Chapter:118 「お父様とおばあ様には内緒ですよ?」
出流は自分が再びアイルッシュの土を踏んだ時、そこが自分の教室であったことに気がついた。幸い一年生は誰もいない。二年生や三年生にしても教室が違うので、今のは誰にも見られていないはずだ。
出流の背中で、不安定な“ほころび”が、ういんと閉じた。時計を見る。屋上で“ほころび”をくぐった時から、ものの十分ほどしかたっていなかった。当然ですね、一晩でしたから。出流は思いつつ、自分の席に座った。
もう、さっきのような気持ちは薄れていた。
僕は何を考えていたのでしょう。
オルデといったか、あの門番のあの微笑を見た時、出流は確かに戦慄した。今までの敵に感じたものではない。少なくとも別の感情。
違うと思いたいけれど……
僕はあの時、オルデに父様の影を見た、そんな気がした。
出流の脳裏に、オルデの屋敷で目覚める前に見た夢が思い返された。母がひとりでたたずみ、今にも危ない目に遭おうとしているのに、父はどこにもいない。母親を助けに来ようともしない。ただ出流のみが、動けず、叫び続ける。「かあさまを助けて」と。そんな夢。
ぞくりとした。あの夢がリアルにこびりついて、離れない。
父様は、母様を、どう思っているのでしょう。
八歳差があって、見合いで結婚したというふたり。もし自分の両親が、見合いによって無理矢理結びつけられたものであったなら、愛情などかけらもあるまい。
愛していない。
「ただ……世間体のためだけに、離婚ができない……」
家のことを考えれば、そういうことも十分ありうる。つぶやいてみて、出流は心臓が跳ねた気がした。
それが事実なら。
「……落ち着きなさい、僕……!」
胸を叩く。それでも一度考え出すと、この少年の頭脳はどんどん深みにはまってゆく。
違う。僕はそういうことを考えたいのではないのです!
「……え?」
じゃあ、何を?
僕は何を考えようとしていたのですか?
答えの出ないまま、出流はそっと教室を出た。
「ただいま帰りました」
本当なら寄り道でもして帰りたいところだったが、不安定な気持ちのままでは寄り道をしたところで何の収穫にもならない。出流はいつも以上に重たい気持ちを抱えて、まっすぐ家に戻った。
それでも、彼の周りはいつもどおりだった。お手伝いは出流の声を聞くなり、玄関に飛んで来る。
「お帰りなさいませ、坊っちゃま。お早かったのですね?」
「――はい。――」
その返事はどこか曖昧だった。彼女は出流の表情を少しだけうかがうと、
「お茶はお部屋の方でよろしいですね?」
と聞いた。彼女なりの気づかいである。
「そうしてください。……」
それがわかっているだけに、出流には唇の端を持ち上げるのだけが精一杯の礼儀だった。そのまま出流はふらふらと部屋に入っていった。
玄関のドアが開いた。
「ただいま帰りました」
お手伝いがいそいそと迎えに出ると、それは出流の姉だった。
「お帰りなさいませ。お早いお帰りですね」
「いえ、書類を取りに戻ったのですよ。……あら……」
ふいに、彼女は靴棚に目をやった。いつもはこんな時間になかなか見ない靴が、靴棚に収まっていた。
「……出流さん……家にいるのですか?」
「あ……ええ、今日はお早かったようで。ただ、少し、元気のないご様子でしたが。一応お茶だけは持ってゆきましたけれども」
彼女は少し考えた。さすが出流の姉だけあって、この才女には出流の元気のない理由が、考えてとれたようであった。
「……電話をお願いします」
「お嬢様、何を……?」
「今日は半休を取ります。お父様とおばあ様には内緒ですよ?」
姉はいたずらそうに、少し笑った。彼女がなんの考えもなしに半休を取るような娘ではないことがお手伝いには解っていたから、黙って電話を持ってきた。
出流はその頃どうしていたかというと、姉が帰ってきて、なおかつ半休を取ったことも知らず、部屋からふいと出てきていた。部屋にいてもくすぶるだけだという考えに基づくものであることは言うまでもない。
長い廊下を歩く。時代がかった装飾の施されたその廊下は、今の出流にはいつにもまして冷たかった。ため息をついて、顔を上げる。
その時、出流は、今ここにはいないはずの人物の顔を認めた。
「出流さん」
「姉様……?」