深海の世
「イヴ、起きなさい!」
イヴは目を開ける。目の前には、お母さんの顔があった。お母さんは、イヴを覗き込むようにしていた。イヴはゆっくりと体を起こす。
「もう、今日は約束があるんでしょ?」
約束。まだ半分眠っている頭であったが、その言葉を聞くと、すぐに思い出した。イヴは飛び起きる。
「大丈夫よ、慌てなくても。まだ時間はあるから。朝ご飯はもうできているからね。」
お母さんはそう言うと部屋を出ていった。イヴは胸を撫で下ろすと、ベッドから起き上がる。すると、さっき見た悪夢が思い出された。眠ったまま返事をしなくなった青年。炎に包まれ、涙を流す少女。
(最近、同じ夢ばかり――)
「それでは、今日一日、娘さんを預からせていただきます。夕方には帰ってきますので。」
「本当に、いつも迷惑かけてごめんなさいね。」
家の玄関で、紫の髪の青年がお母さんと話している。イヴは、青年の側でそのやりとりを聞いている。
「この子ったら、すっかりギャリーさんに懐いちゃって。他の子と遊ぶよりも、ギャリーさんと遊ぶことのほうが多いんじゃないかしら。」
「え?そうなの、イヴ?」
青年―ギャリーはイヴを見る。イヴは咄嗟にギャリーのボロボロのコートに隠れる。
「なあに?照れてるの、イヴ?」
お母さんが笑う。
「行こ、ギャリー。」
イヴはギャリーのコートの裾を引っ張り、玄関から外に出る。
「いってらっしゃい、イヴ。」
お母さんが玄関から手を振る。イヴは振り返ると、大きく手を振った。
「まだかなあ。まだかなあ。」
たくさんの人形や絵が散らばっている部屋の中、金髪の少女がクレヨンで絵を描きながらつぶやいた。青い瞳に映るのは、コーヒーカップに乗る少女二人の絵。一人は、緑のドレスを着た金髪の少女。もう一人は、赤いスカートに大きな赤いリボンが胸にある少女。
今日は約束の日だ。今日は、みんなで遊園地。今まで遊園地に行ったことのない少女にとって、今日はとても楽しみで仕方がなかった。最近、絵に描くのも遊園地の絵ばかりだった。遊園地に着いたら、まず何に乗ろう。
「まだかなあ。まだかなあ。」
「メアリー、ギャリーさんとイヴちゃんよー。」
一階からお母さんの声が聞こえてくる。金髪の少女―メアリーはクレヨンを放り投げると、そのまま一階に駆け下りていった。
「イヴ!」
メアリーは玄関まで走ってくると、そのままイヴに抱きついた。イヴはその勢いで一、二歩後ろによろめいた。ギャリーは、メアリーのお母さんと話している。
「もう、この子ったら。ずっとイヴちゃんに会いたいってうるさくて。昔から、こんなに元気な子だったかしら。」
そう。メアリーは昔からこの家にいたわけではない。メアリーは元々、この世に存在していなかった。メアリーは、ゲルテナの作品のひとつに過ぎなかった。
しかし、イヴたちと一緒に不思議な美術館から脱出した日から、この家の子供ということになったのだ。もちろん、この母親はメアリーはこの家の子供だと信じ込んでいるし、メアリーもそのことに不満はなかった。
「イヴ。今日は遊園地だね。楽しみ!」
「私も。」
「それでは、夕方には帰ってきますので。」
「お母さん。いってきまーす!」
メアリーは手を振ると、イヴの手を取る。
「さ、行こ。イヴ!」
「イヴ、今度はあっちに行ってみよ!」
メアリーはイヴの手を取り、走り出す。遊園地に着いてから、メアリーはずっとイヴの手を繋いでいる。その顔は、笑顔だ。
「ちょっと、メアリー。うれしいのはわかるけど、程々にしとかないと、イヴも疲れちゃうわよ。」
メアリーがそう口にしたギャリーの方を見る。その顔を見て、ギャリーはギョッとする。メアリーが、まるで憎たらしいものを見るようなしかめ面でギャリーを睨んでいたからだ。ギャリーは不思議な美術館での出来事を思い出し、身震いをする。
「ううん。私は平気だよ。」
イヴは笑顔で返事をする。メアリーはパッと笑顔を浮かべ、イヴの方を見る。
「わがままばかり言ってごめんね。疲れたら、いつでも言っていいからね。」
そのまま二人は駆け出そうとする。再びギャリーとメアリーの目が合う。
「疲れているのは、ギャリーだけなんじゃない?」
メアリーの勝ち誇った目に、ギャリーはどうすることもできなかった。
(何かしら、この敗北感は―)
そう思うと不意に笑みがこぼれた。まさか、こんな時間を過ごす日が来るなんて、あの美術館を訪れる前のアタシは、全く思ってなかったわよ。
(まあ、いいか)
「ギャリー、早く!」
イヴに呼ばれたギャリーは、二人のあとを追う。
「楽しかったね、イヴ!」
すっかり空は茜色に染まり、イヴたちは遊園地から帰るところだった。結局、メアリーは一日中走り回り、遊園地のアトラクションを少なくとも二回は乗っていた。
「そ・・・・・・そう・・・・・・。それは・・・・・・よかった・・・・・・わね。」
「ギャリー、大丈夫?」
「もしかして、本当に疲れちゃったの?」
ギャリーは疲れたわけではなかった。ただ、最後に行ったお化け屋敷とジェットコースターが、ギャリーをここまで疲弊させてしまった。お化け屋敷では、恐怖のあまり足がすくんでしまい、イヴとメアリーに置いていかれ、ジェットコースターは、メアリーになぜか一人で乗せられ、最初から最後まで叫びっぱなしだった。
「ジェットコースター、乗りたかったなあ。いいなあ、ギャリーは。身長高くて。」
「そ・・・・・・そうかしら。はは・・・・・・」
(この子の恨みをかうのだけは、絶対にやめておこう)
「ギャリー、なにか言った?」
「ううん。なんでもないわ。イヴも楽しかったかしら?」
「うん。」
イヴは大きく頷く。イヴは感情が表に出にくい子だったが、そのときは、たしかに笑っていた。
「そう。それはよかったわ。」
そう言って、ギャリーはイヴに微笑む。すると、ギャリーの頬に冷たい水が落ちてきた。
「あら?雨かしら。」
ギャリーが空を見上げると、徐々に雨粒が増えてきた。あっという間に土砂降りになった。
「すごーい。こんな雨、見たことない!」
メアリーは空を見上げながら、クルクルと回りだす。イヴは自分の両手で頭を覆っている。気がつけば、数メートル先も見えない大雨になっていた。
「これは、ひどいわね。とにかく、雨宿りする場所を探さないと!」
ギャリーは二人の手を取って走り出す。しかし、視界が悪いせいか、なかなか雨宿りできそうな建物が見つからなかった。
「ギャリー。あそこはどう?」
イヴが指差す。その方向には、たしかに建物の影らしきものがあった。
「よし。あそこで雨宿りしましょ。」
三人は、雨のカーテンの向こうの建物に向かって走っていった。建物まで走ると、玄関に出っ張っている屋根の下に潜り込んだ。
「ふう。なんとか雨宿りできたわね。」
「でも、服がびちゃびちゃだよ。」
メアリーが自分の服を引っ張る。雑巾のように絞れば、たくさん水が出てきそうだった。イヴが小さくくしゃみをする。
「なんとかしてよ、ギャリー。」
「なんとかって――。この家、誰かいるかしら。」
ギャリーはインターホンを探し、押す。
「あら?このインターホン、壊れてる・・・・・・」
「もう誰も住んでないのかな?」
イヴはそう言うと、もう一度小さくくしゃみをする。
「このままだと、風邪ひいちゃうわ。」
「あっ、鍵開いているよ。お邪魔しまーす。」
メアリーは扉を開けると、そのまま建物の中に入っていった。ギャリーとイヴは呆気にとられ、しばらくそのまま立っていた。すると、すぐに扉が開き、メアリーが顔を覗かせた。
「ねえ、暖炉があったよ!もしかしたら、使えるんじゃないかな。行こ、イヴ。」
メアリーはそう言い残すと、イヴの手を引いて再び扉を閉めた。ギャリーは我に返ると、慌てて扉を開き、中に入っていった。
ギャリーが中に入ると、ツンとした独特の臭いが鼻についた。これは油絵具の臭いだ。暗くてよく見えなかったが、廊下一面に様々な色の絵の具が飛び散っているようだった。歩くたびに、廊下が軋む音がする。
(絵を描く人が住んでいたのかしら?)
ギャリーは二人の声がする部屋に向かう。部屋に入ると、大きな暖炉の前のソファでイヴとメアリーが話していた。
「あ、ギャリー。ちょうどよかった。ライターで火を点けてよ。」
メアリーが振り返ると、そう言った。
「ああ。ライターね。えーっと。どこにしまったかしら―」
ギャリーはポケットを探りながら、暖炉の前に立つ。すると、誰かにコートの裾を引っ張られる。ギャリーが下を向くと、そこにはイヴがいた。
「どうしたの、イヴ?」
「火、点けなくていい。」
「どうして?そのままだと、風邪ひいちゃうわよ。」
「いいから。」
イヴは、視線をソファの方に向ける。そこには、疲れたのか眠ってしまったメアリーがいた。メアリーを見たギャリーは、イヴが何を言いたいのか分かった。
不思議な美術館で、咄嗟にライターで燃やそうとした『メアリー』。もし、あのとき、ライターの火が点いたなら。イヴが勇気を出してメアリーと向き合わなかったら。メアリーはここにはいなかった。
ギャリーはしゃがみ込み、イヴと同じ目線の高さになる。
「分かったわ。でも、そのままだと本当に風邪ひいちゃうわ。何か拭くものがあればいいんだけれど―。ちょっと、他の部屋に行って探してくるわね。」
ギャリーは立ち上がると、部屋を出ていこうとする。
「ギャリー。」
「なあに、イヴ?」
ギャリーが振り返る。イヴはしばらく迷っていたが、首を小さく左右に振った。
「そう。何かあったら、すぐに呼んでね。」
ギャリーは、そのまま部屋をあとにする。
「なんか、ここ、あの美術館に似ているわね。」
いくつかの部屋を回り、ギャリーはそんなことを感じていた。この建物は、家というより芸術家のアトリエのようだった。作品は残っていないものの、首なしのマネキンや不思議な色彩の人形など、まるでいつかの美術館で見たようなものがいくつかあった。
「それより、早くしないとイヴが心配だわ。」
ギャリーは扉を開ける。扉を開けると、部屋の真ん中に布のかかった大きな絵画があるのが目に入った。
「ここも、何もなさそうね。」
部屋を一通り見終わったギャリーは、そのまま扉に向かう。
―しまえ―
どこからともなく聞こえてきた声に、ギャリーは思わず飛び上がってしまう。その拍子で、扉のそばに置いてあった花瓶を落としてしまう。大きな音が響き渡る。
ギャリーはおそるおそる振り返る。振り返ると、ギャリーは目に入った光景に、その場から動けなくなった。
「嘘でしょ―」
イヴはメアリーの寝顔を見ながら、ギャリーの帰りを待っていた。メアリーは気持ちよさそうにぐっすり眠っている。ただ、あまりに突然眠ってしまったのが気がかりだった。余程疲れていたのだろうか。ふと、イヴは今日の朝見た夢を思い出していた。
(大丈夫だよね――)
すると、イヴのいる部屋に何かが割れる鋭い音が聞こえてくる。
(ギャリーに何かあったのかな――)
イヴは、様子を見に行こうと部屋を出ていこうとする。部屋を出ていく前にふと振り返り、メアリーを見る。メアリーは、静かに寝息をたてて眠っている。
(すぐ戻ってくるから)
イヴは扉を開き、部屋を出ていく。
扉がとじる。部屋には雨が窓を叩きつける音だけが残る。ソファの上では、メアリーが静かに眠っている。すると、誰もいないはずの部屋にどこからともなく声が響く。
―深海に―
イヴが部屋を出ると、足元が冷たくなった。思わず、足を上げる。イヴは水に濡れたのかと思ったが、そこに水はなかった。代わりに、真っ黒な絵の具が塗られていた。廊下の床一面、黒い絵の具で塗りつぶされていた。
(さっきまで、こんなに黒くなかったはずだけど―)
とにかく、イヴは音のした方に向かう。
(この部屋からかな――)
イヴは、扉の前に立つ。床を覆い尽くす冷たい黒い絵の具も、その扉の下から出ているように見えた。
イヴが扉を開こうとする。すると、勢いをつけて扉が開き、黒い液体が流れ出してきた。イヴはなす術なく、そのまま黒い洪水に飲まれる。洪水に流され、上も下もわからなくなってしまった。息もできず、そのまま流される。流される先に、ある絵画があるのがイヴの目に映った。
イヴは、そのままその絵画の中に入っていく。イヴが絵画の中に入ると、部屋は何事もなかったかのように静まり返った。大粒の雨粒が窓に叩きつける音だけが、部屋を満たしていた。
部屋の真ん中には布が取れた絵が残っていた。そして、床には黒い文字が浮かぶ。
『深海の世』
深海に溺れてしまえ
そこにあったのは、暗い深海に不気味なチョウチンアンコウが描かれた絵だった。
紛れもなく、以前ゲルテナ展覧会でイヴが不思議な美術館に迷い込んだときに踏み込んだ絵だった。




