プロローグ - この世界
「おはよミリル!今日も低血圧で顔暗いぞ?」
ゆっくりとリビングダイニングのドアを開ければ、笑顔と元気な声が同時に押し寄せた。
パジャマからお仕事用の制服に着替え、姿見でオリーブグレーの髪にひとつも寝癖がないことを確認した直後のことだ。
テーブルに並べられたお皿には、パンやジャム、それから鮮やかな黄色のスクランブルエッグが丁寧に盛り付けされている。湯気が立っているし、香りも広がってくる。出来たてだ。
あまりに完璧な朝食の空気に、私の中の文句を言おうと思っていた熱量は半分消え去った。
「……おはよう。開口一番で失礼よ、シナリス」
「だって本当のことだもん」
「余計失礼じゃない……」
遠慮せずにガツンと言ったほうが良かったかもしれない。不機嫌そうな私を見ながら、少しだけ背の高いスレンダーな女性が、私と同じ制服を身に纏ってニコニコと笑っている。
コーラルオレンジのショートカットに似合う笑顔は、まるでやさしく照らす太陽のよう。シナリス――私、ミリルと共にこの家で同居している少女は、いつもみたいに快活さ溢れるオーラを身体に纏っていた。
ねむいんだから朝からツッコませないで、と文句を垂れる私にもシナリスは嫌な顔ひとつせず、キッチンに立って手際よく二人分の紅茶を淹れてくれている。私も何か手伝おうかと思ったが、既にやるべきことは全てなされていたので、おとなしくそのまま席についた。
ふと見れば、テーブルが少し汚れている。
朝食前に綺麗にしないと気分は良くないわね。右手で耳元の髪をそっと掛け直してから、私はそのまま指先を汚れに向けて――
「……」
――そのまま、何もせずに手を下ろす。
寝起きだから面倒がったけど、こんなことで"使いたくない"。
大人しくふきんを取りに行こうと、一度座った席を立つ。椅子を引いた音に反応して、シナリスがこっちを向いた。
「……あ、テーブル汚れてた?」
「少しだけね」
「魔法使っちゃえばいいのに」
「節約も大事でしょ。こんなことで使わないわよ」
「えー?それくらいで魔力は減らないと思うけどなー」
ミリルは倹約家だね、なんて笑うシナリス。私はそうね、とだけ返して、丁寧にテーブルを拭く。
純白のふきんに汚れが移るのを見届けて、ふぅ、と小さく息を吐いた。
やがて、彼女はふたつのカップを持ってくる。ありがとうと紅茶を受け取れば、その上品な香りに癒される。
ふと見ると、あちらの紅茶の量が少し減っていた。待ちきれずにキッチンで少し飲んだ様子。お行儀が悪いわね、全く。出会った当初はそう注意したかもしれないけど、今はもうしていない。諦めたのが半分、これが彼女だと理解したのが半分。
こうやって彼女のことを深く知ってからというもの、二人での暮らしも徐々に楽しくなっていた。朝が苦手な私の分まで料理をしてくれていることに、たいへんな感謝もしつつ。
「仕上げにシナリスシェフの美味しくなる魔法をかけて完成ー!」
「詠唱したの?」
「……ねえやめてよ、本当に使ってるわけじゃないんだからさー。あと料理は気持ちが大事だと思うわけ」
「まあ、それは否定しないわ」
「おや、真面目なミリルさんが珍しい」
「偏見がすごいんだけど」
彼女は笑顔で人差し指を一振りし、料理に向けて魔法を使う――フリを見せた。
別に私だって、こういうことは嫌いじゃない。そもそも彼女の心が込められているのだから、無下にする理由もない。
世の中には料理を美味しくする魔法もあるのかしら。もしそうなら、料理人という職業は少し大変だろうな、なんて要らぬ心配をしながら。
「そいじゃ、いただきまーす!」
「いただきます」
まずスクランブルエッグを頬張る。うん、とてもおいしい。バターの香りがよくて絶品。紅茶もほどよい甘さで、この朝食の名脇役。
窓から差し込むキラキラとした朝日が、そんな私たちと朝食を柔らかく包んでくれる。あまりにも平和な世界を感じながら、私はふいに窓の外を見る。ローブを身につけた旅人が、魔法で重そうな荷物を軽々と持ち上げていた。
「……眩しい」
こんなに光に塗れた明るい世界があって、目の前に私を好いてくれている友人がいて、なんて幸せなことだろう。なんの不便もないはずの理想の生活を送っている。
――魔法が使えない者は、存在することができない
この世界は、そうできている。
数年前、私は魔法が使えなかったはずで。この世界に存在できるはずがなかったのに。
それなのに……私は今、ここにいる。
私は、よく分からないこの世界が嫌いだ。




