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Day.23 小さな文字と大きな決意

「………。」


朝の昇降口は賑やかだ。

友人同士で挨拶を交わし、今日も面倒な授業が始まると愚痴を言い合い、気が早って放課後の予定に一日の活力を得たりする。

靴箱を開け閉めする音が響くそんな中で、俺は上履きを取り出せずに硬直していた。

目の前には昨日入れた時と同じ位置にある上履き。

だが昨日と違うのは、その上に置かれたピンク色の封筒。

可愛らしくハートのシールで封をされたそれは、俺の日常にあって明らかな異彩を放っている。

まぁ意味が解らない訳じゃない、ただ突然のことに思考が麻痺してしまっただけだ。

訝しみながら封筒を手に取って眺めてみるが、どうやら差出人は名前を伏せたかったらしい。

桐生君へと書かれただけの封筒を眺めながら靴を履き替えると、少しだけ辺りを見回してみる。

差出人が何処かで様子を伺っているかと勘ぐってみたが、生憎それらしい人物は見当たらない。

はぁ、仕方ないな。

俺は封筒を鞄に丁寧にしまうと、教室へと歩き出す。


「どうした真也、変に遅かったな。」


下駄箱の列を抜けると、腕を組んで首を傾げている莉乃姉が待っていた。


「いや、ちょっとな。」

「ん?何か困り事か?」

「まぁそう言って良いものか迷うが、自分でどうにかするよ。」

「水くさいな、あたしは真也の妻だぞ、何でも手伝うから言ってくれ。」

「いや、結婚してないからな?」

「ふっふっふ、本当にそうかな?」


不敵な笑みを浮かべた莉乃姉は、鞄から大きな茶封筒を取り出すと、その中から一枚の用紙を取り出した。


「後は日付を書いて提出すれば晴れて夫婦だぞ!」

「マジでやりやがったな莉乃姉め。」


莉乃姉の手にはしっかりと俺の印鑑まで捺された婚姻届があった。

しかもご丁寧に俺の記入箇所は筆跡まで完璧に真似て書いてある。

あれはマジで受理されそうなレベルで完成されてやがるな、まったく恐れ入るよ。

ただ莉乃姉は気づいてないのだろうか。

その書類には決定的な欠陥が記入されていることに。


「莉乃姉、別に提出しても構わないが、受理されないと思うぞ?」

「ん?何故だ、ちゃんと調べて不備なく記入したぞ?」


キョトンと首を傾げる莉乃姉を見て溜め息を吐いた俺は、よく見てみろと莉乃姉に促す。

心底不思議そうに用紙を改めて確認した莉乃姉は、やはり自信満々に胸を張って言う。


「ふふん、やはり記入ミスはないじゃないか。あたしを謀ろうとしても無駄だぞ真也。」

「はぁ、そりゃ記入ミスはないだろうさ。そこに書いてあるのはどれも間違いじゃない、俺が書いてないって事実を除けばな。まぁそれもそこまで筆跡似せられたらバレないだろう。でも問題はそこじゃない。」


俺は莉乃姉に近づいて用紙を見て、ある一点を指差した。


「俺の年齢、ちゃんと17歳って書いてあるだろ?」

「え、そうだな、まだ誕生日来てないだろ真也は。」

「あぁそうだ、つまり日本の法律じゃ俺は結婚できる年齢じゃないってことだ。」

「………。」


用紙を見たまま呆然とする莉乃姉を置いて俺は階段へと歩き出す。

少しして莉乃姉の叫び声が昇降口に響き渡って、俺は溜め息を吐きながら階段を登っていった。

まったく、時折抜けてるのが救いだったな。

いやまぁ、あれだけ完璧に書かれてる時点で問題を先送りにしただけなんだけど。

余計なことにまで才能を発揮しなくてもいいというのに。

つか、手紙の方はどうすっかな。

差出人はわかんねぇし、内容もまだ確認できてないし。

とりあえず次の休み時間にトイレで開けてみるか、もしかしたら中の方に差出人の名前が書いてあるかも知れないしな。

………書いてあっても誰だかわからない可能性も高いけど。

教室に着いて戸を開けると、クラスの視線が俺へと集まってくる。

ただ以前より敵意のような雰囲気が減ったのは気のせいだろうか。

まぁいいか、だからってどうということもないし。

視線を無視して自分の席に向かうと、途中何人かの女子が挨拶してきた。


「お…おはよう桐生くん。」

「え?……あ、あぁ、おはよう。」

「おはよう桐生くん、今日も綺麗な銀髪だね。」

「うん?あぁ、えっと、ありがとう。」


何だ、この状況は。

次々と挨拶された上に、よく解らない誉められ方をされた。

初めてのことに戸惑いを隠せないまま、俺は鞄を机に置いて恐る恐る教室内を見渡す。

何人かと視線が合った瞬間に目を逸らされ、挙げ句ヒソヒソと囁きあわれた。

………新手の虐めだろうか。

普段話しかけられない奴に声をかけて、戸惑ってる姿を眺めて楽しむとか?

いい趣味とは思えないが、大してダメージを負ってもいないから無視してもいい。

でもウチのクラスってそういう虐めをするような奴がいたんだな、どちらかといえばそっちの方が驚きだ。

もしかしたら手紙の方もこの中の誰かが悪ふざけで入れていっただけなんじゃないか?

待ち合わせ場所なんかが書いてあって、実際行ってみると誰も来ないみたいな。

………わかんねぇな、考えてみても。

まぁわざわざ悪戯に付き合うほど暇じゃないんだが、ただもしもってこともあるし、無視は難しいか。


「どうしたんですか真也くん、何だか朝からアンニュイな感じですね。」

「ん?あぁ緋結華か、おはよう。」

「おはようございます真也くん。」


声に顔を向けると、まだ鞄も置いてない緋結華がにっこりと笑いながら傍に立っていた。

今日は暑いからか、栗色のウェーブヘアをポニーテールに纏めて、ベージュ色のシュシュで結んである。


「似合ってるなそれ。」

「え、何がですか?」

「いや、その髪型とかシュシュとか、何か緋結華らしい色合いだなって。」

「ホントですか!?」


凄い嬉しそうに身を乗り出してきた緋結華に気圧されて、思わず苦笑してしまう。


「あ、あぁ。いつもフワッとしてるから、そうやって纏めてるのも新鮮でいいなって。」

「あはは、嬉しいです!このシュシュ、お気に入りなんですよ。」


ニコニコとシュシュを撫でながら照れる緋結華に笑いかけて、ふと思いつく。

緋結華ならこの手紙が悪戯かどうか判断できるんじゃないか?

女の子だし、俺じゃ気がつかないことで真贋を見分けられる気がする。

俺は周りに聞かれないようにするため、手招きして緋結華に顔を近づけた。


「なぁ緋結華、ラブレターって書いたことあるか?」

「はい?………えぇ!?」


驚いて大声を上げた緋結華の口を慌てて塞ぐ。

案の定その声に驚いたクラスメイト達が何事かとこちらに注目してしまった。

くっ、これじゃ流石に訊きづらいか。

このクラスに手紙の主がいないとも限らないし、気取られるのは良策じゃないな。


「すまなかったな緋結華、今のは忘れてくれ。」

「ふぁい………もごもご、もごもごもごもごもご。(真也くん、手を離してください。)」

「あ、悪い。」


何となく言ってることが解ったから手を離すと、緋結華は顔を赤らめて深呼吸した。


「はぁ、びっくりしました。ごめんなさい、大声出してしまって。」

「いや、俺の方こそいきなり変な質問して悪かった。とりあえず忘れてくれ、それと他言無用だ。」

「はい、解りました。………あの、貰ったんですか?」


気にするなと言ったそばから訊いてくる辺り、やはり無視できない話だったんだろう。

俺は聞き耳を立てているやつがいないかをこっそり確認してから小さく頷いた。

緋結華は難しい顔をして暫く何かを悩んだ後、恐る恐る訊いてくる。


「あの、その事は莉乃さんに話しました?」

「いや、色々あって話してない。」


朝っぱらから求婚活動が激しかったせいで話し損ねたとは言えない。


「じゃあ話した方がいいと思います、きっと黙ってたら後で怒られますし。」

「そうだな、十中八九暴れる。でも大事にして差出人に気づかれるのは嫌なんだ、これが本物だったらと思うとな。」

「本物だったらって?」

「いや、俺なんかにこんなものが来ることがおかしいだろ?だから悪戯かなって。」

「………。」


緋結華は何故か苦笑すると、笑みを浮かべながら人差し指を立てて言った。


「それはともかく、まずは読んでみましょうよ。真也くんでもきっと、言葉に籠められた想いを感じることができるはずですよ。」

「…そうだな、読まずに疑うのは良くなかったか。」

「そうですよ、書いた人は凄く真剣な想いで書くはずですから、本物ならそれが強く出ていると思いますし。」


緋結華の言も尤もだ、ふざけた想いで書いたら言葉の選び方にも違和感が出るものかもしれない。

次の休み時間に読むことを決めて、俺は緋結華にお礼を言った。


「ありがとう緋結華、お陰でちょっと気が楽になったよ。」

「いえいえ、これくらいお安いご用です。私が言うのも変ですけど、ちゃんと答えを返してあげて下さいね。」


微笑んでみせた緋結華に俺は返事を返せない。

本人にその気があるかは判らないが、釘を刺された気分だな。

ただまぁそれとは別に、ちゃんと読んで答えを返そう。

緋結華はちらっと時計を見て、苦笑しながら自分の鞄を持ち上げた。


「もっとお喋りしてたいですけど、そろそろ席に着きますね。」

「あぁ、何か悪かったな。」

「大丈夫です、一番に真也くんの所に来たのは私ですから。授業、頑張りましょう。」


最後は花咲くように笑顔を綻ばせ、緋結華は少し離れた自分の席へと歩いていった。

直後女子たちに取り囲まれ質問攻めに遭う緋結華に俺は気づかないまま、窓の外へと視線を泳がせる。

どんな人が送ってきた物なのか、ピンク色の封筒を思い浮かべてふと考えた。

身近な人間じゃないだろうから、恐らくは俺がちゃんと知らない相手だと思う。

だとしたら何故俺を選んでくれたのか気になって、しかしすぐに考えるのを止めた。

きっと俺じゃ考えつかない気がしたからだ。

鈍感だと莉乃姉に言われ続けてるし、実際そうなんだろうと自分でも理解している。

一向に改善されないのも、鍛え方がわからないからだし。

とりあえず授業だな、成績を落とすわけにはいかない。

予習で色々と書き込まれた教科書を取り出して、俺は予鈴と共に入ってきた数学教師を見て気持ちを切り替えた。






― 桐生 真也くんへ


突然のお手紙に驚かれたと思います、不躾にも何も言わずに靴箱へ入れたことをお許しください。

まだ桐生くんに面と向かって言葉を伝える心の余裕がなく、こういう手段をとらせて頂きました。

何となくでも私の気持ちを察して頂けているかと思いますが、その言葉はきちんと声にして伝えたいのでここには書きません。

もしもお時間がありましたら、本日の放課後、屋上のベンチに来て頂けませんか?

そこで私の気持ちをお伝えしたく思います。

五時まで待ってもいらっしゃらなければ諦めて帰ります。

待ってます。


三年 伏倉 祈 ―


手紙をトイレの個室で読み終えた俺は、女の子らしい小さく丸い字がしたためられた便箋を丁寧に折り畳み、ピンクの封筒へ入れた。

名前に見覚えも聞き覚えもないが、多分本物だと思う。

書いた人の気持ちが伝わってくるような文字や言葉の選び方、これを悪ふざけで書いていたら逆に騙された俺が悪いと思える。

しかしこれではっきりしたことが二つ。

一つは放課後に見知らぬ上級生を悲しませることになるということ。

もう一つは、莉乃姉へ伝えるのが困難になったということだ。

相手は三年生、莉乃姉と同じクラスじゃない保証は何処にもない。

仮に違うクラスだとしても、三年生のエリアに入れば知らずに接近してしまう可能性は高い。

となると少なくとも今日は一日、こちらから莉乃姉に接近するのが難しくなる。

普通自分が真剣に書いた手紙のことを他人に知られることは避けたいはずだ。

もし俺がこの伏倉さんの立場だったら、俺が莉乃姉に接触することの理由を疑ってしまうだろう。

そんなのは辛すぎる、正直罪悪感が半端ない。

緋結華はあぁ言ってたが、流石に今回は事後説明にした方が無難じゃないか?

何てことを悩みながらトイレを出たところで、俺は誰かにぶつかってしまった。


「痛っ。」

「あ、ごめん大丈夫か?」


慌ててよろめいた相手を支えに入って、その見覚えのある後頭部で誰だか判った。


「恵恋、大丈夫か?」

「すぐにわたしだと判ったことで許してあげましょう。まったく、その綺麗な両目はちゃんと開いていますか?」


許すと言いつつ悪態は欠かさないな。

苦笑しつつ体勢を整えてやると、長い艶やかな黒髪を揺らしながら、無表情な恵恋が俺を見上げた。


「で、小さいわたしが視界に入らなくなるほど、真也さんは何をお悩みでしたか?」

「だから悪かったって。別に恵恋が小さくてだなんて思ってないし。」

「ふんっ、どうせ150cmにすらまるで届きませんよ。」


どうも不機嫌らしい恵恋に苦笑を返すと、恵恋は溜め息を吐いて口を開く。


「そういえば真也さん、今日の放課後はお時間ありますか?」

「え、放課後か?放課後はちょっと…。」


現状最重要の予定が待っているが、教えて良いものなのだろうか。

緋結華には相談するのに言ってしまったが、これ以上無関係な人間に吹聴するのもマズイような。

俺がどうしようか迷っていると、恵恋は更に不機嫌そうに眉を歪めて俺に近寄る。


「あら、真也さんはわたしに言えないような理由でお忙しいということですか?」

「そ、そういうわけじゃ。」

「そんな風に狼狽えていてはバレバレですよ?」

「うぐ。」


恵恋相手に即答できなかったのは失敗だったか。

物凄いジト目で見られると、何だか非常に申し訳ない気持ちにさせられる。

………仕方ない、白状してしまおう。


「実は、今朝とある手紙が俺の靴箱に入ってたんだ。それで放課後に来てほしいって内容だったから、今日は予定がある。」

「………。」


俺の言葉を聞いた恵恋は、残念なことにもっと機嫌が悪くなったようで、ひきつった笑顔を浮かべて俺を見る。


「なるほど、真也さんは随分とおモテになるようですね、一体何通入っていたことやら。」

「いや、一通だけだぞ、つぅか睨むなよ。」

「睨む?何のことですか?わたしは自分の好きな人が別の女から愛を綴った手紙を受け取ったからって睨んだりしません、祝福していますよ。」

「こんなにも嘘だとはっきり解る台詞はそうそうないと思うぞ?」

「あら、失礼ですね。他の女を理由に誘いを断られたからって、別に怒ったりしてませんよ。」


なるほど、怒る理由はそっちだったか。

だが怯むわけにもいかない、今回は誠意を持って応えなきゃならない。

俺はできるだけその誠意が伝わるように表情を作ると、恵恋の黒い瞳を真っ直ぐに見つめた。


「恵恋、折角誘ってくれたのに断ってすまない。だけど今回のことは…。」


真剣にと続けようとしたところで、俺の言葉を遮るように恵恋が俺の口に手を伸ばしてきた。


「………はぁ。解ってますよそれくらい、真也さんほど鈍くないんですから。どんな答えを相手に返そうとしているのかも、何となく。まぁそれに関しては、わたしの希望も含まれていますけど。」


呆れたと言うようにそう言った恵恋は、手を離して腰に手を当てた。


「ごめんな。」

「謝ってどうするんですか?これから何度も起こるだろうことにいちいち謝ってたら、この先大変ですよ。」

「いや、流石にそんな物好きがたくさんいるとは思えないんだが。」

「………はぁ。そうですね。」


何だろう、最後すっごい投げやりな返答だったような気がする。

まぁでも一応納得してくれたようだし、気にしないでおこう。

俺は恵恋のサラサラした黒髪を撫でて、ありがとうと笑った。

驚いた恵恋は少し顔を赤らめて、小さく頷く。

だがすぐに唇を尖らせると、俺を批難の目で見た。


「何だか凄く誤魔化されてる気がしてきました。」

「誤魔化す?」

「確かに真也さんに頭を撫でてもらえるのは気持ちいいですし、真也さんは何気なくやっているんでしょうけど、これだけで許してしまおうと思わされているような気がして。」

「いや、恵恋が言うように他意はないんだし、そんなことを言われてもな。」

「いいえ、何か策略に嵌まってるみたいで釈然としません。別の御褒美を要求します。」

「御褒美って…。」


いつから俺は責められる立場に変わったんだろう?

不当な要求を突きつけられてる気がするが、何て言うかいつもの恵恋だよな。

まぁいいか、恵恋なら莉乃姉ほど無茶な要求はしないだろうし。


「はぁ、じゃあどんな御褒美をご所望なんだ?」

「もちろん真也さんの時間を要求します。今週末は空いていますか?」

「あぁ、まぁ一応は。」


莉乃姉から急に強制的な予定を告げられる可能性を考慮に入れなければだが。

恵恋は予定を聞いて不敵に笑うと、頭に乗せていた俺の手を逃がさないように押さえた。


「では当日は夏音を連れてわたしの家に来てください、予定は当日にお話しします。」

「夏音?」

「そうです、必ず夏音を連れてきてください。」

「よく解らんがわかった、ちゃんと連れてくよ。」

「それでいいんです、素直でいいですね。」


ちょっと偉そうに笑ってみせる恵恋。

でも俺は笑いそうになるのを必死に堪えていた。

両手を頭の上に乗せてちょっとふんぞり返るその姿が、何だかやけに幼く見えていたからだ。

可愛いというより美人って雰囲気の恵恋だけど、こうしてみると可愛らしい。

それが今の状況とのギャップになって、妙に笑えるのだ。

だが感情の隠し方が甘かったらしい、すぐに恵恋の表情が訝しむような顔になる。


「何ですか真也さん、その人を小バカにするような顔は?」

「いや、そんな顔してないぞ?」

「誤魔化そうとしても無駄です、明らかにわたしを笑っています。」


ムスッとした恵恋が目を細めて詰め寄ってきて、俺は廊下の壁に押し付けられる。


「さぁ真也さん、何故わたしを笑うのか、理由を聞かせてもらいましょうか?」

「いやその…言っても怒らないか?」

「あら、真也さんはわたしが怒りそうなことで笑ったのですか?」

「………。」


笑顔が怖すぎるぞ恵恋。

もしもこの笑顔を写真で見たなら完璧な笑顔だ、雰囲気までは写真に写らないからな。

でも誤魔化すのは難しそうだし、やっぱり恵恋には見抜かれるだろうしな。

俺は周りに聞かれないようにするために、顔を恵恋に近づける。


「ちょっと、いきなり何ですか!?」

「小声で話すためだ、我慢してくれ。えっとな、恵恋をバカにするつもりなんてなかったんだ。」

「じゃあ何ですか?」

「さっきの恵恋のポーズがさ、可愛らしかったから。」

「はい?」

「いやほら、普段の恵恋ってクールビューティって感じだから、あぁいうポーズすると可愛らしいんだなって思っただけなんだ。」

「………っ!?」


答えを聞かされた恵恋は顔を赤く染めると、両手を下ろして俯いてしまった。

マズイ、もしかして怒ってますか恵恋さん?

若干冷や汗を掻き始めた頃、運良く予鈴が構内に鳴り響いた。


「ヤバイ、授業が始まるな。じゃあ恵恋、またな。」


逃げるように俺はその場を離れ、教室へと歩き出す。

恵恋に悪い気がするが、今度ちゃんと謝ろう。

可愛らしくて笑ってしまっただなんて、怒って当然だよな。

週末の約束、その時にでも何かで詫びないと。

それにひとまずは、今日の放課後だな。

罪悪感と気苦労に疲れを感じつつ、自業自得のような気がすると俺は頭を振っていた。






そのチャイムはやはり解放感が違う。

音は同じなのに、俺たち学生に与える効果は全く違うものだ。

昼休みを告げるその音がスピーカーから流れてくると、クラスメイト達も楽しげに席を立つ。

走っていくメンバーは購買か、或いは学食に向かったんだろう。

クラスに残った連中は、それぞれ鞄から色とりどりの包みを取り出し、授業で失った活力を食べることと喋ることで補う。

そんないつもの風景を見ながら、俺も莉乃姉が用意してくれた弁当を鞄から取り出した。

いつもなら俺も走っていく連中をゆっくり追いかけるが、最近はその手間も省けて助かるな。

少し大きめの弁当箱を開けると、中にはバランスの良さそうなおかずが並んでいる。

毎度のことながら美味しそうだ、売っている弁当とはレベルが違う。

毎日楽しそうに用意してくれる莉乃姉には感謝しないといけないな、お礼を考えておこう。

そんなことを考えながら箸を持った時、教室の戸が勢い良く開いた。

教室の全員が驚きに目を向けて、すぐに納得したように視線を元に戻す。

まぁ、このクラスの奴らは見慣れている。

莉乃姉が真っ直ぐに俺を見ながら、迷わずに向かってくる光景なんて。


「真也!一緒にご飯食べよう!」

「珍しいな、昼休みに来るなんて。」

「あぁ、今日は真也と食べようと思ってたんだ。ほら、お茶も持ってきたぞ。」


そう言って莉乃姉は俺の前の席を借りると、手に持っていたお揃いの弁当を開き始める。

少しだけ大きめの水筒から冷たい麦茶を注ぐと、俺に手渡してくれた。


「ありがとう莉乃姉。」

「ホントは口移しで飲ませたいんだぞ?」

「時と場所と関係性とモラルを考えてくれ。」

「じゃあさ、あーんってしよう!」

「それが考えた結果なのかよ、あと身を乗り出すな。」

「いいじゃないか、あたしのクラスでもたまにやってるカップルがいるぞ?」

「俺と莉乃姉はカップルか?」

「言われてみればそうだな、もう殆ど夫婦じゃないか。じゃああーんしても平気だな。」

「こんなことを訊いた俺がバカだったよ。」


莉乃姉がこの程度で止めるはずもなかったんだ、この状況になった時点で諦めるべきだったな。

莉乃姉は嬉しそうに自分の弁当から唐揚げを摘まみ上げると、俺の口元へ差し出しながら言った。


「ほら真也、あーん。」

「………。」


俺は黙って口を開く。

だが莉乃姉は少し顔をしかめると、呆れた風に溜め息を吐いた。


「真也、こういうことは食べる方も言わなきゃダメだろ?状況を考えろ。」

「…仕返しかよ、ったく。」


悪足掻きは徒労に終わり、俺は渋々だが小さく頷く。

莉乃姉は満足そうに笑顔を浮かべ、改めて唐揚げを差し出す。


「はい真也、あーん。」

「………あーん。」


想像を絶する恥ずかしさと共に、口の中へ唐揚げが入ってくる。

あぁ美味いはずなのに、恥ずかしさで味なんて解んねぇ。

教室はざわめきだし、誰かが何かを言ってる気がするが、そんなものまるで解らない。

きっと顔が赤くなってるんだろうな、何だか身体も熱いし。

なんだ、妙にドキドキするぞ。

教室でこんなことしたからって、何でここまで。

すると莉乃姉がそっと俺の手に触れてきた。

それだけで心拍数が上がったらしく、何だか頭までボーッとしてくる。

莉乃姉に触れられた部分が熱くて、何故か莉乃姉を抱き締めたいと思ってしまった。

莉乃姉を見る。

いつも通りの莉乃姉だ、そのはずなのにドキドキが激しくなって、その柔らかそうな唇から視線が離せない。

クソッ、どうしちまったんだ俺は。


「大丈夫か真也?具合でも悪いのか?」

「いや、大丈夫…。」

「ふふ、そんなに見つめられたら照れちゃうじゃないか。」

「わ、悪い。」


ダメだ、いつになく可愛いと思ってしまう。

しかも莉乃姉に触れたい衝動に襲われていて、何故だか思考が回らない。

すると異変に気づいたのか、緋結華がグループから離れて駆け寄ってきた。


「真也くん大丈夫ですか!?顔が赤いですよ?」

「あぁ緋結華………っ!?」


緋結華に視線を向けた途端、今度は緋結華を抱き締めたい気持ちになった。

何だよこれ、俺は急にどうしちまったんだ?


「御奈坂!今はあたしと真也を二人っきりにしてくれ!」


急にそんなことを言い出した莉乃姉に、緋結華が驚く。


「えぇ!?でも、真也くん具合が悪そうですよ?」

「大丈夫だ!寧ろ真也の前にあたし以外もいたら薬の効果が…。」

「薬?莉乃姉、それってどういうことだ?」

「………莉乃さん、ちょっとお話を伺いたいのですが?」


何故か珍しく怒った様子の緋結華に、莉乃姉がたじろぐ。


「いやぁその、あはは、何かあたし間違えて変なこと言ったかなぁ?」

「言葉を間違えたと言うより、人として間違ってますよ!いいからこっちに来てください!」


意味が解らない俺を残して、クラスの皆が注目する中、緋結華がばつの悪そうな莉乃姉を廊下へと連れ出す。

暫く待っていると、呆れた様子の緋結華が大人しくなった莉乃姉を連れて戻ってきた。

緋結華は俺の横に立つと、俺の手から箸を取って言う。


「真也くん、このお弁当は食べちゃダメです。」

「は?どういうことだ?」

「理由は莉乃さんに訊いてください。私のお弁当を分けますから、ちょっと待っててくださいね。」


そう告げた緋結華は自分の席に戻ると、一緒に食べていたメンバーに何かを言ってから弁当を持って戻ってきた。

そして素早く俺の弁当を片付けて自分の弁当を俺の前に置くと、椅子を借りてきて座る。

莉乃姉は落ち込んだ様子のまま俺の前に座ると、渋々弁当箱を閉じた。


「あのさ、頭が上手く回らなくて理解できてないんだけど、何か莉乃姉がしたのか?」

「えぇ、流石にやり過ぎなことを真也くんに。」

「俺に?」

「むぅ、上手くいってたのに。しかも凄く高かったのに…。」

「莉乃さん、まさか反省していないんですか?」

「う…。」


おぉ、訳が解らないが珍しく緋結華が莉乃姉より上らしい。

緋結華は溜め息を吐くと、俺に箸を渡してきた。


「さぁ真也くん、どうぞ食べてください。」

「あぁ、ありがとう。」


礼を言って緋結華の弁当に箸を伸ばす。

ただ相変わらず心臓が早鐘を打っていて、味がよく解らない。

この弁当だって美味いはず、なのに意識がさっきから莉乃姉や緋結華に集中してしまう。

ダメだ俺、友達をなんて気持ちで見てるんだよ、変態か。

いくら好きだと言ってくれてる相手だからって、こんな気持ちは。

モヤモヤした気持ちを抑えるのに必死になっていると、緋結華が莉乃姉に向いた。


「莉乃さん、ちゃんと真也くんに説明して謝ってください。」

「うぐ。」

「そしてもうしないと誓ってください。」

「うぅ、わかったよ。」


莉乃姉は俺の目を見ると、周りに聞こえないように小さな声で言った。


「ごめん真也、実は今日の弁当にはある薬を盛ったんだ。」

「は?薬って何を?」

「………媚薬を大量に。」

「はぁ!?」


俺が上げた大声にまた注目が集まる。

俺は慌てて身を小さくすると、呆れて溜め息を吐いた。


「このおかしな気分の理由がやっと解ったよ。ったく、大量にってどんだけ入れたんだよ。」

「えっと、使用量の10倍くらい。」

「莉乃姉、頭大丈夫か?」

「だって真也ってそういうの効かなそうだったし、いっぱい入れれば流石に効くかなって。」

「莉乃姉…アホだろ?」

「うあわぁぁん!真也に嫌われるぅー!」


莉乃姉が泣き顔で騒ぎ出すと、教室の皆がヒソヒソと囁きだす。

まさか俺が酷いことしたと思われたりしてないだろうな。

莉乃姉の自業自得なのにそんなことを思われてるんだとしたらあまりに不当だ、抗議するわけにいかないのが妬ましい。

事情を解ってる緋結華だけは呆れたように目を伏せているが、こういうとき女の子の涙はズルいと思う。

はぁ、かったりぃな。

明かされた事実に驚いたせいか、薬の効果も吹き飛んでしまった。

俺は諦めて溜め息を吐くと、莉乃姉の手を取って言う。


「莉乃姉、怒ってないから泣くのは止めてくれ。」

「………ホントか真也?」

「あぁ、もうしないと約束してくれるなら水に流そう。だからさ、泣き顔を見せないでくれ、な?」

「うぅ、真也ー!」


安堵したからか余計に涙を流して手を握ってくる莉乃姉。

机を挟んでなかったら抱きついてきたんだろうなと苦笑すると、緋結華がムッとした表情で俺を見ていた。


「ど、どうした緋結華?」

「何でもないです、何かズルいです。」

「………。」


はぁ、もう訳が解らない。

被害者のはずだった俺が、いつの間にか悪者みたいになる方程式があるんじゃないか?

こりゃもう手紙のことを話すのは無理そうだな。

俺はいつの間にか俺の手に幸せそうな顔で頬擦りしている莉乃姉と、何故だか解らないが不機嫌な緋結華を見比べると、全て諦めて昼飯を再開した。






緋結華の弁当を分けあって食べた後、罰として莉乃姉が買ってきた飲み物を三人で飲んでいた。

流石にクラスの連中から向けられていた興味の視線もなくなっていて、教室内はいつもの穏やかな賑わいを取り戻している。

まぁ莉乃姉の俺に対する奇行の数々は校内でも有名だし、このクラスの連中からしたら日常風景のように慣れたものなんだろう。

漸く落ち着けることを缶コーヒーを飲んで噛み締める。

うん、やっぱり食事時は穏やかな気持ちで過ごしたいよな。

談笑している莉乃姉と緋結華を眺めながら、ここにきて手紙のことを思い出した。

緋結華の言う通り、事前に話しといた方が良いだろうな、隠すのも嫌だし、家に帰ってからだと被害が拡大しそうだ。

俺は緋結華にそっと目配せすると、すぐに気づいた緋結華が頷く。


「莉乃さん、真也くんから話があるみたいですよ。」

「真也?どうした改まって………まさかっ!?」


莉乃姉が興奮して目を輝かせ、身を乗り出して顔を近づけてくる。


「落ち着け、莉乃姉の想像していることではないと100%断言できる。」

「むぅ、何も出鼻を挫くようなことを言わなくてもいいだろう。」


拗ねて椅子に座り直す莉乃姉に、俺は改めて顔を寄せるように手招きした。

首を傾げながらも素直に顔を寄せた莉乃姉に、俺は周りに聞こえないよう小声で告げる。


「実はさ、ラブレターを貰ったんだ。」

「………………。」


酷く長い沈黙が、俺の中で嫌な予感に早変わりする。

莉乃姉は口を開けたまま、焦点が定まってない瞳で俺を見ていた。

目の前で手を振ってみても反応がなく、ものの見事に固まっている。

異変に気づいた緋結華が、莉乃姉を見ながら俺に囁く。


「真也くん、一体どういう風に言ったんですか?」

「いや、回りくどいのも誤解を生みそうだし、ストレートにラブレター貰ったって。」

「………私、怖いので退避させてもらいますね。」

「は?」


言うが早いが緋結華は弁当を素早く片付けると、逃げるように自分の席へと戻っていく。

そしてひきつった笑みを浮かべて頑張ってと手を振ると、何か災害にでも備えるように両手で頭を抱えて机に突っ伏した。

あぁ、気持ちは痛いほど解るさ緋結華、できれば自分だけじゃなく周りの奴にも覚悟をするよう助言してほしかったが。

判断ミスって、時に重大な被害を被ることってあるよな。

気まぐれにいつもと違う通学路を通ったら、朝っぱらから不良に見つかって喧嘩が始まるとかさ。

良かれと思ってしたことが裏目に出ると、何かこう一気に気分が落ち込む。

今みたいに、言葉を慎重に選ばなかったせいで、嵐の前の静けさを漂わせる莉乃姉の傍にいると余計にさ。

背中を嫌な汗が伝っていく感覚と同時に、莉乃姉が突然立ち上がって俺の隣に立つ。

断崖絶壁に追い詰められた犯人のような心境になりながら、俺は縋るような思いで悪足掻きしてみた。


「莉乃姉落ち着こう、まずは座ろう。」

「うがぁぁぁぁぁぁ!!!真也はあたしのだーーーー!!!!」


犯人を取り押さえる警察官のごとく、莉乃姉は俺に覆い被さって肩を掴むと、ガクガクと揺らしながら騒ぎ出す。


「誰にも渡さないぞ!言え真也!あたしが出向いて徹底的に思い知らせてやる!」

「おい莉乃姉暴力は…。」

「あたしがどれほどまでに真也を愛しているか、許しを請うまで語り聞かせてやる!」

「………。」


暴力よりも威力が高そうだ、精神的ダメージは想像するに及ばない、下手すりゃ恋愛恐怖症になってしまいそうだ。


「フフフフフ、これまで真也と過ごした蜜月の時間を事細かに囁き、あたしですら思い出すと赤面ものの状況を嫌というほど聞かせてやる!」

「お、落ち着け莉乃姉、そろそ、ろ、首が、ヤバい。」


さっきから嫌な音が首筋辺りからボキボキと鳴り、視界が段々と揺らめいてきた。


「うへへへへ、なんだったら今ここで新たな蜜月タイムを過ごして、想い出を一つ増やしてやるぅ!」

「ちょっ!?」


慌てて振りほどこうとすると、莉乃姉はガッチリと俺を逃がさないようにしがみついてきて、きっと周りから見たらとんでもない状態になっていると思う、それはもう倫理的に退学になりそうな感じで。

しかも、9月とはいえまだ気温は涼しいとは言えず、密着されて二重に体温が上がっていく。

しかも莉乃姉との距離が近すぎて、石鹸のような清潔感のある匂いが濃密なほど鼻に入ってきて、なんだか呼吸をすることさえ恥ずかしくなってくる。

あぁ、こりゃキツいかも。

薄れゆく意識を手放しながら、俺は心の中で自分の迂闊さを呪った。






柔らかな温もりの中で俺は目覚めた。

最初に視界に入ったのは白い蛍光灯の明かりと、同じ色の天井。

それに続いて、消毒液特有の臭いが鼻につく。

あぁ、ここは保健室か。

莉乃姉の香りと暑さにやられて熱中症にでもなったのか、情けない話だ。

運んでくれたのは誰だろう、重かっただろうしお礼を言わないとな。

寝たままで視線を動かしてみる。

薄緑色のカーテンが閉じられていて周りの様子は解らないが、どうやら今は誰もいないようだ。

俺はボヤけた意識を振り払うように起き上がると、中履きを履いてカーテンを開けた。

時計を見ると、もう最後の授業が始まってしまっている時間だ。

さてどうしようかな、今から教室に戻っても授業の邪魔になっちまうかも。

かといってもう一眠りってのも気が引けるし、授業時間に校内をうろつくわけにもいかない。

そんなことを考えていると、出入り口の戸が開いて、校医の先生が入ってきた。

先生は起きている俺を見ると、何故かニヤリと嫌な笑みを浮かべた。


「おぉ桐生、目ぇ覚めたのか。その様子だと、小湊のヤツ、土壇場で日和ったな。」

「は?」


戸を足で閉めて椅子に座った先生は、持っていたファイルを机に放り出すと、脚を組んでふんぞり返る。

モデル顔負けの美脚、スーツ越しにもわかるほど恵まれたスタイル。

見事なまでの女性なのに、性格は男よりも男らしいと有名な美人女医。

俺は身体の調子を確かめるように立ち上がると、咥え煙草が似合いそうな先生に問いかける。


「で、さっきの日和ったとかどういう意味ですか?」

「いやなに、小湊によ、どうせ暫く目ぇ覚まさねぇし襲っちまえって言ったんだけどな、何もせず戻りやがったみてぇだなってことよ。ったく、折角気ぃ利かせて出てってやったってのに。」

「………。」


なんともこの先生らしいブッ飛んだ話だ、誘惑に耐えた莉乃姉を誉めてやりたい。

呆れてものも言えない俺を気にせず先生は顎で椅子を指して俺を座らせると、手早く触診を済ませる。


「大丈夫そうだな。まぁ桐生は元々丈夫だし特に心配はしてなかったんだが。」

「まさか俺もこんなことになるとは思いませんでした。」

「ったくよ、このクソ暑い中でヨロシクやってたのかよ。小湊に事情を訊いても答えねぇしよ。」


ナイスだ莉乃姉、その鉄の精神力に免じて薬を盛ったことは忘れよう。

この人に話したら暫く弄られるからな、考えるだけで嫌だ。

まぁ口だけは律儀に固いから広まったりはしないらしいけど。


「俺が調子悪くて勝手に倒れただけですよ、邪推しないで下さい。」

「チッ、お利口さんだな桐生、学生の内からんなクソ真面目だと使えなくなっちまうぞ?」

「何がとは訊かないでおきます。」


早くここから出ていくのが正解かもな、ここにいたら余計なことを根掘り葉掘り訊かれて疲れそうだ。

そう思い立ち上がった俺を見上げて、先生はニヤリと笑った。


「賢明な判断だな桐生、その的確で素早い判断力は魅力だぞ、衰えねぇようにしとけ。」

「………そうさせてもらいますよ。」


やれやれ、こっちの内心までお見通しとは。

小さく会釈して背を向けると、笑いを含んだ声で先生が言う。


「お前は顔に出やすいからな、気を抜いてる状態だと何を考えてるのか解りやすい。お前が話し相手にどんな感情を向けているのかもな。まぁお前にとっては大したことじゃないが、あまり女子を泣かせるものじゃないぜぇ桐生。」


俺だって、そんなつもりは全くないんだがな。

できれば色好い返事もしてあげたいが、生憎とそうもいかないんだ。

罪悪感を抱くことではないんだろうけど、いたたまれないな。

溜め息を吐きそうになるのを堪えながら、俺はニヤついているだろう保険医を背に扉を閉めた。






放課後まで実に長かった。

教室に戻って授業に復帰したは良いが、やはりクラスメイトからはこそこそと何か言われていたし、先生も渋面を作ってから授業を再開していた。

肩身の狭い思いをしながら授業が終わったら、今度は俺を保健室送りにした張本人が教室に駆け込んできて、周りが引く勢いで謝ってきて、もう一眠りして回復した体力を根こそぎ持ってかれ、気の休まる時間など何処にもない。

あの胡散臭い保険医が言う通り、今の俺はきっと表情に疲れが滲み出ているだろう。

最後の授業が終わると、俺はすぐに帰り支度を整えて席を立つ。

朝靴箱に入っていた手紙の差出人に会いに行くためだ。

もたもたしてたらまた莉乃姉が走ってきて、嫌と言うほど謝罪責めにし、下手すりゃまたとんでもない方向に話が進みかねない。

緋結華が俺の動きに気づくと、頑張って下さいねと言うように口を動かした。

俺は小さく頷くと、追跡者から逃げるように教室を後にする。

伏倉祈先輩が待っているであろう屋上のベンチ。

莉乃姉の襲撃が来なかったことを考えるとまだ来ていない可能性もあるが、まぁ待たせるよりは良いだろう。

階段を登って屋上の扉を開けると、案の定そこは無人だった。

ただ下の方から賑やかな喧騒が響いてくるから、少し待てば上がってくるだろう。

夏の陽射しで熱くなったベンチに腰を下ろすと、吹いてくるそよ風に目を細める。

金網の向こう側には今日も平和な並木町の住宅街。

その向こうの空に高々と聳えるような入道雲が、なんだか心地よく見える。

少しの緊張を解すようにして深呼吸。

あぁ、先に来ておいて正解だった。

この僅かな時間でさえ、緊張感が長く感じさせる。

きっと伏倉先輩の緊張は俺の比じゃないだろう。

そんな状態の先輩を待たせたら、暑さも重なって倒れてしまうかもしれない。

…なんか、いつの間にか伏倉先輩を大人しい人だって勝手に想像してるな俺。

会ったことはないと思う、少なくとも意識はしてないから知らない相手だ。

だが手紙に想いを乗せてくれたのは事実だ、きっと何度もすれ違ったりしてるんだろう。

でも伏倉先輩がどんな人であれ、残念ながら答えは決まっている。

そんな申し訳なさを感じていると、背後で鉄扉が軋む音が響いた。

なんとなく、伏倉先輩だろうなと思って振り返る。

線の細い、儚げな女性がそこに立っていた。

染めてない黒髪を三つ編みにして、大きな目は左右にさ迷っている。

恥ずかしさに頬を赤くして伏せられた顔は、どこかお嬢様っぽい清楚さだ。

控え目に見ても美人、そんな人が鞄をぎゅっと握って動けないでいる。

俺は立ち上がり歩み寄ると、余計に顔を伏せてしまった彼女に話しかけた。


「伏倉先輩ですか?」

「…………は、はい。あの…待たせてしまいましたか?」

「いえ、そんなことありませんよ。」

「ごめんなさい、授業が少し長引いてしまって、本当に、ごめんなさい。」


消えてしまいそうな声で更に頭を下げてしまった先輩に苦笑してしまう。

とことん人が良いのだろう、それにきっと自分を低く見すぎてしまう人だ。

後輩の俺に対してそこまで畏まる必要はないのに。


「顔を上げてください伏倉先輩、俺は全然怒ったりとかしていませんから。」

「はいっ!…その、すみません。」


逆効果だったらしい、余計に下を向いてしまった。

うーん、いつも莉乃姉と一緒にいるけど、女性の扱い方が全くわからないな。

ただこうして先輩の後頭部を見ていても埒があかないしなぁ。


「えっと、先輩、とりあえず座りませんか?ちょっと暑いかもしれませんが。」

「は、はい。」


先輩を促して、俺が元々座っていた位置に座らせる。

多分俺が座っていたから、多少は熱さも薄れているはずだ。

俺は改めて熱さを感じながら座ると、ずっと自分の膝を見つめる先輩に話しかけた。


「先輩、一緒に深呼吸しませんか?」

「………はい?」


予期していなかった問いかけだったのか、そこで初めて先輩が俺の顔を見てくれた。

でもすぐに俯いてしまう、だがめげずに俺は続ける。


「俺も緊張してしまって、良かったら一緒にと思ったんですけど、どうですか?」

「えっと…そ、そうですね。私も凄く、緊張してしまっているので。」

「じゃあ一緒に。」


俺が大きく深呼吸すると、先輩もささやかだが一緒に深呼吸する。

夏の匂いが胸一杯に満たされて、緊張していた気持ちが落ち着く。

それは先輩も同じだったようで、少しだけ穏やかになった横顔を見せてくれた。

そこにふわりと吹いた風が、少し汗ばんだ肌に心地よく流れていく。


「風が気持ちいいですね。」

「…はい、暑さが和らぎますね。」

「夏の暑さって厳しいですけど、こうやって風を感じられるのは、やっぱり夏の良さなんだって思います。」

「ふふ、桐生くんの言う通りですね。……はぁ、少しだけ落ち着きました。ありがとうございます桐生くん。」


ようやく見せてくれた笑顔に、俺も笑顔で返す。

どうやら大丈夫そうだ、後は先輩のペースに合わせよう。

それから暫くは、他愛のない話をして過ごした。

夏休みはどう過ごしていたのかとか、互いの好きなものとか。

穏やかで優しい時間。

幸いにも誰一人屋上に上がってきた人はいなくて、二人の時間は緩やかに過ぎていく。

楽しかった。

初めて話す先輩との会話は新鮮で、先輩の緊張もいつの間にか解けていた。

浮かべる笑顔はとても綺麗で、嬉しそうで、本当に素敵だ。

礼儀正しく、所作は上品で、やっぱりお嬢様っぽくて。

先輩にとって今が幸せな時間なんだと感じられる。

だからこそ、段々と会話の間が開いていき、その度に一生懸命話題を探す様子の先輩を見ているのが辛かった。

きっと先輩は解ってるんだろう。

この時間の終わりに、俺がどんな答えを出すのかということを。

終わらせたくない、そんな悲痛な気持ち。

それはやがて不安に変わって、先輩を苦しめていく。

太陽は少しずつ降りてきて、まるで先輩の気持ちとリンクしてるみたいで、それが余計に辛くて。

いつしか互いの口は閉じてしまって、風が吹く音だけが揺れている。


「………桐生くんのそういうところが好きなんですよ私。」

「え?」


唐突に、その言葉がやって来る。

気がつけば俺は先輩から視線を逸らし、自分の膝を見つめていたらしい。

視線を上げると、先輩は穏やかな微笑みで俺を見ていた。

…まったく、あの保険医の言う通りになった。

これじゃ最初と逆じゃないか。

俺が落ち込んで、挙げ句それを先輩に悟らせるほど表情に出してたんだろう。

バカかよ俺。

最低だ、こんな風に先輩に言葉を出させてしまうなんて。

その言葉は先輩にとって凄く大切なもので、俺を気遣うために使わせてはいけなかったのに。

なのに、俺は言葉を返せない。

一生懸命考えても、一つの言葉だけが埋め尽くす。

それは謝罪で、拒絶だ。

その言葉を言わなければならないと解っていたはずなのに、声に出すことを躊躇ってしまう。

この沈黙が、どれほど先輩を傷つけているかわかってるのに。


「桐生くん、言わなくて良いんですよ。」


潤んだ瞳で言葉が紡がれる。


「私はここに来て、桐生くんを苦しめると解ってました。でも悔しかったんです。桐生くんの周りにいる女の子達が羨ましくて、どうして私はそこにいないんだろうって、嫉妬して、でも何もできなくて、苦しかった。」


先輩は空を見上げて、目を閉じる。


「だからこれは私の我儘なんです、桐生くんへの嫌がらせです。苦しめると解ってて言わせようとするなんて、私は最低なんですよ。」

「それは違う、先輩は何も悪くない。」

「ふふ、ありがとう桐生くん。こんなにも素敵な人を好きになれて、こうして会ってくれて、それだけで私は十分です。とても幸せな時間を過ごせたこと、桐生くんが初めて私に向けてくれた笑顔や優しさ、遠目に見ていることしかできなかったそんな物語の中にいられた気がしました。」

「なら、これからも一緒にいれば…。」

「桐生くん、それはできないんですよ。」


真剣で、寂しさを含んだ表情で先輩は首を振る。


「私は小湊さんや他の方々の隣に並ぶ勇気はないんです。私にはそんな自信もないんです。精一杯の勇気を出してここに来ました、それが今の私の限界なんです。だから、これで終わりにするために、前に進むんです。」


そう言って先輩は立ち上がると、鞄を持って出口へと歩き出す。


「先輩…祈さん。」


先輩を呼び止めて、俺はその背中に最後の言葉をかける。


「俺も、前に進むよ。自分の気持ちをちゃんと考えて、答えを出す。だから………ありがとう祈さん。俺を好きになってくれて、本当に嬉しかった。」

「………大好きでしたよ真也くん!」


最後に振り返ってくれた先輩は、涙を光らせて泣いていた。

でも笑顔は一番素敵だったと思う。

音を立てて閉じた扉を、俺は暫くの間見つめていた。

あの笑顔に報いるためにも、俺は動き出さないと。

想ってくれた気持ちを断った、そしてそれは今日で最後じゃない。

だからこそ真剣に向き合っていかなきゃならない。

悲しませることになっても、ちゃんと納得してもらえるように。

祈先輩が背中を押してくれた、だから歩き出そう。


「さて、帰ろう。」


きっと莉乃姉が待っている、いつも通り美味しい夕食を用意して。

そういえば週末の恵恋との予定、夏音を連れてこいって話だったな。

定期検診みたいなものだろうか、夏音は今朝もご飯を食べたら俺が開けた窓からするっと出ていったが。

元気になっているのは嬉しいが、猫も犬みたいに散歩が必要だったりするのだろうか。

まぁ、それも週末に訊いてみよう。

緩やかに赤く染まりだした陽光を浴びながら、長かった一日を終えた。

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