迎えた朝
リビングのソファに座っていたつもりだったが、いつの間にか眠っていたらしい。窓から差し込む眩しい朝日が瞼を叩き、僕は静かに目を覚ました。
ゆっくりと重い身体を起こし、洗面所へ向かう。鏡に映った自分の目は、昨日散々泣いたせいで痛々しいほど赤く腫れていた。冷たい水で何度も顔を洗い、無理やり意識をはっきりさせる。
自分自身の空腹はまったく感じなかったけれど、あの子たちのために朝食を作らなければとキッチンに立った。
「イリス、何か簡単に作れる朝食メニューを教えて」
手首の端末が小さく光り、淀みのない滑らかな音声が応える。
『かしこまりました。こちらはいかがでしょう。炊き立てのご飯に、豆腐とワカメのシンプルな味噌汁、そして卵焼きの組み合わせを提案いたします。調理手順を表示しますか?』
「……ううん、大丈夫。ありがとう」
昨日フレンチトーストを作ったばかりだし、和食なら胃にも優しいだろう。
米を研いで炊飯器のスイッチを入れ、出汁をとって具材を煮込んでいく。しばらくすると、キッチンに香ばしいご飯の匂いと、味噌の優しい香りが少しずつ漂いはじめた。
――朝起きると、いつもこの匂いがしていた。
僕が目覚めるよりずっと早くに起きて、当たり前のように温かい朝食を用意してくれていたアイリスの姿が、鮮明に脳裏に浮かぶ。
「……ふぅ」
胸に込し上げる切なさを押し殺すように、深く息を吐き出した。
出来上がったお味噌汁を小鉢に少し掬い、ふーふーと息を吹きかけて味見をする。
「……っ」
出汁の取り方も、味噌の量も、きっとイリスが教えてくれた通りの完璧なレシピのはずだった。それなのに――口の中に広がった味は、いつもアイリスが作ってくれていたあの味とは、何かが決定的に違っていた。
決して不味いわけじゃない。ちゃんと美味しい、普通の味噌汁だ。
けれど、そこに「あの味」はない。僕は一口飲み込むと、お玉をそっと鍋に戻し、まだ静まり返っている廊下の方をじっと見つめた。
起こすべきかどうか少し迷ったけれど、昨日までの混乱と恐怖を考えれば、少しでも長くゆっくり休ませてやりたい気持ちが勝った。僕はそのまま二人を起こしにはいかず、リビングで彼らの目覚めを待つことにした。
手首の端末に視線を落とし、低く問いかける。
「イリス、現在のセキュリティ状況を教えてくれ」
『かしこまりました。現在、当拠点周囲の半径500メートル以内に敵対反応および異常反応は検出されておりません。外部監視カメラ12基、および隠密防犯ドローン2機が定常ルートを哨戒中です』
淡々と表示されるセキュリティマップとデータ。しっかりとした防衛網に少しだけ安堵しかけたものの、ふと、胸の奥を激しい不安が掠めた。
(……待てよ。アイリスという『AI本体』が消えたってことは……本部に僕たちのことがバレたりしてないのか……!?)
赤ドローンが来たということは、本部はここをマークしていたはずだ。AIが機能を停止した今、異常事態として本部から追加の追撃が来るのではないか。冷や汗が背中を伝う。
「イリス……アイリスのAIがなくなったことで、本部に僕らの居場所や状況がバレてないのか……!?」
僕の焦りを感じ取ったイリスは、機械的な迷いのない声で応答した。
『ご安心ください。破壊・消去された前AIは、自身が機能停止に陥った際、本部に支障のない範囲で偽装された定期報告を自動送信し続けるよう、特殊なプログラムを構築しておりました。現在も本部は正常稼働中と認識しております。また、蓮様および陽菜様の存在に関するデータは完全に遮断されており、本部に伝わることは一切ございません』
「……そっか……」
アイリスは……最後の最後まで、自分が消えた後のことまで完璧に計算し、僕たちを本部から隠し通す術を残してくれていたのだ。張り詰めていた肩の力が抜け、僕はほっと深く胸をなでおろした。
――と、その時だった。
廊下の向こうから、「ペタペタ」という蓮ちゃんの可愛い足音と、爪を鳴らす「トコトコ」というチョコの歩調。そして、もう一つ――どこかすり足気味な、控えめな足音が近づいてくるのが聞こえた。
それに続いて、『ガチャッ』と元気よくリビングの扉が開く。
「おはよー! おにいちゃん!!」
「おはようございます……みなとさん……」
そこにいたのは、満面の笑みを浮かべた蓮ちゃんと、僕と目が合うと少し照れくさそうに頬を染めて頭を下げる陽菜ちゃん。そして尾っぽを千切れんばかりに振る、機嫌のいいチョコの姿だった。
アイリスと同じ顔なのに、恥ずかしそうに視線を泳がせる陽菜ちゃんの人間らしい仕草。その新鮮な可愛らしさに、胸の奥がくすぐったいようなむず痒さに包まれる。
「ワンっ!!」
待ちきれないと言わんばかりに、チョコが勢いよく僕の胸へと飛び込んできた。そのまま顔を寄せてきて、僕の頬を大興奮でペロペロと舐め回す。
「ははっ! チョコ、朝から元気だな!」
くすぐったさに声をあげて笑いながら、僕はチョコの体をしっかりと受け止めた。
朝日が差し込む部屋で、目の前で生きている二人の子どもと一匹。その温かい光景を見ていると、胸の奥がじんと熱くなっていく。
「あ、二人とも! ご飯できてるから準備するね!」
チョコをそっと床に降ろし、背中をぽんっと叩く。
「チョコ! もちろん、お前のもな!」
昨夜の絶望と涙を乗り越えて。
アイリスが遺してくれたこの温かい日常を守るため、僕たちの新しい朝が、静かに動き始めていた。




