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吹き出ていた。粘り気のある汗があの時本当に吹き出ていたのだ。それは今もだ。
やめてもいい。ここでやめてもいい。いや、もっと前、就労証明書を手にしたところで回想はやめてもよかった。でも勢いで三島さんと出会った夏の夜のことまで振り返ってしまった。本当にやめようか。手の甲に浮き上がる西日にてかる汗を見てそう思う。これ以降のことを振り返ることは、私にとって背徳行為にあたるものが含まれるので、躊躇したい。これまでは、隅市さんのことを想いだそうとすると、直線的にこの部分が結びついてしまう――その出来事は、強力な思考の抑圧作業を行わないと、脳裡に簡単に浮かぶのだ――ので、彼との想いでは深くは遡らなかった。でもここまで細かく回想してきたのだ。やはり続けてみよう。
それにしてもこの汗の量。隅市さんと出逢ってからのことを想起しているこの台所には清い風が流れている。それは澄んだ空気で不快さなど微塵もなく、しかも季節的にも冬を間近にしてと、汗などかくことはないはずなのだが、ここにきて、三島さんと出会った当時の様子を思い出すと変な汗が出てくる。同時に動悸もしてくる。この夜のことは誰にも言っていない。妻にはもちろん、隅市さんにも知らせていない。日記にもつけていない。十数年誰にも言わず当夜のことは自分の胸の内に秘めてきた。
コンビニから出てきた三島さんと缶を合わせ、私はその後、三缶ビールを飲み干した。つまり、独りで飲んでいた時のモノを合わせると、六缶だ。量にして、三リットル。普通ならそれぐらいの量で正体を失うということはなかったが、この日はすでに、正常に物事を考えられず、気がつくと、ある部屋で三島さんと二人きりになっていた。「ある部屋」というのは、彼女の友人のワンルームマンションの一室のことだ。
三島さんは当時、スナックで働いていた。この日の夜も出勤するつもりだったのだが、私と出会い、急遽仕事休むことにしたのだという。丁度、私に背を向け、ロータリーの方に駆け寄り携帯で電話していたのは店にその用件を伝えるためだったということになる。話では聞いていた「コンビニ飲み」を実際私がしていて興味が湧き、仕事を休んでまでも衝動的に飲みたくなったということだ。
「それに――」
と彼女は言った。
「それに、仕事抜きで飲みたくて……」
津木くんと離婚した彼女は、病院を退院後、女手ひとつでほのかちゃんを育てなければならなかった。両親は健在であり、そこに頼る方法はあるはずだが彼女にはそれが出来ない理由があった。元々三島さんと津木くんの結婚に反対だった彼女の両親は、孫のほのかちゃんが生まれても対面すらしたことがなく、娘である三島さんが津木くんに切りつけられて入院したことを知っても、見舞いの一回も来なかったようなのだ。よほど三島さんの結婚に対して立腹していたことが想像つくのだが、そういうこともあり、彼女は親にも頼れず、保育園はどこも定員を超えていて、ほのかちゃんを預けて働くこともできない。でも、そんな彼女を助けてくれる身内がいた。彼女の姉であった。当時お姉さんは大学院生で、三島さんが切りつけられたアパート近く(といっても電車に乗って四十分の距離)に一人で暮らしており、妹である三島さんをサポートし、入院中の身の回りの世話、その入院の間独りになるほのかちゃんの面倒、津木くんとの離婚の手続き等、色々と奔走してくれたらしい。
退院後は、津木くんと過ごしたコーポにはもちろん戻ることはできなかったので、そのお姉さんが住むアパートに厄介になることになった三島さんだが、お姉さんは大学に復帰して研究に追われる生活に戻り、平日はアパートに殆どいなかったので、当然のことなのだが三島さんが終日ほのかちゃんと過ごした。
でもその生活を続けることはできない。唯一頼りになるお姉さんは、次の年海外へ研究留学することが決まっており、それを中止してもらってまで彼女自身も世話になる気はないようだった。お姉さんがこの日本にいる間に、ほのかちゃんを預ける保育園を探し、そしてできることなら今後のためできるだけお金をためて備えようと考えたそうだ。
そこで彼女はお金をためるため、お姉さんが通う大学が休みの金、土、日の夜だけ知人の紹介でスナックで働くことになる。驚いたことにそのスナックは、我々が缶ビールを飲んでいるロータリーから歩いて十五分の場所にあり、普通なら電車に乗ってもう一駅向こうで下車した方が到着は早いのに、三島さんはわざわざ、出勤するたび私と隅市さんと会うためにこのロータリーの駅でおりていたということだ。
三島さんは、日々の生活に少し疲れている様子だった。スナックでもお客の悩みは聞いても、自分の悩みは話せない。技術として、自分の弱みを見せ接客する女の人もいるだろうが、まだ働いて間もない三島さんには、そういうことができず受け身の接客をしていたようだ。平日もほのかちゃんと一緒にいられるのは嬉しいことと彼女自身も言っているが、やはり時として息が詰まる時もあると発言していた。丁度その時私が外という解放感溢れる場所で飲んでいることを見て、直感的に「ここでお酒が飲みたい」と心から思ったようだ。なにか日頃抱えている疲労がこの場所で飲むことによって多少和らぐと思ったんだろう。初めは、しんみりと語っていた三島さんだったが、徐々にお酒が入るに従い、陽気になってきた。それに合わせ私も飲むペースが上がり、缶はすぐ空になって、おかわり買うため、コンビニに数回走った。当初、男と女が外で立ち飲みするというどうしても周囲の視線を集めてしまう状況に困惑していたのに、そんなことすら忘れて飲んで会話していた。酔いの勢いで津木くんとのことを聞こうかと、暴発しかけたが、そこは堪えた。三島さんも津木くんとのことを忘れたいと思っているに違いなく、そこに分け入ることは酔っても躊躇する自分がいた。時間は刻々と過ぎ、私たちは、冗談も交え楽しく飲んでいたが、あるときを境に、我々の会話は段々と少なくなり、お互いの表情だけを見ながら飲むということが目立ってきた。なにか艶めかしい空気が私たちの間に流れ始めていた。きっかけがあるとしたら私の彼女に対する見方の変化だろう。それまでは、ほのかちゃんの母親という目線で接していたのが、彼女の胸のふくらみが尋常でないことに気がついてから、三島さんをオンナとして見るようになっていたのだ。彼女は豊満な胸の持ち主だった。暗闇でしかも彼女は黒のワンピースを着ていたのですぐにわからなかったのだが、不意に彼女が半身になったとき胸の隆起が露わとなった。私はそれに気付いてから、ちらちらと何かにつけて彼女の胸に目を向けるようになり、いつしか彼女もそれに気がついてか、
「出輪さん、どこみてるんですかぁ?」
と、私の腕にしっとりと触れながら、甘い声で言ってくる。
「いや、大きいなと思って」
「これですかぁ?」
彼女は自分の胸を下から支えてから揺らした。
三島さんも、ほのかちゃんの前では良い母親なのだろうが、やはり女という生きものだったのだろう。どういう理由があったのかはわからないが、津木くんと結婚している身であったのにも関わらず、職場の男性と不倫していたということは、彼女は性としてなにかを紛らわす場合、異性を誘う性分を持ち合わせていたのかもしれない。
自分のことは棚に置いて彼女の性質を解説するのはおこがましいが、あとになって私が彼女に対して感じたことだ。しかしこの時の私は上記のように冷静に彼女を分析できないしする必要もなかった。
上下に揺れる豊満な胸を見て、その動きにまるで暗示にでもかかったかのように私は突如として雄と化した。
触りたいと思った。そしてそれを実行しても彼女は、拒まないと確信ができた。だが、闇が我々を隠しているとはいえ、壁もなにもない場所で飲んでいるので、私もそこまでの愚行はしない。だが触りたいと思ったのは事実だ。なんとか理性が働いた。もっと飲んでいたらたとえそんな場所でも彼女の胸に手を伸ばしていたかもしれない。なんとか自分の雄性を押さえ、
「大きいなぁ」
とだけ言って、笑ってその場を取り繕った。
だが、アルコールは、我々をそれだけで留めなかった。
「だいぶ飲んだね」
「うん……」
――――
「風、生ぬるいなぁ」
「そうですね……」
――――
ひとこと交わして黙りこみ、ひとこと交わしてまた黙りこむという、それまでの快活な飲みはどこかに潜み、私たちは、どこか空々しく缶ビールを飲むようになっていた。果たして空々しく飲む裏に秘められていることとは、淫らな考えであった。少なくとも私はそうだった。彼女の豊満な胸を揉みたい、むき出しの太股に触りたい、そんなことばかり考え、もう会話どころでなくなっていた。なにか口にしても、当たり障りのない言葉ばかり出てくる。
彼女もそんな私の胸の内を察しているように思われた。物腰に色気が感じられ、実際、意味もなく胸の隆起をなぞるように指を滑らせたり、自分の股に手をあてまさぐるようにしたり、夜空を見上げたかと思うと、次の瞬間は流し目でこちらを捉え微笑を送ってくる。勘違いするに決まっている。何か彼女は誘っているのか、と。
しかし発展は考えられない。確かにその時の私には、彼女とどうにかなりたいという願望が少なからずあった。でも、私にはお金がなかったし、あったにしてもやはり行動を起こすほどの蛮勇はなかった。
が、意外な言葉が私の耳に届いた。
「静かなところで飲みなおしませんか?」
三島さんは私の返事を待つべく首を傾げこちらを見ている。一瞬、居酒屋にでも場所を移すのかと思ったが、「静かなところ――」という語句が気になった。それでも私は、
「居酒屋に行く? それとも雰囲気のいいバーがいい? でも俺、懐が寂しくて……」
とほほ笑んだ。
彼女は唇に妖艶な弧を描き、私を見つめ、そして近づいてきた。
「いいところがあるんです」
そのいいところが、「ある部屋」で、彼女の友達の住むワンルームマンションだった。
スナック勤務の為、帰宅がどうしても深夜になるので、電車は当然なく、お姉さんの家にはタクシーで帰る方法しかない。だがスナックを経営する店主であるママがタクシー代を出す余裕がないので、店主の娘が住む(その娘さんが三島さんの友達にあたり、自分の母親が経営するスナックを紹介してくれた)ワンルームマンションで休憩なり仮眠してから帰宅するようにと合いカギを渡してくれていたのだ。そこへ彼女は行こうというのだ。
「でも友達がいるんじゃ……」
「麻美――あぁあ、友達は今夜、いないんです」
彼氏と外泊だそうだ。ちなみに彼女の友達はスナックには勤めていないという。
私は、有無もなく彼女に従った。もう酒で酔っているのかこの夜の妖しい雰囲気に酔っているのかよくわからなかった。酔って前後不覚になりつつある意識でも、やることはしていた。
「学生時代の知り合いとたまたま会ったので居酒屋で少しだけ飲む」
私は妻に電話していた。
結婚してからまったく女っ気がなかった私を怪しむことなく、妻は簡単に了承してくれた。
よほど舞い上がっていたのか、コンビニから彼女の友達の家までの道程はよく覚えていない。気がつけば、いい匂いのする一室に三島さんといた。私は部屋の隅にあるベッドに腰を下ろしていた。ガラスでできた卓上には缶ビールが二本並んでいる。コンビニで買ったおぼえはない。記憶が曖昧だった。だが部分部分は覚えている。この二本はこの家の冷蔵庫から出した物。だったと思う……。部屋がマンションの二階だったか三階だったか定かでない。というよりエレベーターに乗った記憶もない。入った部屋の匂いは覚えていた。そして別の匂いも。彼女の匂い。いい香りが私に覆いかぶさってきた。だがその匂いを鼻腔で感じたとった瞬間、
「――クミコ、いるの?」
という声が玄関で聞こえ、二、三秒して、
「玄関のカギあっきぱなしだった――あっ」
という明らかに我々の行為を目撃し、驚いた声がすぐそばで聞こえた。
私は初めの声で我に返っていたのだが、三島さんは、声のことはもちろん、女性の入室にも気が付いていないのか、私の首元をむさぼっている。
「み、三島さん!」
彼女は、かわらず無言で私の首に唇を押しあてている。
「三島さん!」
駄目だった。なぜここまで首を愛撫していたのか、当時の私に知るよしはなかったが、もはや、他人の目に晒されているこの現状を維持する趣味はなかったので、私は力任せに三島さんの体を押しのけた。
「なに? どうしたんですか」
「す、すいません、失礼します」
私は足早にその場を立ち去った。
立ち去る瞬間、
「――エミ!」
と、驚く声がうしろで聞こえた。
慌てて外へ飛び出した私は、無我夢中で走り、本能だけでロータリーまで戻ってきた。もうこの時は、自覚がある。私は、コンビニに入り、お茶を買った。もうアルコールはいらない。お茶を飲みながら家に帰った。電気はすでに消えていて妻と結人は寝ていたようだった。手を洗おうと洗面所にむかい、ふと自分の顔を鏡で見て驚いた。
一線頬に朱の色がひかれてあった。それだけではない。首にもうっすら朱色が残っている。即座に口紅とわかった私は、擦り落とすべく必死に頬と首を水で流した。
「わああああああああ」
この夜は本当によく絶叫した。
鏡越しに妻がこちらを見ていたからだ。
「お、起きてたの?」
「うん。物音がしたから目がさめちゃった。――お茶飲んでこよ」
妻は冷蔵庫に向かった。
私は鏡をもう一度見た。首のものはほぼ落ちたようにみえたが、頬にはまだ朱色が残っていた。でももう擦る気力はなかった。
次の日の朝、洗顔で落とそうと思い、電気のついていない寝室へ足早くむかった。通りがかりキッチンを横目で見ると、妻が冷蔵庫のオレンジの光に照らされお茶を飲んでいた。私は布団に急行して、タオルケットに顔を埋め目をつぶった。外界から隔たりたいという気持ちからそうしたのだと思うが、タオルケットは頼りなく、押入れから厚い掛け布団を引っ張り出して被りたい衝動にかられたが、もちろんそんなことができるわけもなく、私はただただいきれ臭いタオルケットの中で眠れない夜を過ごした。




