居場所
「やっぱり、車を出して海に来て本当に良かったよ。あんな綺麗な夕日を見たのも久しぶりだったし、チョコもすっごく楽しそうだったしね」
「はい。チョコ様も広大な砂浜でとても刺激的な体験をされたようです。バイタルデータにも非常に良好な数値が表れております」
帰りの車内は、行きとは比べものにならないほど温かな空気に満ちていた。
後部座席でチョコの前に小さな布製の引っ張り合いっこ用おもちゃを垂らすと、チョコは短く「うー!」と可愛い唸り声をあげながら、小さな前足で踏ん張っておもちゃに飛びついてくる。
ちっちゃな歯でしっかりと布をくわえ、首をぶんぶんと振って引っ張ろうとする姿が可笑しくて愛おしい。
僕が少し力を抜いてあげると、「勝った!」と言わんばかりに尻尾をプロペラみたいにぶんぶん振って、満足そうに僕の膝の上へおもちゃを運んできては「もう一回!」とおねだりするように顔を舐めてくる。
そんなチョコの無邪気な戯れに頬を緩ませていると、不意に運転席のアイリスの腕時計型ディスプレイから、澄んだ通知音がピピッと聞こえた。
アイリスはチラリと手元に視線を落とすと、ぱっと顔を輝かせてバックミラー越しに僕を見た。
「みなと様、丈一郎様専属AIの里奈様より連絡がありました。明日、お会い出来るとのことです」
「そっか!! 良かった……! 良かったな、チョコ!!」
「わんっ!」
返事をするように元気に吠えたチョコの頭を撫でまわすと、チョコは仰向けになってお腹を見せ、前足をバタバタさせながら大喜びで手に甘噛みしてきた。
「あ! アイリス、一応さ、チョコを連れていっていいか里奈さんに聞いておいてくれる? 丈一郎さんたちにアレルギーとかあったら大変だし」
僕が思いついて尋ねると、アイリスは迷うことなく、あっさりと答えた。
「それにつきましては、心配ございません」
「え? なんで?」
「被検体の身体を選定・調整する段階におきまして、重度のアレルギー反応や免疫系の異常が存在しないかどうかも事前にすべて厳重に検査されておりますので」
「あ……ああ、そうなんだ……」
ぽつりと漏らした声とともに、一瞬だけ車内の空気がシン……と冷えた。
そうだ、僕たち被検体は、この実験を完璧に成功させるために設計され、選ばれた「検体」なのだ。アレルギーがないのも、健康な身体でいられるのも、すべては管理システムの都合によるもの。
抱き上げたチョコの小さな鼓動を感じながら、僕は窓の外に広がる暗い夜空を見つめた。
(……この実験がうまくいくように、なんだろうな……)
胸の奥にすっと冷たい風が吹き抜ける。けれど、腕の中にあるチョコの体温と、繋いだ手で知ったアイリスの温もりは本物だ。
どんなに冷酷な管理下にあったとしても、僕たちの間に生まれた「命の温もり」までシステムに支配させるつもりはない。僕はチョコを少し強く抱きしめ直し、明日会える丈一郎さんの顔を思い浮かべた。
「やっぱり自分の家は落ち着くなぁ……」
玄関をくぐり、思わず深々と息を吐き出した。
たった二日留守にしていただけなのに、ドアを開けた瞬間に包まれる匂いや空気に、心の底からホッとしている自分がいることに気づく。
(……そっか。僕、もうこの新しい生活に慣れてきてるんだ)
コールドスリープから目覚めた直後は、何もかもが不気味で、まるで冷たい箱の中に閉じ込められているようだった。けれど今では、アイリスがいて、チョコがいて、ここがちゃんと僕にとっての「帰るべき場所」……「居場所」になり始めている。
その温かな実感に胸を打たれながら、その夜はチョコと一緒に吸い込まれるように深い眠りについた。
そして、翌朝。
澄み渡る朝空の下、僕たちは再び自動運転車へと乗り込んだ。
助手席にはアイリス、後部座席には僕と、お出かけを察知して尻尾をちぎれんばかりに振っているチョコ。
「それじゃあアイリス、行こうか。丈一郎さんのところへ」
「はい、みなと様。目的地へ出発いたします」
静かに滑り出した車の中で、僕は膝の上のチョコを優しく撫でた。これから向かう先で、丈一郎さんに何を伝え、どんな表情を見せるのか。少しの緊張と、それを遥かに上回る大きな希望を胸に抱きながら、僕たちは車を走らせた。




