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第二話 貴族の坊ちゃん生活は、どうにも落ち着かない

転生してから数日が経ったが、結論から言おう。この生活にはまったく慣れない。いや、正確には環境そのものに問題はない。むしろ前世の人生と比べるなら天国みたいなものだろう。広い屋敷、柔らかいベッド、綺麗な服、朝になれば使用人が起こしに来て、食事は毎回高級レストラン顔負けの内容だ。外に出れば手入れされた庭園が広がり、使用人の数だけでも軽く二十人を超えている。どう考えても金持ちだ。そこに不満はない。問題があるのは、別のところだった。


「……いや無理だろこれ」


私はトイレの前で真顔になっていた。


転生して最初の数日は混乱していたせいでそこまで意識していなかったが、人間というのは生きている限り避けられない生理現象がある。そして今、私の前には人生で一度も向き合ったことのない問題が存在していた。


私は今、男である。


五歳児だが男である。


つまり当然ながら身体の構造が前世と違う。


私はじっと下を見る。


……。


「……どうしろってんだよ」


誰もいないのに思わず小声で呟いてしまう。前世二十六年間、私は女として生きてきた。そりゃ当然だ。なのに今は完全に男の身体をしている。頭では理解している。理解しているが感覚が追いつかない。いや待て、落ち着け。所詮排泄だ。ただの排泄行為だ。深く考える必要はない。ヤクザの組をまとめていた人間がこんなことで動揺してどうする。


……数分後。


「……最悪だ」


私は静かにトイレから出た。


いや、慣れろ私。これから先ずっとこれなんだぞ。


人生二周目は開始数日で精神攻撃が激しすぎる。


その後、食堂へ向かう途中で何人もの使用人とすれ違った。みんな私を見ると恭しく頭を下げる。アルベルト様、おはようございます。アルベルト様、本日はお元気そうですね。……いや、正直こういうのもまだ慣れない。前世では誰かに頭を下げられることは多かったが、あれは恐怖や利害関係が前提だった。だがここの使用人たちは純粋に主人家へ仕える者として動いているらしい。その空気感が逆に居心地悪い。


食堂に入るとすでに母親が座っていた。


長い金髪を背中まで流し、柔らかな表情を浮かべる美しい女性だった。この数日でわかったことだが、この人はかなり善人だ。使用人に対しても常に穏やかだし、食事を運ぶメイド一人一人にありがとうと声をかける。貴族という言葉から私が勝手に想像していた高圧的な連中とはかなり違っていた。


「おはよう、アルベルト」


「……おはようございます」


まだ母親と呼ぶことには少し抵抗がある。


すると彼女は嬉しそうに微笑んだ。


「今日はよく眠れた?」


「ああ……うん」


前世では組の人間に囲まれながら暮らしていたせいか、こういう優しい対応は逆に落ち着かない。


「旦那様はまた会議ですか?」


私が聞くと母は少し困ったように笑った。


「ええ。あなたのお父様は最近ずっと評議会との話し合いばかりなの」


……なるほど。


父親についてはほとんど知らない。この家に来てから数日経つが顔を合わせたのは一度だけだ。背が高く、いかにも威圧感のある男だった。会った瞬間からわかった。あれは上に立つ人間の目だ。普通の貴族じゃない。使用人たちもどこか緊張しているし、かなり大きな権力を持っているんだろう。


……まあ興味はあるが、今はどうでもいい。


問題は別にいる。


「アルーーー!!」


背後から勢いよく声が飛んできた。


次の瞬間だった。


「ぐえっ!?」


私は椅子ごと後ろから抱き締められ、そのまま頭を固定された。


「かわいいなぁアル!今日もかわいい!」


「おい離せ!!」


ぶちゅっ。


頬にキスされた。


ぶちゅっ。


今度は額。


ぶちゅっ。


また頬。


「やめろって言ってんだろこの変態兄貴!!」


私の頭を抱え込んでいるのはこの家の長男――ルーカスだった。十四歳。銀髪で整った顔立ち。貴族学校でもかなり人気があるらしい。


……ただし弟への愛情が異常である。


「今日もいい匂いだなアル」


「殺すぞ」


「ははは、元気いっぱいだ!」


「離せ!!」


前世ならナイフで刺している。


いや本気で。


母は隣でクスクス笑っている。


止めろ。


お前の息子がおかしい。


食事を終えた後、私はいつものように屋敷を歩き回ることにした。もちろん五歳児らしく適当に走り回ったり、庭にいる鳥を追いかけたり、花壇を覗き込んだりしている。


だが本当の目的は別だった。


情報収集である。


前世で学んだことがある。知らない土地ではまず情報を集めろ。力より先に環境把握だ。


私は廊下の壁に飾られた地図を見る。


どうやらこの世界はかなり広いらしい。国がいくつも存在し、大陸単位で分かれているようだ。


……ふむ。


ここまでは前の地球とそこまで変わらない。


違うのは書物の内容だった。


私は書斎に忍び込み、一冊の本を開く。


《北部地域に現れる魔獣の生態》


魔獣。


別の本を開く。


《竜種の分類と危険度》


……竜。


さらに別。


《八大悪魔に関する伝承》


悪魔。


私は小さく息を吐いた。


やっぱりそうか。


ここは完全にファンタジー世界だ。


どうりでメイド服も中世ヨーロッパみたいなわけだ。


なら他にもいるだろう。


エルフとか。


ゴブリンとか。


獣人とか。


……くそ、少しテンション上がってきた。


思い返せば私は昔から漫画が好きだった。極道なんて物騒な肩書きだったせいで周囲は勝手に怖い人間だと思っていたが、実際の私はかなりオタク寄りだった。


暇さえあれば漫画を読む。


異世界転生。


冒険者。


エルフ。


ドラゴン。


魔王討伐。


ロマンス。


ああ、ロマンスも好きだったな。


ただし普通の恋愛ものではない。


少し荒っぽい方が好きだ。


敵同士だった二人が殴り合って、お互い傷だらけになりながら妙な信頼を築いていくやつとか、命懸けで守るとかそういう系統だ。


……思い出したら妙に懐かしい。


前世では恋愛なんて一度もしなかった。


まあ当然か。


日本最大級のヤクザ組織の女組長に告白する命知らずなんていない。


そんなことを考えながら私は廊下を歩いていた。


その時だった。


ふと、客間の扉が少し開いているのが見えた。


中を見る。


テーブルの上にガラス瓶。


赤い液体。


私は立ち止まった。


……ワインか?


数秒沈黙。


心臓が妙に高鳴る。


いや待て。


だめだろ。


私は今五歳児だ。


さすがにまずい。


……。


いやでも。


前世では酒が好きだった。


組の連中と飲むウイスキーは最高だった。


もう何日も飲んでいない。


……一口だけ。


誰も見ていない。


たった一口なら。


私は静かに部屋へ忍び込んだ。


椅子を引きずり、テーブルによじ登る。瓶を持ち上げる。


うわ、重い。


だが構うものか。


私はそのまま口をつけた。


ごくり。


瞬間。


鼻に抜ける芳醇な香り。


舌に広がる濃厚な甘み。


喉を通る刺激。


私は思わず目を見開いた。


「……っっっ……!」


うまい。


めちゃくちゃうまい。


最高じゃねえか。


久々のアルコールが身体に染み渡る。


だが次の瞬間、廊下から足音が聞こえた。


まずい。


私は反射的に瓶を戻し、その場で慌てて転がった。


扉が開く。


メイドが飛び込んできた。


「アルベルト様!?何を……!」


私は床に寝転がったまま無邪気な顔を作った。


「あははー」


「また悪戯ですか!?」


……ふう。


危なかった。


だが私は心の中で笑っていた。


なるほど。


今の私は子供だ。


多少問題を起こしても全部“やんちゃ”で済む。


つまり。


自由だ。


私はにやりと口元を歪める。


どうやらこの人生。


前よりずっと面白くなりそうだった。

第二話まで読んでくださり、本当にありがとうございます。


今回はまだ大きな事件は起きていませんが、主人公が転生後の新しい環境に少しずつ適応していく日常回になりました。


……もっとも、中身は二十六歳まで極道の世界で生きてきた元女性組長なので、普通の五歳児みたいに大人しくしていられるはずもありません。


男の身体にまだ慣れていなかったり、兄から意味不明な愛情表現を受けたり、勝手に酒を盗み飲みしたりと、だいぶ自由にやっています。


ちなみに主人公は前世からかなり漫画好きです。


極道でありながら、異世界ものや恋愛ものを読むのが密かな趣味でした。しかも少しだけ物騒な恋愛展開が好みだったりします。


そして今回、少しだけこの世界について触れました。


竜、魔獣、悪魔――前の世界とは明らかに違う常識が存在しています。


ですが、まだこれはほんの入口にすぎません。


主人公はまだ知りません。


自分が転生したこの家が、普通の貴族の家ではないことを。


そして自分の父親が、この国そのものを裏側から動かしている存在だということを。


次回から少しずつ、この世界の本当の姿が見え始めます。


それでは、また次の話でお会いしましょう。


……あと、お酒は五歳になってから飲みましょう。

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