第三項-姉の嫁入り②
使いに出した宦官が戻ってきたのは、その日の夕方だった。
西から橙色がさしこみ、東宮の廊には暗く長い影が落ちている。午前からほとんど読み進んでいない書は、開かれたまま机上に置かれその光を一心に受けている。
宦官は跪いて手を前に組み私の言葉を待っている。
「報告せよ。」
「はい。皇后陛下がおっしゃるには、明後日の未の刻に桃風園西側の東屋に会合の場を設けてくださるとのことです。」
”西側”という言葉になにか引っ掛かりを覚えた。桃風園に東屋は四方に設置されているのに何故わざわざ西側なのか。東宮と後宮の位置関係を考えるとお互いにとって都合がいいのは北側、または東側なはずなのに。
「ふむ。二日後か」
普通よりかは早い日程だが、公主の急な婚姻に関する話し合いの日程としては少し遅いような気もする。明日ごろか遅くても明日後の朝かと考えていただけに、だろうが。
まあ、後宮なりの理由があるのだろうし、気にすることはないはずだ。おそらく。
「よかろう。皆の者もそのつもりで頼むぞ。」
ぱんぱんと手をたたいてこの部屋に控えている側仕えたちに伝えた。
「ふぅ、ひとまずは区切りがついたな、では私は内室にでも……」
今まで勉強したり、宦官を待ったりしていたこの部屋のさらに奥にある内室に足を向ける。
「殿下?礼節録は読み終えなさりましたか?明日も李老師がお越しになるかと存ずるのですが……」
春桃が控えめに進言する。
ギクッと体がはね、少し振り向いてにこっと微笑む。
私のすべてを投げ出すかのような笑みで察したのか、春桃もその顔に笑みを浮かべる。
うむ、いい笑顔だ。口元がすこしぴくぴくしていて、目がまったく笑っていなくて、眉間に少ししわが寄っている、まさに龍のような笑顔。
「冗談だ!冗談!少し横になりながら読むだけだぞ。」
あらがえなかった。
基本的に呼ばない限り側近は入れない内室なら勉強せずに済むと思ったのに。
しかたなく、分厚くて重い冊子を持ってとぼとぼと簾を押し上げてその奥に入った。
ふぅ、とため息をはいて、寝台の上に寝転がる。
今日は目まぐるしい一日だった。
考えることが多かったし、焦ったり落ち着いたりの繰り返しで……
ちらっと側机に置いた書を見遣る。なんというか、もはや崖とも形容できそうな厚みだ。
こんなに忙しい時期にこんなに字を読ませようとする李玄はまさに鬼といえるだろう。
などと、心の中で思っていたが、あることを思い出す。
『礼節録は古代から伝わる儀式や規則について記された書です。』
いつか忘れたが、そんなことを言っていたはずだ。まだ私が勉学に本気でなかった頃なので本当にうろ覚えなのだが。
ばっ、と寝台から起き上がり礼節録に手を伸ばす。
一枚一枚紙をめくって、めくり続ける。
文字が見えた。
”婚礼”
ここだ。
‐婚礼は二つの家を結びつけ、先祖を祀り、後世を継がせる礼である。故に敬を表し慎んで行うべきだ。また、納采・問名・納吉・納徴・請期・親迎という六礼の手順を正しく踏まねばならない‐
こんなの、二十五日なんかで終わるはずがない。
さらに読み進めると、請期について書かれた箇所を見つける。
‐男家が女家に婚礼の日を打診する。また婚礼の日取りは卜にて決定する‐
思わずため息がこぼれる。
占いで決めるなら、丁巳とかいう不吉極まりない日に親迎の儀を執り行うわけがない。
なんともちぐはぐとしかいいようのない事態である。
やはり何かがおかしい。偶然でないような気配がしてままならない。誰かが糸を引いている?
西の東屋も偶然ではないのでは……?
ここまで考えて、やめた。
朝も考えかけたが、やはり姉上と会ってから考えたほうがいいだろう。
どーんどーんと一更の鼓が鳴っている。
およそ戌刻だ。
きっと夕餉はすでにできていて、毒見も終わっているだろう。
考えすぎたのか頭が痛い。
空腹を主張するかの如く、ぐぅぅぅぅっと音が鳴る。
簾をめくり外に出た。
宮女達を呼びつけ、夕餉の支度を任せる。
着々と料理を運んでくる宮女たちをぼーっと見ながら思った。
意外にも李玄はいいやつなのかもしれない。
料理に手を付ける。いつも通り味はしない。
相変わらず、嫌みばっかで腹が立つしにやけた表情や狡猾そうな目は不快だが。今日の課題が礼節録だったのも、おそらく遠回しに私を知識面で助けてくれたのだろう。
違う可能性は大いにあるが。
信用してみる価値はあるかもしれない。
箸を置き、立ち上がった。
特定の宮女を呼び、小部屋に入る。着替えだ。
帯が緩み、重い衣が体からはがれる。
ぱらりと髪が解かれ春桃がせっせととかしていく。
礼節録をもう少し読まなければ。
まだ婚礼についてしか読んでいないから、明日の予習として、ほかの項目も。
――
昨日よりも遅く、昼頃に来た李玄は私に礼節録から学んだことについて尋ねた。もちろん昨晩死ぬ気で詰め込んだので何の問題もなく淡々と話していく。
細い目が大きく見開かれ、失礼なほどに驚いている。
「ほう、殿下。思いのほかお読みになっていますな。特に婚礼の項は。」
当たり前である。姉上の結婚騒動の渦中だからな、というかわざと礼節録を課題として出したくせに、白々しく何も知らないそぶりを見せる姿に、にやりと笑った。
「うむ、できすぎなほどに折りよい課題であったからな。」
打って変わって目が細められる。
「そうでしたか。いやはやそれならばようございますな」
怪しげに口元が弧を描いている。
「して、李玄よ。」
話を切り出す。
「どう思う。姉上の結婚を。」
空気が変わった。
「どう、とは何でしょう?殿下。」
李玄の眼は真剣みを帯びていた。口元は依然と笑っているが目が笑っていない。
「婚礼とは、ああも急ぐものであろうか。此度のように多くの儀式を飛ばしてまで。」
じぃっとまっすぐに見つめる。口ひげがぴくっと動き始めた。
「……急ぐ場合もありますな。」
「特に、こちらに都合の悪いことがある場合は」
李玄の伏せられていた目が一瞬だけこちらを窺うように、あがった。
「此度もそうだと考えるか?」
答えに迷っているのか、口を動かしてはそのままとどめている。
「さて……殿下がすでに答えにたどり着いているのでは?」
たどり着いているか、といわれればたどり着いていないと思う。だが、ところどころ推測のつく箇所はある。だが、まだ信用してもよいか怪しい李玄にはすべて言うべきではないだろう。
「一部だけだが、とでも言っておこう。明日姉上と会合するので、そこで答え合わせだ。」
ははは、と乾いた笑い声を立てて、そうですかと李玄は言った。
そこからはいつも通りだ。あくまで表面上は、だが。
たいして面白みのない古典の話がどんどん続いていく。
だが普段よりかは真面目に予習をしているので、多少は頭に入りやすい。
普段からもう少し真面目にするか?とも思うが、心の中で頭を振った。
いやそれよりも、私は早く剣術をしたいのだが!?
早く、この、軟禁状態を解いてください父上!
およそ2700字しかないのに5時間かかりました。
姉の嫁入りはあともうちょっと続く予定。




