三分間の猶予
三分。
それは、バルドル帝国軍が次弾を装填するまでに残された、冷徹な時間制限だった。
絶対零度の氷柱が天を覆う荒野を、二つの影が並んで疾走していた。
第二聖女ナイム。そしてホウオウ。
四天王の指輪の輝きが、二人の速度を完全に物理法則の枠外へと引き上げていた。地面の氷が、彼女たちの足元でパキパキと激しく弾け飛ぶ。
「ホウオウちゃん、左から回り込む歩兵隊の数はおよそ五百。私の剣術で防衛線を一瞬で切り開くから、君はまっすぐ皇帝の首を狙いなよ」
ナイムはいつものニコニコ顔に戻っていた。
迷いは吹っ切れた。ミリアムとの問答、そしてフランシスカの治療の暖かさが、彼女の心の黒い染みを綺麗に洗い流したのだ。
「了解した。薙ぎ払うこと嵐のごとく、突き進むこと流星のごとし。ナイム、遅れるなよ」
「言うねぇ」
二存在が敵陣へと突入した。
バルドル軍の重装歩兵が槍を突き出すが、彼らの視覚は二人の神速に全く追いついていない。
横一閃。
ナイムの東方の剣が空を裂いた。
刃が触れた跡すら見えない。しかし、重装歩兵の並べた頑強な盾が、五十枚同時に綺麗に真っ二つへと切り裂かれた。アクドラ最強の剣豪の、超級の成果。
防衛線の完全な瓦解。隙だらけ。
「邪魔だ」
ホウオウがその亀裂へと飛び込んだ。
新しい名刀から放たれる凄まじい真空の刃が、立ち塞がる兵士たちを木の葉のように虚空へと吹き飛ばしていく。
戦術的な包囲網の構築など、この二存在の前には単なる紙細工に過ぎない。
一方、後方。
第四聖女ディーク、第三聖女イグドラシル、第五聖女マリアンヌの部隊も、全力で前線を押し上げていた。
イルゴール、ヴェルゼ、オルエン。
すべての精鋭が、ナイムたちが開けた穴を維持するために死力を尽くしている。
「イルゴール、ヴェルゼ、一歩も退くな!聖女の誇りを見せよ!」
ディークが凛とした声で指示を出す。水色の髪が揺れる。
「我が主の御心のままに!」
イルゴールの槍が敵の軽装兵を次々と突き崩していく。ヴェルゼも、チキンを食べていた時とは別人のような鋭い眼差しで、短剣を振るい、敵の戦力を確実に削いでいた。
司令塔のマリアンヌは、紫水晶を強く握り締め、全軍に的確なタスクを送り続けていた。
『敵の増援が右方から来ます!オルエン殿、足止めを!』
「へいへい、運命を捻じ曲げてあげるっすよ!」
オルエンが飄々と地を蹴り、右翼の敵勢を一人で翻弄し始めた。イグドラシルの水晶玉が指し示す予測値通りの完璧な防衛。
三分間の猶予。
時間は残り一分。
バルドル皇帝ルドルフの本陣天幕が、ついに二人の少女の目の前に迫り上がってきた。
圧倒的な質量を誇った六千の軍勢が、六つの聖女の完璧な連携によって、内側から完全にバラバラへと解体されつつあった。
バルドル帝国軍、本陣。
天幕の幕が引き裂かれ、黒いマントを羽織った男が姿を現した。
バルドル皇帝、ルドルフ。
彼の前には、すでに数人の直衛兵しか残っていなかった。ゲオルグ将軍はイルゴールの槍によって武装を解除され、地面に転がっている。
完璧な、チェックメイトの状況。
ナイムの東方の剣と、ホウオウの名刀が、皇帝の首元へと同時に突きつけられた。
距離、わずか数センチ。
動けば即座に首が飛ぶ、そんな冷徹な緊迫。
「……私の計算を、ここまで完璧に上回るか。六つの聖女の結託、これほどのものとはな」
ルドルフ皇帝は、死を前にしても冷徹な表情を崩さなかった。合理主義者としての佇まい。
「バルドル皇帝陛下。これで、終わりです」
馬車から降り立った女王フランシスカが、静かに歩み寄ってきた。
白銀の冠が、戦場の硝煙の中で美しく輝いている。
「貴方の負けです。これ以上の戦いは、貴方の国の完全な破滅を意味しています。兵の死をコストと言い切った貴方なら、この状況での『正しい損切り』が何か、理解できるはずです」
「……フン。認めよう。私の完全な敗北だ。世界のロジックは、力によって書き換えられたというわけか」
皇帝は静かに両手を上げた。
降伏の意思表示。
「全軍、撤退だ。バルドル帝国は、二度とお前たちの国に干渉せん。不戦条約を結ぶことも約束しよう。……勝者よ、見事だった」
皇帝ルドルフの口から出た、敗北の受容。
その言葉と共に、残された数千のバルドル兵が、一斉に武器を収め、西の地平線へと退いていった。
ついに、掴み取った。
本当の、明日を。
ホウオウは剣を鞘に収めると、大きなため息をつき、その場にへなへなと座り込んだ。
全身から出る汗。体力を完全に使い果たしていた。
カバンから干し肉を取り出し、もしゃもしゃと食べ始める。
「お腹が空いたぞ、フランシスカ。これで、約束は果たしたな」
「ええ、ホウオウ。本当に、ありがとう」
フランシスカはホウオウの隣にしゃがみ込み、その小さな手を強く握りしめた。
目から涙が零れ落ちる。
後ろでは、ナイムとミリアムが相変わらず嫌味を言い合い、ディークがイグドラシルと内政の相談を始め、マリアンヌが笑顔で部下たちを労っていた。
六人の聖女の拮抗は、今、新しい「平和の楔」へと形を変えたのだ。
バルドル帝国との戦いから数週間。
国境線での不戦条約の締結だけでは、フランシスカは納得していなかった。なぜなら、ケジメをつけずに別れる裏切りこそが、彼女の最も許せない事象だったからだ。
一行は、バルドル帝国の首都であるバルドル城へと赴いていた。
今回は戦争ではない。対等な国としての、正式な調印式である。
堅牢な黒レンガで作られたバルドル城の謁見の間。
玉座に座るルドルフ皇帝の前に、フランシスカ、そしてホウオウとシュクレが立っていた。
「契約書を。シュクレ」
フランシスカの指示。
シュクレが手際よく、一枚の羊皮紙を机に広げた。そこには、バルドル帝国と我が国との間の、対等な貿易協定、奴隷市場の完全なる禁止、そして相互不干渉の条項が理路整然と書き連ねられていた。完璧な内政のロジック。
「これに署名を、皇帝陛下。これで、私たちの間にケジメがつきます」
「……どこまでも実直なレディだな」
ルドルフ皇帝はフッと笑い、金のペンを走らせた。署名。
これで、隣国とのパワーバランスは完全に安定へと向かう。
調印式が終わり、バルドル城の中庭へと出た一行。
中庭には、見事なバラが咲き誇っていた。アクドラの荒地とは対照的な、豊かな景色。
「フランシスカ、お腹が空いたぞ。バルドル城の食堂の肉は美味しいと聞いた」
ホウオウがぬっと口出しした。もしゃもしゃと乾燥したレモンを食べながら。まだ食べるのかという、とんだ精神力である。
「ふふ、そうね。シュクレ殿、今日の仕事はここまでにして、皆で食事にしましょう」
「お供しますよ、女王陛下。私も、干し肉ばかりの強行軍には飽き飽きしていましたからね」
シュクレは可笑しそうに笑った。
平和。
掴み取った世界の明日が、今、彼女たちの目の前に広がっていた。
犠牲と覚悟のロープの上に残った、尊い日常。
彼女たちの反逆の旅は、ここに、本当の平穏を見出したのである。
光の差す、大聖堂。
内政の立て直しは順調に進み、街には民の笑顔が溢れていた。出店の店員が積極的に人を呼び込み、子供たちが白いレンガの街並みを走り回っている。平和なものである。
女王となったフランシスカは、この日、私服に着替えていた。
白いワンピース。長い銀髪を風になびかせ、帽子を目深に被っている。
隣には、黒い装束ではなく、綺麗な着物を着せられたホウオウ。髪は黒く、赤い瞳が珍しく緊張で揺れていた。
二人は、街で一番評判の良い、白い綺麗なレストランの席についていた。
「お待たせいたしました。特産の豚肉のローストと、三種の野菜のスープ、名産の乾パンでございます」
運ばれてくる美味しそうな料理。贅沢にバターが塗られた乾パンが、香ばしい匂いを放つ。
ホウオウの目が、一瞬で輝いた。
「いただくこと風のごとく、スープ飲むこと火のごとく、乾パンかじること山のごとく、肉を噛みしめること林のごとし」
お馴染みの意味不明な呪文を唱え、ホウオウがガツガツと食べ始めた。にんじんの一片すら残さない。
「美味しいか?ホウオウ」
「うん!生まれてきて本当によかった!フランシスカ、お前と一緒に食べられる肉は、世界で一番美味しい!」
もぐもぐしながら語るホウオウ。食べるのか話すのか、どっちつかずである。かわいい子である。
フランシスカはスープを口にし、静かに微笑んだ。
追放され、孤独だったあの日。
現実という名の地獄から、自分を救ってくれたのは、他でもないこの少女の忠義だった。
「ホウオウ。私は、貴女に出会えて本当に幸せですわ」
「……私もだ。私の未来なんて無かったし、ただ死ぬのを待つだけの日々だった。それを、お前が変えてくれたんだ。だから、これからもずっと、お前の剣で居させてほしい。……ごめん。涙がね」
ホウオウは涙を袖で拭き取った。その涙は、言葉に出来ない大事なものの証。
彼女は席を立ち、フランシスカの目の前に跪いた。そして、フランシスカの手の甲に、そっとキスをした。
「私の主。これからも、忠誠を」
「ええ。一生の付き合いになりますね、ホウオウ」
窓の外には、雲一つない青空が広がっていた。
六つの聖女を率い、世界を正した女王と、その傍らに寄り添う最強の剣。
後の人は言う。アクドラより聖女来たる。
その名を、フランシスカと。
そして、その光を支え続けた影の名を、ホウオウと。
彼女たちの紡ぐ平和の旋律は、明日へ向かって、どこまでも高く、響き渡り続ける。
これにて、『ここに六つの聖女を率い、世界を正そう。女王。』、完全完結となります!
面白かった方、ブックマークと星マークの評価をお願いします!最大★★★★★です。
読んでくださって、本当にありがとうございました!




