03
ふわり、と柔らかい香りがした。
花のようで、でも少し違う。
どこか懐かしくて、胸の奥がじんわりと温かくなるような匂い。
……ん?
なんやろ、これ。
ゆっくりと意識が浮かび上がる。
重たいまぶたを持ち上げると、ぼやけていた世界が、ほんの少しだけ形を持ちはじめた。
光。
白くて、金が混ざっているやさしい光。
前より、見える。
まだくっきりとはしないけど、人の輪郭くらいならなんとなく分かるようになってきた。
「――リュセリア」
すぐ近くで、柔らかな声がした。
……あ、この声。
なんとなく覚えてる。
パパンとは違う、もっと静かで、包み込むような声。
「起きたのね。おはよう、私の可愛い子」
優しく名前を呼ばれて、ぼんやりとそちらに視線を向ける。
……たぶん、この人。ママンや。
はっきり顔が見えるわけじゃない。
でも、なんとなく分かる。
この人は、安心できる人。
「だぅ……?」
声を出そうとしても、やっぱり上手くいかない。
思ったように動かない体がもどかしくて、少しだけ手を伸ばす。
その瞬間、そっと包み込まれる感触があった。
あったかい。
やわらかい。
「ふふ、まだ上手に動けないのね」
くすり、と小さく笑う声。
その声を聞いているだけで、なんだか安心してしまう。
『やはり、よく似ておられる』
またや。あの"変な声"…。
普通に耳で聞いている声とは違う。
もっと近くて、もっとはっきりしているような、不思議な感覚。
……なんなんやろ、これ。
まだよく分からないけど、それよりも、今は。
なんか、空気が違う。
部屋の中にいる人、増えてない?
さっきまでとは違う気配が、いくつもある。
「母上、少しお時間よろしいでしょうか」
落ち着いた声が響く。
低くて、静かで――でもどこか張り詰めたものを感じる声。
「ええ、構いませんよ。入りなさい」
ママンが穏やかに答える。
そのすぐ後、扉が開く音がした。
かすかな空気の動きと一緒に、また新しい気配が部屋に入ってくる。
……なんやろ。
なんか、すごい人来た気がする。
「……これが、リュセリア。私の、妹」
まだ高い声…小さい子供の声…。なのに、やけに重く感じる。
姿はまだぼやけているのに、その人の存在だけは妙にはっきりと感じ取れた。
強い。
なんか、めっちゃ強い。
そう思った瞬間、自分でもびっくりした。
なんでそんなこと分かるんやろ。
「エルディアス、そんなに怖い顔をしないで。怯えてしまうでしょう?」
ママンの声が、少しだけやわらぐ。
「すみません、母上」
あ、なんか強いこの人が兄の1人目やな。
「セイルも、こちらへ」
「はい、母上」
今度は、少し軽やかで高い声。
兄1より柔らかくて、優しそうな響き。
足音が近づいてくる気配がして、視界の端にもう一つの小さい影が増える。
「わぁ……本当に小さいね」
いや、赤ちゃんやからな???
そりゃ小さいやろ???
心の中で思いっきりツッコミを入れつつ、なんとなくそちらを見る。
まだぼやけているはずなのに…やっぱり、分かる。
兄2は優しい人や。
兄1が“静かな強さ”なら、兄2は“やわらかい強さ”。
なんやそれって感じやけど。でも、そうとしか言えへん。
「……」
ふと、部屋の空気が変わった気がした。
ほんの一瞬。
誰かが、何かを言いかけた。
「この子が――」
そこで、言葉が止まる。
続きは、聞こえなかった。
いや、違う。
言わなかった、のかもしれない。
その場にいた誰もが、同じことを思ったような、そんな沈黙。
さっきまでやわらかかった空気が、ほんの少しだけ張り詰める。
……なんやろ、これ。
私、なんかヤバい存在なん?
いやまぁ、赤ちゃんにしては色々分かりすぎてる気はするけど。
それにしても、この反応はちょっと大げさちゃう?
『……やはり』
また、あの声。
今度は、少しだけはっきり聞こえた気がした"変な声"。
表に出ている言葉とは別の、本音みたいなもの。
……あれ?
もしかして私、これ……。
見えてるだけじゃなくて、聞こえてる?
その人の中にある、何かを。
「リュセリア」
ママンの声が、すっと空気を切り替える。
優しくて、でも芯のある声。
「この子は、私たちの大切な家族です」
静かに、はっきりと告げられる言葉。
「それ以上でも、それ以下でもありません」
その一言で、張り詰めていた空気がすっとほどけた。
「……はい、母上」
「……失礼いたしました」
二つの声が重なる。
さっきまで感じていた緊張が、嘘みたいに消えていく。
なんやろな、この人。
めっちゃ強い。
兄二人とはまた違う意味で、強い人や。
「ふふ、少し驚かせてしまったわね」
優しく頬を撫でられる。
その瞬間、全部どうでもよくなった。
あったかい。
安心する。
……うん。
まぁいっか。
難しいことは、また今度考えよ。
今は――ただ、眠い。
「……ねぇ…ん…」
小さく声を出すと、すぐに抱き上げられる感覚がした。
「ふふ、おやすみなさい、リュセリア」
やわらかな声に包まれながら、ゆっくりと意識が沈んでいく。
――この世界、思ってたよりもずっと面白そうや。
そんなことをぼんやりと思いながら、私は静かに目を閉じた。
これにてプロローグは終わりです。
次は第一章に移ります。
3話まで読んでいただきありがとうございました。
4話以降もよろしくお願いいたします。




