序章-2 祖母のノートには、海の匂いが残っていた
菓子箱の中には、思っていた通り、古い写真が入っていた。
ただし、それはアルバムに貼られたような家族写真ではなかった。角の少し丸まった写真が、輪ゴムでいくつかの束に分けられている。輪ゴムは劣化していて、指で触れるだけでぱらりと崩れた。
僕は慌てて写真の束を押さえた。
畳の上に、海が散らばった。
駅のホーム。
港へ続く道。
白い船。
桟橋の手すり。
どこかの商店街。
海沿いのベンチ。
灯台らしい白い建物。
同じ場所なのか、違う場所なのか、僕にはすぐには分からなかった。けれど、写真のほとんどに海が写っていた。正確には、海そのものではなく、海へ向かう途中のものが多かった。
改札。
道。
乗り場。
時刻表。
船の中から見える島影。
普通、旅行写真というのは、もっと分かりやすいものではないのだろうか。名所の前で笑うとか、食べたものを撮るとか、土産物屋の看板を写すとか。
祖母の写真は、どれも少しだけ違っていた。
楽しかった場所を残すというより、何かを確認するために撮られた写真に見えた。
たとえば、一枚の写真には、古い時刻表が写っていた。文字は小さくて、薄れていて、ぱっと見ただけでは読めない。けれど祖母は、それをわざわざ正面から撮っていた。
別の写真には、小さな桟橋の足元が写っている。板の隙間。擦り切れたロープ。端に置かれた空き缶。観光客が撮るには、あまりにも地味な場所だった。
「……何撮ってるんだよ」
思わず、そんな独り言が出た。
祖母は答えない。
当たり前だ。祖母はもういない。
箱の底の方には、封筒がいくつか入っていた。表に「尾道」「向島」「瀬戸田」と書かれている。僕はその文字を見て、少しだけ眉を寄せた。
地名ごとに分けている。
几帳面といえば几帳面だ。けれど、どこか旅行の思い出というより、資料の整理に近かった。
僕はまず、「尾道」と書かれた封筒を開けた。
中には、写真が三枚と、小さな紙片が入っていた。
一枚目は、駅の改札を出たあたりから撮ったらしい写真だった。駅前の空が開けていて、その先に海らしい青が見える。写真の端には、人の肩が少しだけ写り込んでいた。
二枚目は、海沿いの道。道路の向こうに桟橋があり、小さな船が見える。
三枚目は、桟橋の足元だった。そこだけを切り取ったような写真。古い板と、薄く伸びた影。
紙片には、祖母の字で短く書かれていた。
尾道駅。
改札を出たら、海の匂いがする方へ。
駅から三分。
小銭を用意。
最初の海を渡る。
僕は、その紙をしばらく見つめた。
旅行メモ、なのだろう。
たぶん。
駅から三分。小銭を用意。最初の海を渡る。
言葉だけを見ると、妙に詩みたいだった。けれど実際には、ただの行き方の説明にも読める。尾道駅から海へ出て、渡船に乗る。小銭が必要なのは、船賃のためだろう。
それなのに、胸の奥に小さな引っかかりが残った。
最初の海。
普通、海をそんなふうに数えるだろうか。
最初のバス。最初の電車。最初の角。そういう言い方なら分かる。でも、最初の海という表現は、少しだけ変だった。
海は、渡るものというより見るものだと、僕は思っていた。
旅行者なら、なおさら。
「湊?」
台所の方から母の声がした。
「何かあった?」
「写真とメモ」
「メモ?」
「尾道駅から三分、とか」
母が戻ってきた。
手には濡れた布巾を持っている。台所を拭いていたのだろう。葬儀の疲れが顔に残っているのに、その目だけは、僕の手元の紙を見た瞬間、少しだけ鋭くなった。
「見せて」
僕は紙片を渡した。
母はそれを読んだ。読み終えてから、もう一度、最初から目で追った。
「知ってる?」
「……見たことはある気がする」
「このメモ?」
「似たようなのを。昔、机の引き出しに入ってた」
「じゃあ、何のメモ?」
母はすぐには答えなかった。
その沈黙で、僕は母も知らないのだと分かった。
「おばあちゃん、旅行の予定を細かく書く人だったから」
「でも、これって予定表じゃないよね」
「そうね」
「行き方のメモにしては、なんか」
僕はそこで言葉に詰まった。
なんか、何だ。
怖い、と言うほどではない。怪しい、と言うほどでもない。ただ、普通の旅行メモにしては、読んだ後に残る感触が違う。
母は紙片を僕に返した。
「おばあちゃん、昔から尾道の話だけはあまりしなかったの」
「好きだったんじゃないの?」
「好きだったと思う。でも、楽しそうに話すことは少なかった」
「じゃあ、なんで何度も行ったの」
母は少しだけ笑った。
悲しそうでもあり、困っているようでもある笑いだった。
「それを、私は聞かなかった」
聞かなかった。
今日、母は何度も似たようなことを言っている。
知らなかった。聞かなかった。詳しくは分からない。
僕は、自分と同じだと思った。
母もまた、祖母のことを知らなかったのだ。
親子だからといって、何でも知っているわけではない。近くにいる人ほど、いつか聞けると思って聞かないことがある。そして、聞ける時間は、いつの間にかなくなる。
箱の中には、まだ何か入っていた。
写真と封筒の下に、薄いノートが一冊。
表紙は濃い青だった。布張りのような質感で、角が擦れて白くなっている。大学ノートより少し小さく、手帳よりは大きい。表紙には何も書かれていない。
僕はそれを取り出した。
開く前に、なぜか指が止まった。
さっきの写真や紙片とは違う。これは、ただの記録ではなく、祖母の内側に近いもののような気がした。
「開けてもいいのかな」
僕がそう言うと、母は小さく息を吐いた。
「もう、湊が見つけたんだから」
「そういう問題?」
「たぶん、おばあちゃんは捨ててほしくなかったんだと思う」
「なんで分かるの」
「分からない。でも、箱に『尾道』って書いて、残してあったから」
母の言い方は、少しずるかった。
分からないと言いながら、分かったことにしようとしている。
僕はノートを開いた。
最初のページには、祖母の字でこう書かれていた。
尾道駅から始めること。
迷ったら、海へ向かうこと。
ただし、急がないこと。
急ぐと、旅に見えなくなる。
僕は、その一文で手を止めた。
急ぐと、旅に見えなくなる。
それは、旅行好きの祖母が書く言葉としては、奇妙だった。急がずに旅を楽しめという意味にも読める。けれど、旅に見えなくなる、という言い方には、別の意味が含まれている気がした。
何かを、旅に見せる必要があったみたいに。
母も横から覗き込んでいた。
「これ……」
「何?」
「ううん。続き、読んで」
僕はページをめくった。
次のページには、日付らしいものはなかった。ただ、地名と短い指示が並んでいる。
尾道駅。
改札を出たら、左手に海。
人の流れに逆らわない。
駅前の道を渡る。
桟橋まで三分。
小銭は先に出しておく。
ここでは振り返らない。
「振り返らない?」
僕は声に出して読んだ。
母の肩が、ほんの少しだけ動いた。
「何それ」
「僕が聞きたい」
「おばあちゃん、そんな書き方する人だったかな」
「知らないよ」
少しきつい言い方になった。
言ってから、後悔した。
母は何も言わなかった。怒りもせず、ただ黙ってノートを見ている。
僕はページをめくる。
向島。
五分だけ、世界が変わる。
短いから安心しないこと。
短いからこそ、誰かは見落とす。
胸の奥に、さっきより強い引っかかりが生まれた。
短いからこそ、誰かは見落とす。
旅行メモではない。
そう思った。
少なくとも、僕の知っている旅行メモではない。観光地の名前も、食べ物の名前も、土産物屋の情報も出てこない。書かれているのは、移動の仕方と、注意事項と、誰かに見られないためのような言葉ばかりだ。
「これ、いつのもの?」
「分からない」
「日付ないの?」
「今のところは」
さらにめくる。
紙はところどころ黄ばんでいた。ページの端には、祖母の指の跡のような薄い汚れが残っている。何度も開かれたノートなのだろう。けれど、書かれている文字は、整っていた。丸く、読みやすく、迷いがない。
尾道へ戻る時は、同じ海を渡る。
同じ海でも、帰りは違って見える。
その違いを忘れないこと。
そこだけは、少し旅行記らしかった。
僕は祖母の遺影を思い出した。
海を背にして笑っている祖母。
あの写真は、本当に楽しい旅の写真だったのだろうか。
それとも、何かを終えた後の顔だったのだろうか。
「湊」
母が静かに言った。
「それ、持って帰っていいよ」
「え?」
「お母さんが持っていても、たぶん読めない」
「読めるじゃん。字は」
「そういう意味じゃなくて」
母は膝の上で布巾を握りしめた。
「おばあちゃんのこと、私もちゃんと知らなかった。でも、今から全部知ろうとするのは、少し怖い」
「怖い?」
「うん」
母はそう言ってから、自分でも驚いたように目を伏せた。
「変だね。死んだ人の昔を知るのが怖いなんて」
「別に変じゃないんじゃない」
僕はノートを見下ろしたまま言った。
「知ったら、今までの知ってるおばあちゃんと違う人になるかもしれないし」
母は僕を見た。
その顔を見て、僕は自分が思っていたより正確なことを言ってしまったのだと気づいた。
僕たちにとって祖母は、優しい人だった。静かな人だった。旅行好きの人だった。昔のことをあまり話さない人だった。
でも、このノートの中の祖母は違う。
駅から三分。
小銭を用意。
振り返らない。
急ぐと、旅に見えなくなる。
まるで誰かに、逃げ道を教えているみたいだった。
そこまで考えて、僕は自分の想像を馬鹿らしいと思った。
逃げ道。
何から。
誰が。
祖母が、誰かを逃がす?
そんな物語みたいなことが、現実にあるわけがない。
祖母は普通の人だった。盆にみかんを剥いて、電話で「普通が一番ええよ」と言うような人だった。
でも、その普通の人が、こんなノートを残していた。
「行ってみたら?」
母が言った。
僕は顔を上げた。
「尾道?」
「うん」
「なんで」
「おばあちゃん、最後まで行きたがってたから」
「僕が行っても意味ないでしょ」
「そうかな」
「だって、僕、おばあちゃんのこと何も知らないし」
口に出した瞬間、その言葉は部屋の中で妙に大きく響いた。
何も知らない。
それは、言い訳だった。
知らないから行かない。知らないから悲しまない。知らないから、これ以上関わらなくていい。
でも、本当は逆なのかもしれない。
知らないから、行く必要があるのかもしれない。
祖母の家の窓の外で、夕方の光が少しずつ薄くなっていた。庭の鉢植えに影が落ちている。誰も水をやらなくなった花は、いくつか首を垂れていた。
僕はノートを閉じた。
表紙の青は、海というより、夜になる直前の空の色に似ていた。
「春休み、まだ残ってるし」
母は言った。
「無理にとは言わない。でも、もし湊が行くなら、おばあちゃんも喜ぶと思う」
「死んでるのに?」
「死んでても、喜ぶくらいはするでしょ」
母は少しだけ笑った。
今度の笑いは、さっきよりも母らしかった。
僕はノートを鞄の横に置いた。
「考えとく」
そう言った。
その時点では、本当に考えるだけのつもりだった。
けれど、その夜、家に帰ってからも、僕は何度もノートを開いた。
夕食の後。風呂の後。自分の部屋に戻って、机の灯りだけをつけてから。
祖母の字を追う。
何度読んでも、意味は分からない。
けれど、分からないからこそ、目が離せなかった。
尾道駅。
改札を出たら、海の匂いがする方へ。
駅から三分。
小銭を用意。
最初の海を渡る。
僕はスマホで尾道駅を検索した。
画面の中に、海沿いの駅舎が出てくる。駅のすぐ前に道があり、その向こうに海がある。写真で見た景色に似ていた。
続けて、尾道駅前、桟橋、渡船、と検索する。
駅から歩いてすぐの場所に、向島へ渡る船があるらしい。
所要時間は、約五分。
五分だけ、世界が変わる。
祖母の言葉が、スマホの画面の向こうで現実と重なった。
僕は時刻表を見た。地図を見た。駅から港までの道を見た。写真に写っていた桟橋らしい場所を探した。
何をしているのか、自分でもよく分からなかった。
祖母の思い出を辿りたいのか。
ノートの意味を知りたいのか。
それとも、葬儀で泣けなかった自分に、遅れて悲しむ理由が欲しかったのか。
たぶん、全部少しずつ正しかった。
机の上には、祖母のノートがある。
閉じた表紙の青が、部屋の灯りを吸って沈んでいる。
僕はスマホの乗換案内に、出発地と目的地を入れた。
目的地。
尾道。
検索ボタンを押す指が、少しだけ止まった。
行ったところで、何かが分かるとは限らない。祖母の過去なんて、もう誰にも聞けないかもしれない。ノートの言葉だって、ただの気まぐれな旅の記録かもしれない。
それでも。
僕は、祖母のことを何も知らないままにしておくのが、急に嫌になった。
葬儀で泣けなかったことよりも。
棺の中の顔を見ても、遠い人だと思ってしまったことよりも。
祖母が残したこのノートを、見なかったことにする方が、ずっと冷たい気がした。
乗換案内に、尾道駅到着の候補が並んだ。
その中に、午前十時十七分着の便があった。
なぜだか、それを選んだ。
理由はない。
ただ、祖母のノートが「尾道駅から始めること」と書いていたから。
そして僕には、物事を始めるのにちょうどいい時刻が、他に分からなかったから。
僕は小さく息を吐いた。
春休みの予定は、ほとんど空いている。宿はまだ取れるだろう。母には明日話せばいい。父はたぶん、反対しない。学校の課題は、帰ってからでもどうにかなる。
行く理由は、まだうまく説明できない。
でも、行かない理由は、もっと見つからなかった。
僕は机の引き出しから、小さな財布を取り出した。
中の小銭を数える。
百円玉。五十円玉。十円玉。
自分でやっておいて、少し笑いそうになった。
祖母のメモに従っている。
まだ尾道にも着いていないのに。
まだ、最初の海も見ていないのに。
僕は小銭を財布に戻し、祖母のノートを鞄に入れた。
その時、ページの間から一枚の写真が滑り落ちた。
床に落ちた写真を拾う。
写っていたのは、海ではなかった。
桟橋でも、船でも、駅でもない。
白い灯台の下に立つ、若い頃の祖母だった。
祖母の隣には、知らない少女が写っている。
年齢は、僕と同じくらいに見えた。長い髪を風に押さえ、少しだけ眩しそうに目を細めている。笑っているようにも、泣くのを我慢しているようにも見えた。
写真の裏には、祖母の字で短く書かれていた。
あの子を、海に返さないこと。
僕はその文字を、何度も読み返した。
意味は分からなかった。
けれど、その一文を見た瞬間、尾道へ行くことは、ただの思いつきではなくなった。
祖母の旅は、まだ終わっていない。
なぜか、そう思った。




