(2)
ライオンは深奈が乗りやすいように足を曲げて座る。
『さあ、どうぞ』
促された深奈は、恐る恐る彼の背に手を掛けてみた。何しろ、馬にすら乗ったことがないので、どうしても恐怖が先走る。
それでも、何とかまたがり、ふわふわの毛並みにしっかりと捕まった。
何だか今にも滑り落ちてしまいそうだ。
『では、行きます。落ちないように気をつけて下さい』
彼が言うと、いきなり前方から圧がかかった。振り落とされまいと首にしがみつくが、しばらくすると圧も風もなくなり、真っ暗闇の中に放りだされる。不安感から、深奈はますます強くライオンにしがみついた。
早くこの状況が終わりますように、と心の中で祈っていると、突然横から衝撃が襲った。
『これは……!』
驚いたような声に、深奈は細い声で「何が……」と言った。だが、その問いに返ってきたのは答えではなかった。ライオンがこつ然と消失してしまったのである。
それまでしがみついていた巨体が無くなった深奈は、恐怖から体を強張らせた。何にもすがるものもなく虚空へと投げ出される。心臓の鼓動が耳にうるさいほど大きく聞こえた。
そのまま、深奈はひたすら落下を続ける。
どこまでも、このまま際限なく落ち続けるのではないかと凍りついた心で思ったとき、深奈の意識は急速に遠のいていった。やがて気を失い、深奈の身体ははひたすらに落ち続けた。
◆
体の下がじっとりと冷たい。寒気に襲われ、深奈はうっすらと目を開けた。
何だかあちこちがきしんで痛む。手をついて体を起こすと、周囲には枯れ草が広がっていた。時折吹きこむ風に舞いあげられ、カサカサと軽い音を立てている。
――ダウンジャケットで良かった。
ぼんやりする頭で、どうでもいい事を考えた。
それからゆっくりと起き上がると、見知らぬ林の中に倒れていることに気づく。それから、深奈はようやく自分の身に起こったことを思い出した。
「そうだ、私……王子様を助けて欲しいとか言われて、気軽な気持ちで引き受けて」
ライオンの背中に恐々とまたがって、暗闇の中を進んでいたら――。
「消えちゃったんだ」
一体何があっただろうか、と考えたところで、深奈は自分の置かれた状況に気づいた。
「ここ、どこ?」
もしかしたら、ライオンに騙されて、手近な山にでも捨てられたのだろうか、と考えた。とりあえず立ち上がると、体についた枯れ葉や小枝、泥をはたき落とす。
空は曇り。時間はわからないが、日中であることは間違いない。
「とにかく、歩いてみるしかないよね」
周囲に見えるのは木と、枯れ葉の敷きつめられた地面ばかり。しかも、傾斜がついているので、山なのだろうと解釈した。深奈はゆっくりと歩き出す。足は痛まない。ほっとして進むと、さほど離れていない場所から、がさりと音がした。
人だろうか。
だとしたら人家のあるところまで案内してもらおうと思って音のした方を見やり、深奈は凍りついた。そこにいたのは、口から唾液をこぼす黒い毛の塊だった。よくよく見れば、犬に似ている。
だが、やせ細った体や、目つきなどから、狼ではないだろうかと思った。
――狼なんて、いないはずなのに。
衝撃で立ちすくむ内に、囲まれてしまった。凄まじい恐怖が深奈を襲う。やがて黒い狼たちはじりじりと深奈を取り囲み、距離を詰めてくる。
こんなところで食べられてしまうのか、と咄嗟に手近な木にしがみつくが、登れない。木登りなど生まれてこの方一度もしたことがなかったせいか、どうすれば登れるのかがわからない。
やがて、うち一頭が深奈へ向けて飛びかかってきた。
「きゃあああっ!」
噛まれる――! そう覚悟した瞬間、ひゅっと何かが空を切る音がして、狼の悲鳴が聞こえた。すると、次々と同様の小さな音がして、狼たちの悲鳴が重なる。
閉じかけた目を開けて見れば、すでにそこには何もいなかった。
深奈は思わず尻もちをついた。発作が起こったのではないか、と思えるほど息が上がっている。
「た、助かった……の?」
「全く、一体こんなところで何をしているの? 私が通りかからなければ、今頃狼のエサにされていたわよ、あなた」
不意に、さほど離れていない位置から、落ちついた女性の声がした。
驚いて顔をあげれば、マントと思しき大きな布をまとった女性と目があう。切れ長の、綺麗な青い目だった。女性は長い黒髪を後ろで一まとめに束ねており、すらりとした体躯をしていた。全体的に機能重視のような出で立ちで、全く飾り気がない。
茫然としていると、彼女は深奈の側までやってきて「ほら」と言うと呆れたように手を差し伸べくれた。深奈は「あ、ありがとう」と言って立ち上がらせて貰う。
すると、女性は片方の眉を跳ねあげて、驚いたように問うてきた。
「あなた、変わった格好ね……もしかして、異世界人?」
「異世界人って何ですか?」
「この世界ではなく、別の世界から連れてこられた、もしくは迷い込んだ人のことよ。この世界にはそんな素材の服は存在しないし、容姿も異なるけれど、あなたの顔はそう――伝説の勇者のものと似てる」
頭の先から爪先までじろじろと眺められ、深奈は居心地が悪かった。
自分の容姿はと言えば、小さめの顔に大き目の丸い目、小さい鼻をしており、髪は内側にカールしがちな癖があるため、セミロングに伸ばしている。着ているのは黒いダウンジャケットとセーター、ジーンズで、足もとは靴下だけだった。
「ねえ、名前を教えてくれない? 私はシュエラと言うの。シュエラ・ドゥーナ。仕事の帰りがてら狼退治を依頼されたからここに立ち寄ったの。怪しい者じゃないわ」
「……はあ」
そこまで言われれば怪しみにくい。だからと言って、いくら命の恩人でも初対面の人間を信用するのは難しい。だからと言って、名前を名乗る程度なら問題ないと思われた。
「ええと、深奈といいます。森、深奈。森が名字で深奈が名前です」
「ああ、やっぱり」
女性――シュエラはなぜか一人納得したような顔でうなずくと、深奈の手を取った。
「とりあえず、ここで立ち話をするのは寒いから、村へ行きましょう。今夜の宿はそこに決めてるの」
彼女の言葉に空を見上げれば、やや赤みを帯びてきているのがわかる。
深奈は少しだけ悩んだものの、こんなところで凍死するのは嫌だったので、言った。
「わかりました」
今はとにかくここがどこで、自分がどういう状況に放りだされたのか知らなければ、と思った。胸をかきむしりたくなるような不安は、一時忘れることにした。
何より、寒くてたまらなかった。