第二十二話 カッパのひょうすけ
訓練場は、夜になると静かだった。
昼間あれだけ賑やかだった場所が、夜は誰もいなくなる。松明の明かりだけが、固く踏み固められた土を照らしている。
アケルは、その中に一人で立っていた。
目を閉じた。
あのときのことを思い出す。カガミのうみ。ミサゴが吹き飛ばされた。膝をついた。立ち上がれないかもしれなかった。シリウスが歩いてくる。止められない。何もできない。
——体の奥で、何かが動いた。
あのときと同じ感覚を、引き出せるはずだ。
「……出ろ。」
アケルは手を開いた。
何も起きなかった。
もう一度、目を閉じた。もっと深く思い出す。ミサゴの傷だらけの顔。震える膝。それでも立ち上がろうとしていた背中。
「出ろ。出ろ出ろ出ろ出ろ出ろ。出ろ!」
何も起きなかった。
アケルは息を吐いた。
また、やり直した。
何度目かわからなかった。
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「まだやってんのか。」
声がした。
振り返ると、エンジが訓練場の入り口に寄りかかっていた。腕を組んで、飄々とした顔で。
「……いつからいた。」
「しばらく前から。」
「今の見てたのかよ。」
「見てた。」
アケルは手を下ろした。
「出ないんだよ。全然。わかんねぇんだよ。全然。」
「そうだな。見てたらわかった。」
「どうすればいいんだろ。」
エンジは少し考えるように天井を見た。
「俺に聞くな。タオのこと、俺もよくわかってない。」
「そっか。」
しばらく沈黙があった。
「カガミのうみ、また行ってみようと思う。」
アケルが言った。
エンジは、少しだけ目を細めた。
「一人でか?」
「一人で。」
「ミサゴ先生に言うのか。」
「……言わないで行く。」
エンジはしばらくアケルを見ていた。
それから、ため息をついた。
「まあ、お前がそう決めたなら。」
「止めないのか。」
「止めても聞かないだろ。」
アケルは、エンジを見た。
「ありがとな。」
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翌朝、早い時間に鬼燈院を出た。
廊下を歩くとき、ミサゴの部屋の前を通った。
襖の向こうから、気配がした。
ミサゴが起きている。
アケルは足を止めた。一瞬だけ。
それから、また歩き始めた。
ミサゴは、何も言わなかった。
襖は、開かなかった。
アケルは門を出た。
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カガミのうみは、静かだった。
あの日と同じ、鏡のような水面。空を映して、青く、白く、広がっている。風があるのに波がない。生きているのに、息を潜めているような静けさ。
アケルは湖岸に立った。
手を開いた。
「……出ろ。」
何も起きなかった。
目を閉じた。あのときの感情を引き出そうとした。ミサゴが倒れそうになった瞬間。走っても間に合わないかもしれなかった恐怖。
何も起きなかった。
「出ろ。」
何も起きなかった。
アケルは手を握った。
「なんで出ないんだ。」
誰にともなく、呟いた。
あのときは出た。確かに出た。手のひらが焼けるように熱くなって、光が溢れた。主が動きを止めるほどの光が。
なのに今は——何もない。
「うーん、力んでるねえ。」
声がした。
アケルが振り返った。
誰もいなかった。
「下だよ、下。てか踏んでるよぉ。」
アケルは足元を見た。
なんかいた。
小さかった。頭に皿を乗せた、緑色の生き物。甲羅を背負い、くちばしのような口をしていた。ただ——全体的に、しなびていた。皮膚がしわしわで、皿の水もほとんど干上がっていた。目だけが、ぎょろりと大きくてアケルを見上げていた。
「……カッパ?」
「そう、カッパ。ちょっと助けてくれない?干からびちゃって。」
妙に馴れ馴れしい声だった。
「助けるって、どうすれば。」
「湖の水をちょっとかけてくれれば。皿に。」
アケルは湖に手を入れ、水を掬った。カッパの皿に、ゆっくりとかけた。
カッパが、ぶるりと震えた。
しわしわだった皮膚が、少しずつ張りを取り戻していく。色も、鮮やかな緑になっていく。皿の水がたぷたぷと揺れた。
「——あー、生き返った。ありがとねえ。」
カッパが、のそりと立ち上がった。
思ったより大きかった。アケルの腰くらいある。
「名前は?」
「ひょうすけ。君は?」
「アケル。」
「アケルか。いい名前だねえ。」
ひょうすけが、のしのしとアケルの周りをぐるりと歩いた。品定めするように、上から下まで見ている。
「おい、なんで俺の周りうろうろするんだよ。」
「気になったから。」
「気になったからって……。」
「お前、面白いタオしてるねえ。」
ひょうすけが、くちばしをぱくぱくさせながら言った。
「見えるのか。タオが。」
「なんとなくね。光のタオって珍しいよ。久しぶりに見た。」
「久しぶりって、前にも見たことがあるのか。」
「ずーっと昔にね。まあいいや。」
ひょうすけは、そこで話を打ち切った。
「何してたんだ、こんなとこで干からびて。」
「ちょっと昼寝してたら、陽に当たりすぎちゃって。うっかりだよ。」
「うっかりで干からびるのか。」
「カッパってそういうもんだよ。皿が乾くと動けなくなっちゃってさ。助けてもらえてよかったよ、ほんと。」
ひょうすけが、のしのしとアケルの横に来た。それから、湖を見た。
「お前、タオ出そうとしてたでしょ。さっき。」
「見てたのか。」
「見てたよ。うーん、力んでたねえ。」
「ミサゴ先生にも言われた。」
「その先生の言うとおりだねぇ。」
「ひょうすけに賢いって言われるとは思わなかった。」
「カッパだって賢いよ。失礼だなあ。」
ひょうすけが、くちばしをとがらせた。
アケルは思わず笑った。
「悪かった。」
「まあいいけど。」
ひょうすけが、アケルを見上げた。
「せっかくだから、ちょっと話してあげるよ。助けてもらったお礼に。」
「話?」
「タオのこと。」
「知ってるのか。」
「まあね。君ら人間より長ーく生きてるからさ。」
ひょうすけが、アケルの前にどかりと座った。
「タオって、なんだと思う?」
「……道術の源。生まれ持った力。」
「違う違う。」
ひょうすけが、首を振った。
「タオってのはね、道だよ。万物が流れる道。自然の摂理。逆らえないもの。」
「……それが道術とどう繋がるの?」
「繋がってるんじゃなくて、同じものだよ。」
ひょうすけが、湖面を指さした。
「水を見てごらん。水ってさ、低いところに流れるでしょ。無理に流れようとしない。ただ、自然に流れる。それがタオの本質だよ。」
「……俺のタオは、光だけど。」
「光も同じだよ。光はね、遮るものがなければ自然に広がる。無理に出そうとしなくても、道が開けば流れ出る。」
アケルは、ひょうすけを見た。
「でも、どうすれば道が開くんだ。」
「力を抜くんだよ。」
ひょうすけが、あっさり言った。
「え。」
「出そう出そうって思えば思うほど、道が塞がる。水だって、無理に押し込めば溢れるでしょ。タオも同じ。」
「じゃあ、何も考えなければいいのか。」
「そういうわけでもない。」
ひょうすけが、のしのしとアケルの前に立った。
「お前さ、どうやってタオが出たか。なんでタオが出たか、本当にわかってる?」
「ミサゴ先生を守りたかったから。」
「違う。」
「違う?」
「守りたいって思ったんじゃなくて——守りたいって感情が、自然に溢れ出たんだよ。考えて出したんじゃない。考える前に、出てた。」
アケルは黙った。
「今のお前は、出そうとしてる。でもタオってのは、出すものじゃなくて、溢れ出るものなんだよ。」
「……じゃあ、どうすれば溢れ出るんだ。」
「それはお前が見つけることだよ。」
ひょうすけが、湖面を見た。
「でもヒントをあげるとしたら——お前が一番自然でいられる瞬間を探しな。力んでない、計算してない、ただそこにいるだけの瞬間。そのときにタオは一番流れやすい。」
アケルは、湖面を見た。
鏡のような水面が、空を映していた。
「……難しいな。」
「難しいよ。でも、お前はもう一回出してるんだから。」
ひょうすけが、アケルを見上げた。
「あとは思い出すだけだよ。」
アケルは、左の手のひらを見た。
太陽の形の火傷。
「ひょうすけって、このうみに住んでるのか。」
「そうだよ。古くからね。あの主とも古い付き合いでね。」
「あの主が……。」
「カガミのうみには色々住んでるんだよ。俺みたいなのも含めてね。」
アケルは、ひょうすけを見た。
「ひょうすけって、怪異なの?」
「そうだよ。」
「でもタオを使えるんだろ。タオって人間だけのものじゃないのか。」
「誰がそんなこと言ったの。」
ひょうすけが、くちばしをぱくぱくさせた。
「タオは人間だけのものじゃないよ。怪異だって持ってる。あの主だって持ってる。俺だって持ってる。」
「じゃあ人間と怪異って、何が違うんだ。」
ひょうすけはしばらく湖面を見ていた。
「住んでる場所が違うだけだよ。」
「……住んでる場所?」
「現世と常世。お前たちは現世に住んでる。俺たちは常世に近い側にいる。ただそれだけ。」
アケルは黙った。
「でも常世って、現世とは別の場所なんだろ。」
「別じゃないよ。」
ひょうすけが、アケルを見上げた。
「現世と常世はね、同じ世界の表と裏なんだよ。光と影みたいなもの。現世があるから常世がある。常世があるから現世がある。」
「……同じ世界の、表と裏。」
「そう。だからタオも同じものが流れてる。人間の中にも、怪異の中にも、同じタオが流れてる。」
アケルは、湖面を見た。
水面が、空を映している。水の中の空と、上の空——同じ空の、表と裏。
「じゃあ、怪異が現世に出てくるのは……。」
「影が光の側に滲み出てくるようなものだよ。龍脈ってのはその境目を保つ縫い目みたいなもので——それが弱まると、影が滲んでくる。」
「だから龍脈が枯れると怪異が増えるのか。」
「そういうこと。」
ひょうすけが、のしのしと湖岸を歩いた。
「怪異が現世に来るのは、悪意があるわけじゃないことも多いんだよ。ただ、影が光に寄り添おうとするだけ。俺みたいなのもそうだしね。」
「ひょうすけも、現世に来たくなるのか。」
「たまにね。こうしてカガミのうみにいるのも、現世に近い場所だからさ。」
アケルは少しの間黙っていた。
「……俺の光のタオって、怪異にも何か影響するのかな。」
「さあ。わからないねえ。」
ひょうすけが、くちばしをぱくぱくさせた。
「でも光のタオってのは、常世側にも届く可能性があるよ。それだけ根っこが深いタオだから。」
「根っこが深い……。」
「まあ、それもお前が自分で確かめることだよ。」
アケルは、左の手のひらを見た。
太陽の形の火傷が、夕暮れの光の中で赤く光っていた。
「また来てもいいよ。干からびてたら助けてくれるとありがたいけど。」
「毎回干からびるのか。」
「うっかりだからね。」
アケルは、思わず笑った。
ひょうすけも、くちばしの端を上げた。笑っているのかどうかよくわからなかったが、たぶん笑っていた。
日が傾き始めていた。
アケルは立ち上がった。
「ありがとな、ひょうすけ。」
「礼はいいよ。お前が助けてくれたんだから、お相子だ。」
アケルは湖を見た。
タオは、今日は出なかった。
でも——何かが、変わった気がした。
出すものじゃなくて、溢れ出るもの。
その言葉が、胸の奥に静かに落ちていた。
「また来る。」
「待ってるよ。」
アケルは身を翻した。
カガミのうみは、また静かになった。
鏡のような水面が、夕暮れの空を映していた。




