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その夜は、わたしの部屋に泊めた。お母さんは、「あらまあ、真々子ちゃん。お久しぶりねえ、すっかりいい娘さんになって」と、とつぜん泊まりに来た真々子に驚きながらも、子供の頃と変わりなく歓迎してくれた。
会社から帰って来たお父さんも、リビングで紅茶を飲んでいるわたしたちに目を細めた。
「やあ。真々子ちゃん。よく来たねえ。お母さんはお元気かな」
ネクタイを緩めながら寝室に行こうとする。
「こんばんは、おじちゃん。ママは元気だよ。でもね、ママは農協のおじさんに交際を申し込まれたの。頭が禿げているおじさんはママと結婚したいみたいだけど、真々子はいやなの。おじさんの頭が禿げているのがいやなんじゃなくてね、真々子とママのあいだに他人が入って来るのが嫌なの」
「まあ。奥さんに再婚の話が持ち上がってるの」
お母さんが興味を示して身を乗り出してきた。話しが長くなるのを警戒してお母さんにいった。
「お母さん、お父さんにご飯を出してあげなきゃ」
「ああ。そうだったわ。おとうさん、お風呂に入っていらっしゃいよ。その間に温めな直しておくから」
「うん。真々子ちゃん、泊まっていくんだろ。ゆっくりしていくといいよ」
「はああーい」
わたしは真々子の手を取って自分の部屋に連れて行った。
「わあ。トコちゃんお部屋、久しぶりい」
さっそくベッドの上のスヌーピーの縫いぐるみを抱きしめて腰を下ろす。
「鉄平2号。会いたかったよおーん」
勝手にぬいぐるみに名前を付けて頬ずりしている。わたしは机の前の椅子に腰かけて腕と足を組んだ。
「ちょっと真々子。さっきの話はなに。農協のおじさんがどうしたって? 農協男子に交際を申し込まれたのは、あんたじゃなかったの」
「ちがうよ。ママだよ」
真々子はけろりとしていった。わたしはカッと頭に血が上った。
「あんたねえ。どこまで人を混乱させるのよ。抱介は確かにあんたが農協男子に交際を申し込まれたと言ったんだからね」
「それは抱介の聞き間違いだよ。真々子はママが農協のおじさんに交際を申し込まれたって、いったもん」
わたしはため息をついた。
「そんでね、トコちゃん。真々子はね、真々子が結婚するときはママも一緒にもらってくれる人でなきゃ結婚しないって決めてたの。そりゃあ、そうでしょ。ママは苦労したんだもん。真々子と一緒に幸せになってもらいたいの」
「それを言うために、おにぎりを持って鉄平に会いに来たのかさ」
「ううん、そうじゃないよ。鉄平に会いたかったから、ただ、それだけ」
「あんたの自分勝手な行動のせいで、鉄平は困惑したんじゃないの」
「そうみたい。でも、真々子だって驚いた。まさか、あんなふうに怖い顔して怒って行っちゃうとは思わなかった」
「当たり前でしょ。会社は男にとって、女が考えている以上に大切な場所なんだよ。真々子がずかずか踏み込んでいい場所じゃないんだよ」
「だってぇぇ」
と、真々子はスヌーピーを抱きしめて体を丸めた。
「会いたかったんだもん」
「会いたいなら鉄平と連絡をとって、日にちを決てから会えばいいでしょ」
「だってぇ、今すぐ会いたかったんだもん。トコちゃんだって、そういうとき、あるでしょ。会いたくてたまらない。それしか考えられないとき」
そういって真々子はスヌーピーに頬をこすりつけてすすり泣いた。
「真々子は鉄平に会いたかったの。鉄平に抱きつきたかったの。昔みたいに、鉄平の大きな体に抱きすくめられたかったの。だって、真々子のことを一番わかってくれるのは鉄平だけだもの。ママが再婚したら、真々子は一人ぼっちになってしまう。どんなにママと旦那さんが真々子をかわいがってくれても、ママはもう、真々子だけのママじゃないんだもの。それを鉄平に話したかったの」
真々子は涙と鼻水をスヌーピーにこすりつけて話を続けた。うわあ、あのスヌーピー、洗濯しなきゃ。
「真々子の気持ちを分かってくれるのは鉄平だけ。だって鉄平も高校の時、お父さんが再婚して、お父さんを奥さんに取られているから」
「それはねえ、真々子」
わたしは反論しようとした。おとなになりなよ真々子、と。だって、親子の愛情は、夫婦の愛情とは違う形のものだから。再婚しても、親の愛情が変化するわけではないのだといいたかった。でも、いまの真々子にはなにをいっても無駄だろう。いま必要なのは黙って真々子の話を聞いてやることだった。
話疲れた真々子は、そのままスヌーピーを抱いて眠ってしまった。たいへんな一日だっただろうとおもう。スマホの地図アプリを見ながら鉄平の会社まで行って、鉄平に冷たくされて、しおれたままバスタ新宿の待合室で時間をつぶし、夜行バスに乗ろうとしたけど迷いに迷って乗れなかったのだとおもう。
わたしが行かなかったら、真々子はわたしに電話してきただろうか。それとも、話しやすい抱介のほうに電話を入れただろうか。鉄平には電話できなかったとおもう。だって、惨めだもの。ほんとうにわたしがバスタ新宿に行かなかったら、どうしていたのだろう。
わたしは真々子に肌がけを掛けてやってから、暫定トモダチの幼馴染の寝顔を眺めた。それからリビングに行って、テレビを見ながら遅い夕飯を食べているお父さんと、その向かいで冷たいゼリーを食べているお母さんの脇を通ってソファに掛けた。
バラエティーをやっているテレビのボリュームが少しうるさかったけど、お父さんとお母さんに背中を向けて鉄平に電話した。鉄平はすぐに出た。
「わたしだけど」
「うん」
「抱介から聞いた?」
「うん」
「今夜はわたしの部屋に泊めるから」
「うん」
「あした、駅前のファミレスで十一時に会おう。ちゃんと真々子と話しな」
「泣いてなかったか」
「泣いてたよ。でも、それは、真々子のママが再婚するかもしれないって泣いたんだよ。ママが再婚したら一人ぼっちになっちゃうって。それで鉄平に会いたくなったみたい」
「そうか」
「その気がないなら、あした、ちゃんと真々子を振ってよね。そうすれば、あの子は二度とあんたに会いに来ないから」
「――――」
その無言はなんだ。なにを考えているのだ鉄平。
「じゃあ、あした十一時にね。お昼食べてから、みんなで真々子を東京駅まで送って行こう。抱介にも言っておいて」
「わかった」
電話は切れた。ほんとに口が重いんだから。昔からしゃべらなかったけど、何とか言えよ。
ため息がもれた。わたしの出番はここまでだ。そういえば、真々子はお風呂にも入ってなかったし、歯も磨いてなかったな。あしたの朝、シャワーを浴びればいいか。
「お母さん。新しい歯ブラシの買い置き、あったよね」
「ええ。出しておくわ。真々子ちゃんのでしょ」
「そう。ありがと。おやすみ」
キッチンで後片付けをしているお母さんに声をかけて洗面所にいった。おとうさんは食事のあと、新聞を読んでいたがもう寝てしまった。歯を磨きながら、十一時過ぎてるんだ、とおもった。
まとめ買いした下着があってよかった。真々子にはピンクの水玉模様のパンティーがいいな。シャワーのときにわたそう。
そんなことを考えながら、ベッドの下に毛布を敷いて肌がけを掛けて横になった。真々子の寝息がかすかに聞こえた。




