暮れのコーヒーと、アドベンチャーの理由
川原毛大湯滝への新歓ドライブから一夜明けた日の放課後。
「おー、弥次くん! 昨日はお疲れ様〜」
部室の扉を開けると、ソファでくつろいでいたマップル先輩——八標薫先輩が、いつものように快活な声をかけてきた。
「疲れはしましたけど……すごく楽しかったです」
本来なら、休日は部屋に引きこもって黙々とゲームをプレイする方が性に合っているはずだった。けれど、あの大湯滝で浴びた温かい水しぶきや、全身で自然の力を感じたときの達成感に、僕の心が確かに躍っていたのも事実だった。
「あ、コーヒー飲む?」
「あ、いただきます」
先輩は部室の隅にあるコーヒーメーカーの電源を入れた。水と粉をセットすると、間もなく「ポコポコ……」という音とともに、香ばしい匂いが立ち上り始めた。
「あの、八標先輩。ひとつ聞いてもいいですか?」
「んー? なに?」
「先輩って……いつからそんなに『ツーリングマップル』が好きになったんですか?」
僕が尋ねると、先輩は「そうだねー」と手を止めずに言う。
「ツーリングマップルを好きになったのはね、たぶん父親の影響かな。うちの父親ってさ、どこにでもいる普通の会社員なんだけど……探検とか、冒険とか、『旅』ってキーワードが大好きな人でさ。はい、どうぞ」
そう言って、先輩はカップに注いだコーヒーを僕に手渡してくれた。先輩は砂糖もミルクも入れず、そのままブラックで口を付ける。僕も同じように、ブラックのまま湯気の立つコーヒーを一口すすった。
「昔から、仕事から帰ってきたら探検家のドキュメンタリーを見たり、本を読んだりしててさ。それだけじゃ飽き足らなくて、私に英才教育を施そうとしたのか、子守唄代わりに冒険家の自伝を読み聞かせたり、日本のいろんなところに連れて行ってアウトドア体験をさせたりする人だったんだよね」
「子守唄に冒険記ですか……」
「そうそう。まあ、だからと言って小学生くらいまでは父親の趣味に特別興味があったわけじゃないんだ。いろんな場所に連れて行ってもらって、そのついでに美味しいものを食べさせてもらえるから『旅行って楽しいなー』って単純に思ってた程度で」
一口コーヒーをすすり、先輩は夕日の差し込む窓の外へ視線を向けた。
「それがね、中学生くらいの時かな。リビングに父親が出しっぱなしにしていた本を、たまたま手に取ったんだよ。それが『ツーリングマップル』だったの」
「それが最初だったんですね」
「うん。何気なくページを開いたらさ、地図のあちこちに手書きでいろんな場所へのコメントがびっしり書いてあって……。なんだか分からないけど、宝の地図を見つけたみたいで夢中になって読んじゃってさ。それからかな。この本を手がかりに、自分の足で確かめに行きたくなったのは」
ふふっと懐かしそうに笑うと、先輩は首をかしげて僕の方を振り返った。
「そういえば聞き忘れてたけどさ。弥次くんは、どうしてうちの旅行同好会に入ってくれたの?」
夕暮れ時の部室。オレンジ色の柔らかい光が、室内を静かに満たしている。
どうして、だったか。あの日、アパートでスマホをスワイプしていて、ふと目に止まった『旅行同好会』という名前。そこから始まって、なぜか『UFOの里』に連れて行かれたり、先日のような秘境の温泉の滝へ連れて行かれたり。
この短い期間で、高校までの自分なら絶対に体験しなかったこと、思いつきもしなかったことが、怒涛のように押し寄せてきた。それはまるで、自分が主人公になって『アドベンチャーゲーム』をプレイしているようで、心の底からワクワクしてしまっている自分がいたのだ。
「最初は……サークル一覧で名前が目に止まっただけでしたけど。ここのサークルって、いつ顔を出してもいいっていうのが気楽でいいですし……なにより、先輩たちと行く旅が、自分がアドベンチャーゲームをしてるみたいで『楽しい』と思えたからです」
僕が素直な本音を口にすると、先輩は一瞬だけ驚いたように目を丸くし、それから花が咲くような笑顔を弾けさせた。
「そっか……! うん、良かった!」
夕日に照らされたその『ひだまり』みたいな眩しい笑顔に、胸の奥がドキンと大きく跳ねてしまったことは——口が裂けても絶対に内緒だ。
(……まあ、ゲームに没頭して友達作りを逃した代償としては、悪くないキャンパスライフなのかもしれない)
ブラックのコーヒーをゆっくりと喉に流し込みながら、僕は密かにそんなことを思うのだった。




