔のまま、こくこくと頷いた。
◇
騒ぎが落ち着いた頃には、夕日が街を橙色に染めていた。
ベルノルトの屋敷からは、不正徴税の記録、没収品の目録、倉庫の鍵が次々と見つかった。徴収された穀物は、被害を受けた家々へ戻されることになった。
街の人々の顔には、まだ戸惑いが残っている。
だが、その戸惑いの奥に、確かに息を吹き返したような色が差し始めていた。
その中で、ミツクニは一冊の帳簿を手に取っていた。
表紙の内側に押された封蝋印。
見慣れた印だった。
勇者家執政代理。
すなわち、叔父ラウフェルドの使う印である。
ほんの一瞬だけ、ミツクニの目が細くなった。
「やはりのう」
「若?」
スケイルが問う。
ミツクニは帳簿を閉じた。
「旅に出たのは正解だったようじゃな…」
それ以上は言わなかった。
今はまだ、断じるには早い。
だが、泥の匂いは確かにした。
◇
広場の端で、シルヴィアは静かにミツクニへ向き直った。
「……助けられました。街も、私も」
鎧をまとっていても、疲労は隠しきれていなかった。
だが、その青い瞳には先ほどまでとは違う光がある。
ミツクニは首を横に振った。
「助けたのは、おぬし自身じゃよ。最後に立ったのは、おぬしじゃ」
「それでも、あの一歩は……あなたがいなければ踏み出せなかった」
シルヴィアは唇を噛んだ。
「私はずっと、騎士でありたいと思っていました。けれど、守るために耐えているうちに、自分が何に従っているのか分からなくなっていたのです」
ミツクニは黙って聞いていた。
「命じられる正義を守ってきたつもりでした。でも、それではもう誰も救えない」
夕風が、銀の髪を揺らす。
「だから……もし許されるなら」
シルヴィアはまっすぐミツクニを見た。
「もう一度、自分で選ぶ正義をやってみたいのです」
ミツクニはふっと目を細めた。
「どうじゃ、一緒に来るかのう」
「……はい」
「おぬし、まだ騎士をやめる顔をしておらんからな」
その言い方があまりに自然で、あまりに重々しくなかったからだろう。
シルヴィアは一瞬だけきょとんとし、それからかすかに笑った。
「もっと……厳かなお言葉を想像していました」
「何じゃ。必要なら言い直すぞ。勇者家の名において、そなたを我が旅の騎士に任じ――」
「い、いえ! 結構です!」
慌てて首を振るシルヴィアを見て、カクタスがぶはっと吹き出した。
「はっはっは! 隊長殿、うちの主はそういうところで妙に軽いんだ!」
「軽いのではない。肩肘を張らぬだけじゃ」
「似たようなものです」
スケイルが淡々と返す。
ミツクニはむっと眉を寄せた。
「おぬしたち、主に対する敬意が足りぬのう」
「十分払っております」
「払ってる払ってる!」
「雑じゃな、カクタス」
そのやり取りに、シルヴィアは思わず小さく息を漏らした。
笑いに近い、安堵の吐息だった。
街の向こうに、陽が沈んでいく。
この日、シルヴィア・フォン・シュタインは、代官に命じられた騎士であることをやめた。
そしてミツクニは、十七年かけて備えてきた最初の一歩を、確かに踏み出した。
平和なはずの世界に巣食う、人の腐敗を正すために。
そして、勇者家の内側にまで入り込んだ濁りを、この目で暴くために。
旅は、始まったばかりである。




