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 記憶は薄れる。具体的に言えば、その人にとっての厭は記憶も、眠れば、ある程度の――悩み度、気にしている度「大」ではなく、悩み度、気にしている度「小」のもの――気にしている事は、全部はなくならないかもしれないが、薄れ、心への負担という度合いは少なくなる。

 火曜日、水曜日と時間は過ぎる。木曜日には、津木一家のこともそんなに気にはならなくなっていた。この三日間もほのかちゃんは一日も休まず保育園に登園していた。そこのところはとりあえず送迎確認表でチェックしていた。津木家の家庭内はとりあえず平穏なんだな、と、なんの根拠もない感想を持った。

 そして、金曜日だ。この日は月曜日同様、全力で家の清掃にあたっていた。全力で取り組むのには理由がある。一つには、雑念が取り払われ、無心になれるということを期待して。一つには、コンビニで飲むビールを美味しく感じるため。汗をかいたあとの一杯は格別だろうと考えたからだ。だから、掃除が終わってもお茶も飲まなかった。喉がカラカラのまま、結人を迎えに行った。疲労のせいか重い体だったが、やはり精神は軽い。かるすぎて、頭の少し上に自分がいるようだ。それは言い過ぎかもしれないが、視野が広い。疲労と関係なく、目はぱっちり開いているからか。

 保育園の門をくぐり、帰り支度するためにパンダ組へと急ぐ。

 「隅市さん!」

 「ああ! 出輪さん」

 先に隅市さんがパンダ組の部屋で将吾くんの帰り支度をしていた。もう一人誰かの子供――かよちゃんか?――のお母さんもいた。私の声が大きかったのか、誰かのお母さんは少しびっくりしたようだった。その人にも挨拶をしてから、隅市さんに歩み寄った。

 「今日行きます? コンビニ」

 「行きますよ。出輪さんは?」

 「もちろん行きます」

 私としては、隅市さんがどんな一週間を過ごしたのか、興味津々だった。患者さんの遺族の元へ行ったのか? 出会えたのか? それらのことは、この日のコンビニ飲みで教えてもらおうと思った。

 二人して各々の子供が待つ遊戯室へ行って、保育園の門の前で別れた。ほのかちゃんのことは完全に忘れていた。送迎の有無も確認していなかった。

家に帰宅して、結人と風呂に入り、妻の帰りを待つ。

 風呂から上がってパジャマを着た結人は、一人で遊んでいた。それをわたしは笑みを浮かべ見ている。いつも大抵、私に「遊ぼ」と言ってまとわりつくように接してくる息子が、この日は一人でなにやら喋りながら電車のおもちゃを手に持ってフローリングの上を走らせている。

 (一人遊びもできるようになったなぁ)

 と感慨深げに私は結人を見ていた。

 目が合った。

 「パパもする?」

 「うん」

 日によっては、息子との遊びを楽しんでいない時もあったが、この時は密着するように結人と遊んだ。やはり息子の近くにいるのは気分がいい。

 妻が帰ってきた。いつも耳にする、鍵のあく音さえきこえていなかった。

 我々は、地を這うように、頬を床に擦りつけるように電車を走らせ遊んでいた。

 妻の足だけが見えて、電車をほり投げ驚いた。結人も、私の驚愕の様を、目をひんむいてみていた。

 「どうしたのぉ?」

 ひとりひっくり返っている旦那をみて、息子同様妻も目を大きく開いている。

 「ただいまって言えや!」

 「言ったわよ!」

 私はびびり症。

 常人が、ふつう驚かないであろうことも、跳ぶようにリアクションする。

 さすがに子供もできて、父親の威厳を保つためにびびり症は治したいと思っていたのだが、なかなか……。といって、この時無職の私が「威厳」を記すのは甚だおかしいか?

 少し興ざめした私と結人は、休憩を兼ねて、テレビを見ながら妻が出してくれたお茶を飲むことに。

 一口飲んでお茶が乾いた喉に沁みわたるのがしみじみわかる。

 「あ!」

 「何よ?」

 「なんでもない……」

 美味しいビールを飲むために、水分を控えていたことに気がついた。でももう遅いし、このお茶を飲み干したとしても、あとで飲むであろうビールも美味しいに違いないと自分を納得させた。

 そのまま妻がお風呂から上がり料理を作るまで結人とテレビを見て過ごした。たまたま結人の興味のあるレスキュー隊が活躍する番組が放映されていたので、電車をほったらかしたまま二人して食い入るようにみた。

 「広ちゃん、行くんでしょ?」

 夕飯をテーブルに持ってきた妻の声で我に返り、結人に、

 「パパ、出かけてくる」

 と言ってから、コンビニへ行くため家を出た。

 家から出れば隅市さんの近況をきくことに胸を躍らせていた。隅市さんはどういう一週間を過ごしたのか? 行動していてくれよと、祈るような気持ちでコンビニに向かう。この時の私はもはや、彼の前進が自分の前進と錯覚しているかのようだった。

 駅前ロータリーに着いた。コンビニまで歩きながら、ロータリーにある時計をみると、午後八時まえだった。家を出るのが少し遅れたようだ。隅市さんはもう先に飲んでいるかもしれない。私は駆け足で、いつも飲む定位置に急いだ。定位置は暗がりだったが、隅市さんがいないことはすぐにわかった。またコンビニの中か? と、より走る足に力をいれた。

 コンビニの自動ドアの開きようにもどかしさを感じながら、身をねじ込むように店内へと。

 そこへ

 「出輪さん!」

 と背後から息を切らしたような声。すぐに隅市さんとわかった。

 「隅市さん! 今ですか?」

 「そうです。横断歩道で出輪さんをみかけて大声出して呼んだんですが、出輪さん、逃げるように私から離れるもんですから、走って追いかけてきましたよ」

 私は、横断歩道を渡る時点で隅市さんに確認されていたのかと、思い返していた。でも声はまったく聞こえていなかった。この横断歩道は、私のマンションの方向からロータリーに行く時は必ず渡らなければいけないもので、隅市さんは彼の家の方向からいって、私の右手から声をかけたことになる。横断歩道のすぐ近くには、私たち家族もよく買い物をする大型スーパーの出入り口もあり、買い物客で混雑している。そのせいで隅市さんの声が届かなかったのかもしれない。

 コンビニから出る客の鬱陶しそうな表情に気がついた我々は、とにかく店内へと入った。

 「隅市さんも遅かったんですね?」

 リカーコーナーに歩を進めながら聞いた。

 「子供と遊ぶのに夢中になっちゃいまして」

 「隅市さんも?」

 「えっ?」

 「私もです。で、家出るのが遅くなりました」

 缶ビールを買い、外へ出た。ムッとした空気が鼻に入った。それから不快さが全身を覆う。表情もしかめっ面に変わる。全身が泡立つ。コンビニに入る前は、外気のことなど気にはしていなかったが、一旦コンビニに入れば、そこはクーラーがよくきいていて、体としてはその環境がよかったのだろう。短時間しか身を置いていなくても、体は……皮膚は、コンビニ内の心地よさを細胞レベルで記憶し、しかしそれが急転直下、外気に触れ、環境が変わったことに驚いているようだった。

 しかしそんな不快感、すぐに吹っ飛ぶだろう。手には冷えた缶ビール。それをのどに入れれば、もう文句はない。足早に定位置につくと、勢いよくプルトップを捲った。振り返る。隅市さんは店から出たところだ。

 五秒が待てない。隅市さん早くと願う。

 私の掲げる缶を見ながら足を止めることなく、隅市さんはプルトップに指をかけ、音をならす。

 「おつかれです!」

 隅市さんの到着とともにお互いの缶を突き出した。

 のどが動く。

 この年の真夏がきたと思った。




 一本目はすぐに飲み終わり、アテも平らげ、おかわりを二人して買いに行った。

 二本目も500ml。

 夜になっても蒸し暑いこの日はなんともビール日和。のどを動かせば、冷たいビールが全身をおもしろいぐらい駆け巡っていく。

 自然に話しはコンビニ店内での続きとなり、隅市さんもこの日はなぜか、子供と夢中になって遊んでいたのだという。

 「不思議なこともありますね」

 と、会話の合間には缶を傾け、その度いい気分になっていく。ほろ酔いになりつつある私の脳裏には、隅市さんはこの一週間をどう過ごしたのかという一点に集められる。

 本題。

 本題に入りたい。

 遺族の方が住んでいる所に行ったのか、いっていないのか?

 どう切り出していこうか一瞬考えたが――。

 「いってきましたよ」

 「あいぇ、えっ?」

 「患者さんの遺族の所へ」

 「ああ……」

 私の心内をよみ透かしたかのように、隅市さんは言った。だからか私は、私自身、隅市さんが遺族の所へ足を運んでいれば歓喜するだろうと予想……いや確信していたのだが、隅市さんが、素っ気なく、しかも私が一番気になる本題の話をどう切り出していこうかと思案していた時に、タイミング良く自ら結果を知らせてくれたので、驚き、言葉が出なかった。しかし、感動は静かにやってきた。

 「すごい」

 「すごくないですよ」

 「すごいですよ、隅市さん、凄いですよ」

 「足が震えました」

 隅市さんはこの週の火曜日に、退職した病院の同僚から患者さんの遺族の住所を教えてもらい、菓子包みを持ってその住所に足を運んだという。家の前まで来て、チャイムを押そうと指を突き出すが、なかなか最後のひと押しができないでいたらしい。家の前に五分もいなかったようだが、長い沈思の末、意を決して指先をチャイムに触れさせたという。肩が反応するぐらいのチャイムの音だったらしい。インターフォンからは、奥さんであろう声が響き、隅市さんは働いていた病院名と自らの名を名乗り応答を待った。しかし、インターフォンからもう声はなく、隅市さんがその場で窮していると、暫くして玄関の戸が開き、亡くなった患者さんの奥さんが出てきた。奥さんは隅市さんを一瞥すると、なにも言わず、戸を閉めたらしい。

 「残念でしたね」

 私は目を伏せながら言った。

 「いえ、それが……」

 隅市さんは話を続けた。

 話によれば、隅市さんは、出直して後日再び赴こうと帰路につこうとしたのだが、扉が開く音が聞こえたので、そちらに目を向けると、奥さんが再び出てきて隅市さんを家にとおしてくれたのだという。なんでも隅市さんが来訪する二日前、彼に遺族の住所を教えてくれた同僚が先に家を訪れていて、もし隅市さんが来た時には、寛大なご処置を賜るようにと、隅市さんの現在の心境、状況をまじえ伝えに来たのだという。奥さんは、隅市さんの顔を見て、反射的に一旦は扉を閉めたのだが、思い直し、家に入れたようなのだ。 隅市さんは亡くなった患者さんの遺影が置かれている仏壇がある部屋にとおされた。隅市さんは手を合わせてよろしいですか、と了解を得て、仏壇に向かって合掌。人前では泣くまいと手を合わせていたのだが、頬に涙がつたったという。隅市さんが仏前で手を合わせている間に、その部屋には亡くなった患者さんの母親もいらして、その後、三人で想い想いに話したのだという。その時、右記にある、同僚の来訪のことや、奥さんと母親の心境の変化を知ったと隅市さんは言った。

 「心境の変化……ですか?」

 心境の変化とは、患者さん――良川さん――が亡くなって一年が経ち、奥さん、母親をはじめ、遺族の方々の心境にも変化がうまれたのだという。いつまでも病院という組織、または隅市さん個人を恨んでいても、内面がささくれるだけ。しかもその影響が家庭内の生活にも歪みとして出てきたのだという。高校に通う息子の成績はガタ落ち。中学一年生の娘は、夜の外出が増えたというのだ。中一の娘を叱りつけた時の子供の言葉で母親は、夫の死だけに、もっと言えば、原因に執着するだけの生き方が果たしていいのかと自問したのだという。この時の娘の発言は、具体的には知らされなかったようだが、母親の変化をみれば、相当な言葉だったのだろう。子供たちはもっと早く考え方が変わっていたのだろうと、現実をみていたのだろうと、母親は言っていたようだ。

 隅市さんは、患者さんが眠るお墓の場所も教えてもらい、家を退出したあと、そのお墓に向かい、墓前に線香を立てたという。

 「よかった隅市さん。よかった」

 私は自分のことのように嬉しかった。暑さも忘れ、握る缶をひたすら叩いた。

 「ありがとう、出輪さん」

 隅市さんは、実にゆっくりとした挙動でビールを傾けた。私もそれにならって意識して静かに缶に口をつける。しみじみとビールを飲んだ。隅市さんの体験を想像しながら飲んだ。いつもは、酔うための飲むビール。味なんて関係ない。飲んで酔えればいいのだ。でもこの時は違った。ビールを舌に絡ませ、堪能する。深みを感じとる。正確に言えば、ビールではない発泡酒。 味もビールより劣るとされているモノを我々は飲んでいるのだが、受け取る側が研ぎすませば、芳醇なビールになる。これが大人の飲み方なのか、こんな酔い方もあるのかと、アルコールの本領を知った心地になり、目からうろこが落ちた。たったの二杯でいい具合に酔ったと感じた。あと一本飲んだら帰ろうと二人で決め、しめの缶ビールを買うため、コンビニに目を向けた。

 「あれは……」

 隅市さんは、私の背後に目を向けていた。

 「どうしたんですか?」

 私も気になり、振り向いた。

 「……あれは…………、津木くん?」

 いぶかしげに、私は目を凝らした。

 我々から距離もあり、しかも夜ということもあって、この時点では津木くんだと断定はできなかったが、ロータリーを照らす数々の光のおかげで、背格好、着ている服の趣味で津木くん本人なんだろうと推測した。

 ただ、異様だった。

 ひと言でいえば、ゾンビみたいだった。私はそう思った。

 腕をダランと垂らし、歩幅は細かく、右左とフラフラしながらこちらに向かってきており、異様だという証拠に、彼と擦れ違う通行人が、異常に彼との距離をあけ、誰もが奇異の目で彼を一瞥してから避けるように歩き去って行く。しかも通行人は必ずもう一度振り向いて、津木くんを確認したのち首を傾げたり、あるいは連れがいるものは、ヒソヒソいい合いながら去って行く。

 段々と彼が近づいてきた。もう津木くんだと断定できた。

 が、違っていた。本人によく似ている誰か。そう判断しないと説明ができないぐらい形相が変わっていた。口は半開き、頬の肉は殺げおち、目は充血し力を帯びているが、まるで生気がない。こちらをみているのかどうかもわからなかった。

 もう十歩弱の範囲内に彼が来た。

 「津木くん」

 隅市さんが声をかけた。だが、彼は返事することもなくただただ歩いて、こちらになおも近づく。

 「おい、津木くん」

 私が言った。

 しかし彼から反応はない。

 ついに我々の目の前に来た。けれども、歩くことをやめず、通り過ぎようとした。

 「津木くん!」

 隅市さんが津木くんの肩に手をかけた。

 キッ、と、彼は隅市さんをみた。

 「…………隅市さんか?」

 「どうしたんだ? ――おい、肘から血が出ているぞ」

 隅市さんの言う通り、津木くんの右ひじからは血が流れていた。血は彼の指先まで垂れ、その先で溜まり、爪のように伸びてから、地面へとポトポト落ちていた。その落ちる血を見て新たに気がついた。

 津木くんは靴を履いていない。黒か紺色の靴下は、はいているのだが、靴を履いていなかった。

 「靴はどうした?」

 隅市さんが聞いた。 

 津木くんは、隅市さんの質問にはこたえず、おもむろに自分の肘を目線に上げた。じいっととび出そうな血走る眼球で肘をみている。

 「血……だ」

 「そうだ、肉が裂けて血が出ている。一体なにがあったんだ?」

 隅市さんにそう言われると津木くんは、右腕をまたダランと垂らし、それからゆっくり夜空を見上げた。

 「おい――」

 「あいつも血出てた……」

 「なに?」

 「刺したから血ぃ出たんですよ…………。俺――アヤカを刺しました」

 津木くんは、顔を我々の方にゆっくり向けながらそう言った。

 私は目を見開いていた。息が止まっていた。もう、なにが起きたのか理解できた。隅市さんの方をみた。隅市さんは、眉間に深い皺を寄せ、津木くんを睨んでいる。

 「ど、どういうことだ」

 隅市さんが尋ねた。尋ねたものの、隅市さんも何かしらの最悪な事態が発生していることを肌で感じられたのだろう。声が震えていた。

 「奥さんを刺したんだよ。いや、俺が包丁振り下ろした時、切り裂いたのかよくわかんねぇ。わかんねぇ! 隅市さん、俺アヤカを殺した! 殺したぁ!」

 津木くんは叫ぶと、突然その場にグシャリと崩れ落ちた。それから地面に向かって言葉にならない咆哮をぶつけた。

 隅市さんはすぐさま津木くんの胸ぐらをつかみ無理矢理立たせた。

 「いつだ? いつのことだ!」

 「さっき……、今、さっき……」

 「くっ」

 隅市さんは缶を放り投げ走り出した。今津木くんが歩いてやってきた方に走って行った。

 私は予想外の隅市さんの行動に一瞬驚いたが、すぐさま彼を追いかけた。 彼がどこに行こうとしているのか皆目見当つかなかったが、この場に置いていかれたくないという恐怖にも似た感情が湧きおこり、走った。隅市さんはコインパーキングを左折し、消えた。私も、同じ場所で曲がろうとした。 その時後ろを振り返り、津木くんをちらっとみた。津木くんはまだその場にへたり込んでいた。私は構わず走った。


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