第52話 「ぼんやりとした河童」
俺はただひとり、ある落ち着いた雰囲気の喫茶店に身を置いていた。もうかれこれ四日間も風呂に入っていない。浮浪者四日目の心境とはこんな感じなのだろうかと考えながらも、俺には帰る家もあり、友人もおり、これから大学に通うという進路も用意されているわけで、そんな状況に置かれた生ぬるい自分と、何もかもを失った孤独な浮浪者とをダブらせて考えるということは、いささか考えが甘すぎるなと反省した。
俺が早川さんの葬式後に家には戻らず別の場所を転々としているのには、これといった特別な理由などはない。ここに至った問題がどこかしらにあると結論付けることは、俺のこれまでの人生を歩んできた経緯なども含めて、そういった特定という形で必ずしも示し出すことは出来ないのである。結果の大抵は動機に至る道程をしめしているだけであり、俺が今ここにいることも複雑な動機を含んでいる。少なくとも俺の場合は、ただぼんやりとした不安である。何か俺の将来に対するただぼんやりとした不安である。このぼんやりとした不安を少しでも取り除くため、喫茶店のウエイトレスに風呂を借りれないか頼んでみたのだが、店内には風呂がないとのことで断られてしまった。では、あなた達はどうしているのかと尋ねてみたところ、家で入ると言われたため、潔く諦めることにした。
喫茶店を出た俺は、真っ先に風呂屋を探すことにした。しかし、この辺りに風呂屋がある気配がしない。
「畜生、早川さんのせいで俺はこんなにも惨めな姿だ」
俺は早川さんを恨んだ。早川さんさえいなければ俺はもっとこの夏をおおいに楽しめているはずだ。しかし、これはこれで何だか奇妙な話である。もうこの世に存在しない早川さんがいなければ良かったのにと思う心境をどのように自分の中で消化すれば良いのか。そんな不思議な気分を味わいながら、ますます風呂に入って身も心もさっぱりしたいと強く願った。
この辺りに風呂屋はないと確信した俺は、民家の風呂を利用させてもらおうと考えた。早速俺は、あたりかまわず近くにある民家に風呂を貸してくれとインターフォン越しにお願いをしてまわったのだが、一軒目、二軒目と即座に断られてしまった。
別に風呂を借りたいだけなのだから、俺は決して怪しい者ではないはずだ。それをことごとく拒絶していく人間どもは絶対に地獄に落ちるであろう。困った時はお互い助け合わなければならない。そんな常識もわからない奴らがこの世には多すぎるのである。地獄に落ちるがいい。そして後悔するのだ。俺を拒絶したことを。この世に生を授かったことを。俺に風呂を貸さない者はすべて抵抗勢力だ。俺は先ほど拒絶された民家に忍び込んで無理矢理風呂に入ることを決意した。表札には倉田と書かれてあったので、倉田なんとかという奴が住んでいるのだろう。
そういえば、中学時代に倉田大輔という奴と同じクラスになったことがある。確か中学二年か三年の時だ。高校に進学すると、倉田君とは違う学校になったため会う機会もなくなってしまった。その代わりに倉田君と大の仲良しである柱谷君とは同じ学校になり、クラスも一緒だった。この柱谷君が結構な厄介者で、クラスの中ではどちらかと言うと嫌われていた。その理由としてあげられるのが、柱谷君の言動に他ならない。柱谷君は言葉の選び方がおかしいのだ。
例えば、俺がある授業で教科書を忘れてしまった時のことである。教師から、教科書の中からテストに出題する箇所を言うから赤のボールペンで線を引けと言われ、俺は教科書を持っていないものだから、ずっとおどおどしていたわけである。そんな時に柱谷君が、今日一日教科書を貸してあげるよとさり気無く声をかけてきてくれたのだ。柱谷くんはなんて優しい奴なんだと思わざるをえなかったのだが、その際に柱谷君は、
「でも、この教科書ちょっと汚れてるけど良い?」
とは言わず、
「でも、この教科書ちょっと汚れてるけど悪い?」
と言ってきたのである。悪意は決してないとは思うのだが、言葉の選び方によってしばしば誤解されやすい典型的な例であると俺は確信した。
倉田家の屋内に忍び込むと、玄関からすぐの所に風呂場があった。
「よし、ここで心身共々綺麗にさせていただくぜ」
俺は威勢良く風呂場の扉を開けた。すると、そこには何と三点ユニットバスの光景が広がっていたのである。
「三点ユニットか…」
俺はしばらく腕組みをしながら高校生活も終わりに差し掛かる頃を思い出していた。
放課後の教室の中。俺と有田君はお互い睨み合いながら一歩も引かず状態であった。そこに隅田君がやって来て、
「君たち、何をそんなにいがみ合ってるんだ」
と言ってきた。それに対して有田君は、
「こいつと今、三点ユニットバス賛成か反対かで戦っているんだ」
と答えた。
「じゃあ有田君は賛成なの?反対なの?」
隅田君が問うと、
「当然賛成だ。銭湯に行くとサウナと水風呂を交互に使う人を見かけるが、俺もそんな感じでトイレと風呂を交互に使って楽しむんだ」
と、有田君は俺をきっと睨みつけた。俺も負けじと、
「駄目だ!」
と言い放った。隅田君が、
「君は何で三点ユニットバス反対派なんだ」
と聞いてきたので、俺は軽くうなづいた。そこへ船木君がやってきて、
「僕は絶対に三点ユニットバスは反対だよ。やっぱりお風呂とトイレは別じゃないとね。仮に誰かがお風呂を使っている時にトイレを使いたくなったとしたらどうするんだい?それからお風呂を使った後にトイレ付近が濡れてしまったら、服に着替えた後、トイレが使えなくなっちゃうじゃないか。それでも有田君はユニットバスの方が良いと言い張るのかい?別に個人の思うことは自由だけれども、それは西洋文化にしてやられちゃってるだけだと僕は思うんだ。違うかい?」
と言いながら、サラサラの長い髪を両手でかきあげてみせた。
「うるせえええええええええええ!!!」
有田君は船木君の顔面目掛けて大きな拳を突き放った。有田君は自分の思想を否定されたことによる怒りを暴力で示したのである。船木君の顔面は大騒ぎとなり、その日のうちに有田君は生徒指導室に呼ばれて軽く注意された。船木君は入院し、数ヶ月にも及ぶリハビリ運動を頑張ったのだが、
「もう良い。疲れた」
とだけ言い残して、今は三点ユニットバスのワンルームで一人暮らしを始めている。
俺は三点ユニットバス反対派としてその後もこの考えを崩さないまま今に至っているわけであり、ここで三点ユニットバスに入るということは、自分自身を大きく裏切ることになってしまう。自分のポリシーも守れない奴は死んだ方がましだ。俺は三点ユニットバスを諦め、風呂とトイレが別になっている他の家を探すことにした。
次にターゲットとなったのは二軒目に拒絶された家である。表札には西村と書かれていた。この家の外観は素晴らしく、どこかのデザイナーに頼んで建ててもらったのであろうか、まるでディズニーランドにでもありそうな玩具のような家なのである。
「これは風呂…いや、バスルームにも期待できそうだな」
俺はそう言って一階の玄関ドアから忍び込んだ。先ほどの倉田家もそうだが、何故玄関に鍵をかけないのだろうか。特に田舎というわけではなく、ここら一帯は集合住宅地のような場所なのだが、摩訶不思議だ。
西村家の玄関は広く、シューズインクローゼットと呼ばれる靴を収納するためだけの部屋まで完備されていた。
「す、すげえ…」
俺はシューズインクローゼットの中でしばらく硬直状態にあった。これだけの靴が収納されているということは、ここに住んでいる奴はさぞかし足に自信のある奴なのだろう。見つかってしまっては逃げ切れる自信はない。
「とりあえず見つからないように、さっさと風呂に入ってしまわなければ…」
俺は匍匐前進しながら風呂場がありそうな場所を探しまわっていると、ひとつの大きな部屋に出た。
「こ、これは…!?」
今まで見たこともない広がりを見せる奥行きのある空間、高く突き抜ける天井には静かに回転するお洒落なシーリングファン、部屋全体を覆いつくす暖かみある色艶模様の壁や床。そして何と言っても毎日欠かさず整理整頓されているのであろう清潔感溢れる空気が漂っている。俺は魔法にでもかかったように部屋の中で立ち往生していた。見たところ、この部屋はリビングとして使用されているようだ。
我に返った時、俺はふかふかの心地良さが体中に染み渡るソファーに座っていた。
「極楽だ…」
俺はそう呟きながら、そこから窓越しに見える美しい山々を眺めていた。その時である。
「ちょっと!あなたどっから入ってきたの!?」
やや高めの声が響き渡った。はっと後ろを振り返ると、そこには四十代くらいの女性が立っていた。その女性は慌てて奥の部屋へと引き下がると、すぐに警察へ電話をしている声が聞こえてきた。
「しまった!」
俺は急いで匍匐前進で玄関口から逃げ出し、近隣にあった公園まで走った。
「畜生、またかよ!」
俺はトイレ事件を思い出し、今自分の置かれている危険な立場を察知した。そうだ、俺はトイレ事件の犯人として現在指名手配中だったのだ。その上で不法侵入で捕まってしまっては洒落にならない。しかし、不法侵入はしたものの俺は何も盗んだりはしていない。
「そうか。全然悪いことしていないじゃないか」
俺はそう考えると、心の余裕を取り戻すことが出来た。しかし、その余裕も束の間のハッピーエンドタイムであった。何故なら、俺が持っていたはずのドロップの缶がなくなっていたからである。あの缶の中にはご存知の通り、早川さんの骨が入っている。俺は慌てふためき、コマンドから「どうぐ」を選択して探してみたのだが、「ドロップの缶」という文字はどこにも見つからなかった。おそらく西村家のリビングで寛いでいる時に忘れてしまったのだろう。とりあえず一通り大騒ぎをしてはみたものの、よくよく考えるとそれほど重大なことではないことに気づき、
「まあ、いっか」
と言って元気に後ろを振り返ってみたのだが、そこには誰もいなかった。
俺は犠牲になった早川さんの骨のためにも、今自分ができることをしなければならないと強く誓った。俺はとうとう学校へ行くことを決意した。しかも今度は裸足でだ。これまで以上に過酷な道のりになるであろう。しかし、俺は重い運命を背負いし者なのだ。このぐらいの苦労など受けてみせようではないか。
「今度こそ着いてみせる!」




