序章-1 祖母のノートには、海の匂いが残っていた
祖母の葬儀の日、僕は泣かなかった。
泣けなかった、と言った方が正しいのかもしれない。けれど、そう言うと少しだけ自分に都合がいい気がして、僕はずっと「泣かなかった」という言い方を選んでいる。
高坂千代。
祖母の名前を、僕は式場の入口に立てられた白黒の案内板で、改めて確認した。
祖母、という呼び方は、近いようで遠い。血縁上は確かに祖母だった。母の母。僕が小さい頃、盆や正月に何度か会った。お年玉をくれたし、みかんを剥いてくれたし、僕が苦手だった煮物を「無理して食べなくてええよ」と言って、母に少しだけ睨まれていた。
優しい人だった。
そう言えば、たぶん嘘ではない。
でも、それ以上のことを僕は知らなかった。
祖母が何を好きで、何を嫌いで、若い頃にどんな人だったのか。どこへ行きたくて、どこへ帰りたくなかったのか。何を思い出すと笑って、何を聞かれると黙る人だったのか。
そういうことを、僕は何も知らない。
だから、棺の中の祖母の顔を見た時も、悲しいというより、知らない人が一人、急に僕の人生からいなくなったような気がした。
「湊、焼香」
母に小さく促されて、僕は前へ出た。
親戚たちの視線が背中に集まる。制服の袖口が少しだけきつい。三月の終わりで、外はもう春みたいな空気なのに、式場の中だけは季節が止まっていた。線香の匂い。白い花。僧侶の声。誰かの鼻をすする音。
作法を間違えないように、前の人の動きを思い出しながら手を合わせた。
祖母の遺影は、僕の記憶より少し若かった。
海を背にして、薄い色の帽子をかぶって笑っている。背景はどこかの港だった。青い海と、白っぽい桟橋と、遠くに見える島影。観光地で撮った写真なのだろう。祖母らしい、と親戚の誰かが言っていた。
祖母らしい。
その言葉を聞いて、僕は少しだけ困った。
僕には、祖母らしさがよく分からなかったからだ。
焼香を終えて席へ戻ると、隣に座っていた母がハンカチを握りしめていた。母は泣いていた。声を出さない泣き方だった。背筋を伸ばして、唇を結んで、目だけを赤くしている。
僕はその横顔を見て、ようやく少しだけ胸が痛んだ。
祖母が死んだことではなく、母が母を失ったことが、遅れて僕に届いた。
「おばあちゃん、苦しまなかったの?」
式の後、控室でそう聞くと、母は紙コップの緑茶を見つめたまま、少し間を置いてから答えた。
「最後はね。眠るみたいだったって」
「そっか」
「最後まで、どこかに行きたがってた」
「どこ?」
母はそこで、僕を見た。
変な目だった。泣き疲れた目ではあるのに、別の何かを思い出しているような目。
「尾道」
「尾道?」
「うん。広島の。昔から、よく行ってたみたい」
「旅行?」
「たぶんね」
たぶん、という言い方が引っかかった。
旅行好きだったのなら、もっとはっきり言えばいい。祖母は尾道が好きだった。昔からよく行っていた。それだけの話のはずなのに、母の声には、どこか決めきれない響きがあった。
「お母さんも知らないの?」
「詳しくは。おばあちゃん、自分の昔の話、あまりしなかったから」
「ふうん」
僕はそう返した。
それ以上、聞く言葉が見つからなかった。
控室の隅では、親戚たちが祖母の思い出話をしていた。あの人は料理が上手だったとか、昔は足が速かったとか、晩年も一人で電車に乗ってどこへでも行ったとか。僕の知らない祖母が、いくつも出てきては、煙みたいに宙へ消えていく。
不思議だった。
同じ人の話をしているはずなのに、誰の口から出る祖母も、僕の知っている祖母とは少しずつ違っていた。
僕の知っている祖母は、夏に冷えた麦茶を出してくれる人だった。お年玉の封筒に、毎年同じ丸い字で「湊くんへ」と書く人だった。僕が高校に入ってからは、年賀状と短い電話だけの人になった。
去年の正月、電話で話した時、祖母は僕に言った。
「高校はどう?」
「普通」
「普通が一番ええよ」
「おばあちゃんは?」
「私も普通」
その時、祖母は少し笑った。
僕は、電話越しのその笑い方を覚えている。けれど、今思えば、あれがどういう笑いだったのかは分からない。満足そうだったのか、寂しそうだったのか、何かをごまかしていたのか。
僕は何も聞かなかった。
普通、と言われたから、普通なのだと思った。
葬儀が終わり、火葬場へ向かう車の中で、母は何も話さなかった。父は運転席で、ナビの音声に従って淡々と道を進んだ。僕は後部座席に座り、窓の外を流れる町を見ていた。
春の光は、やけに普通だった。
コンビニの駐車場で子供がアイスを食べている。自転車の高校生が笑いながら信号を渡っている。道路沿いの桜は、まだ満開ではなく、ところどころに薄い花をつけている。
誰かが死んでも、世界はそのまま続く。
そんなことは知っていた。でも、知っていることと、実際に見ることは違う。
火葬場の待合室で、僕はスマホを触るふりをしていた。友達から通知が来ていた。春休みの課題、やったか。今度カラオケ行かないか。新しいゲーム買ったか。
どれも返信できなかった。
返す言葉がないのではなく、返した瞬間、僕だけが日常に戻ってしまうような気がした。
祖母の骨を拾う時、母の手が少し震えていた。
僕はその横で、箸を持ち上げた。白い骨は軽く、脆く、触れてはいけないもののようだった。さっきまで祖母だったもの。けれど、僕の知っている祖母は、もうどこにもいなかった。
骨壺に収まっていく祖母を見ながら、僕はやっぱり泣かなかった。
泣けなかった。
そして、そのことに少しだけ安心している自分がいた。
泣かなければ、悲しみの深さを測られずに済む。祖母をどれだけ知らなかったのか、自分でも見なくて済む。
たぶん、僕は冷たいのではない。
ただ、知らなかっただけだ。
その日の夕方、僕たちは祖母の家へ戻った。
祖母の家は、駅から少し離れた古い住宅街にあった。庭には手入れの途中で止まった鉢植えが並び、玄関の横には色褪せた傘立てがある。家の中は、祖母が入院する前のまま時間を止めていた。
台所のカレンダーは二月で止まっていた。冷蔵庫には母が貼ったらしいメモが残っている。薬の袋。病院の診察券。近所のスーパーのポイントカード。
生活の跡というのは、思ったよりも生々しい。
葬儀場では遠かった死が、家に戻ると急に近くなった。
「今日は大まかに見るだけでいいから」
母はそう言いながら、居間の電気をつけた。
蛍光灯が一度だけ瞬いて、それから部屋全体を白く照らした。畳の上に座布団が三枚。低いテーブル。隅に古い茶箪笥。壁際の棚には、写真立てがいくつも並んでいた。
祖父の写真。母が若い頃の写真。僕がまだ小学生だった頃、祖母と一緒に写っている写真もあった。
僕はその写真の中で、手にアイスを持っていた。祖母は僕の隣で、少し屈んで笑っている。
覚えていない。
その日がいつで、どこで、何を話したのか。祖母が何を言って、僕がどう返したのか。写真の中の僕は祖母の近くにいるのに、今の僕にはその距離が分からない。
「湊、こっち手伝って」
母の声で、僕は写真立てから目を離した。
奥の和室に、祖母の荷物がまとめられていた。入院中に使っていた衣類や、書類の入った箱、古いアルバム、引き出しから出したらしい封筒の束。母一人では整理しきれない量だった。
「これ、必要そうなものと、処分するものに分ければいい?」
「うん。写真とか手紙は捨てないで。あと、旅行関係のものが出てきたら別にしておいて」
「旅行関係?」
「切符とか、パンフレットとか、そういうの。おばあちゃん、よく取っておく人だったから」
母はそう言って、押し入れの下段から段ボールを引っ張り出した。
箱の側面には、祖母の字で「写真」と書かれている。
丸くて、少し右に傾いた字。
お年玉の封筒に書かれていた字と同じだった。
僕は畳に腰を下ろし、箱の中身を一つずつ取り出した。古いアルバム。旅行先で買ったらしい絵葉書。どこかの港で撮った写真。船の前で笑う祖母。駅のホームで帽子を押さえている祖母。海沿いの道を歩く祖母。
思っていたより、祖母はたくさん旅をしていた。
「こんなに行ってたんだ」
「そうみたいね」
母は押し入れの奥を覗き込みながら答えた。
「お母さんは一緒に行かなかったの?」
「子供の頃は何度か。でも、大人になってからはあまり。おばあちゃん、一人で行くのが好きだったから」
「一人旅?」
「うん。たぶん」
また、たぶん。
僕は写真をめくる手を止めた。
「さっきから曖昧だね」
「そう?」
「旅行の話」
母は少しだけ困った顔をした。
「私も、ちゃんと聞いたことがないの。おばあちゃんがどこに行って、誰に会って、何をしていたのか」
「旅行なのに?」
「旅行だから、聞かなかったのかも」
その言葉は、少しだけ変だった。
旅行だから聞かない。
確かに、親の一人旅の細部なんて、普通はわざわざ聞かないのかもしれない。どこの駅で降りたか、何時の船に乗ったか、どの店で休んだか。そんなことは本人が楽しんでいればそれでいい。
でも、祖母の写真を見ていると、ただの旅行写真には見えないものが混じっていた。
海。港。船。駅。桟橋。
同じような場所が、何度も写っている。
観光地の看板や名物料理よりも、乗り場や道端や、誰もいない岸壁の写真が多かった。
たとえば一枚の写真には、古びた桟橋の端だけが写っていた。人物はいない。青い海と、白く擦れた柵と、画面の隅に小さく写り込んだ船の影。
別の写真には、駅前らしい場所から海へ向かう道が写っている。正面ではなく、少し斜めの角度。まるで、誰かがそこを通るのを待っていたみたいな写真だった。
「これ、どこ?」
僕は写真を母に見せた。
母は手を止め、少し目を細めた。
「尾道じゃないかな」
「分かるの?」
「おばあちゃん、尾道の写真だけは多かったから」
尾道。
葬儀場でも聞いた名前だった。
祖母が最後まで行きたがっていた場所。
僕は写真をもう一度見た。
そこに写っているのは、特別な絶景ではなかった。けれど、海が近かった。駅から少し歩けば、すぐに港へ出られるような場所。町と海の境目が曖昧で、道の先に船がある。
祖母は、なぜこの場所を何度も撮ったのだろう。
そう思った瞬間、押し入れの奥で、母が小さく声を上げた。
「あった」
「何が?」
「たぶん、これ」
母が取り出したのは、古い菓子箱だった。
缶ではなく、厚紙でできた箱。表面は日に焼けて、模様もほとんど消えている。蓋の端には、祖母の字で小さく「尾道」と書かれていた。
母はそれを開けようとして、ふと手を止めた。
「湊、見てくれる?」
「僕が?」
「うん。お母さん、ちょっと台所を見てくるから。中に写真とか切符が入ってたら、別にしておいて」
母はそう言って立ち上がった。
逃げた、と思った。
もちろん、本当に逃げたわけではない。母は疲れていたし、台所にも片づけるものはある。けれど、その箱を開ける役目を僕に渡した時の顔は、見たくないものを少しだけ先送りする人の顔だった。
僕は畳の上に置かれた菓子箱を見下ろした。
尾道。
祖母の字で書かれた二文字。
蓋に指をかけると、紙の縁が少しざらついた。長い間、誰にも開けられなかった箱の感触だった。
中から何が出てくるのかは分からない。
ただ、その時の僕はまだ、そこに祖母の旅行の思い出が入っているのだと思っていた。
写真。切符。古いパンフレット。どこかの土産物屋で買った絵葉書。
そういう、死んだ人の人生の余白みたいなもの。
まさかその箱の中に、祖母が十年かけて守った嘘が眠っているなんて、思いもしなかった。
僕は、ゆっくりと蓋を開けた。




