第77話「もっと、おぼえたい」
朝の風が、干した洗濯物を揺らしている。
広場では住民が農作業の準備をし、マーレンの食堂から湯気が立ち上る。
その中を、銀色の耳をぴこぴこさせた少女が走り回っていた。
「ドスさん、おはよう!」
「お、おはようルナちゃん」
ドスが目を丸くしている。
無理もない。
ほんの数日前まで絵図カードを指差すのがやっとだったルナが、自分から声をかけているのだ。
「レオンさん、きょう、はたけ?」
「あ、ああ、畑だよ。ルナちゃんも手伝ってくれるのか?」
「てつだう!」
銀の尻尾がぶんぶん揺れている。
住民たちが顔を見合わせて、嬉しそうに笑っていた。
俺は食堂の軒先に座って、その光景をぼんやり眺めている。
……いつの間にあんなに喋れるようになった?
隣にいたカイが腕を組んで言った。
「ルガが来てから、一気に覚えた感じだな」
「感情の振れ幅が大きい場面で覚えた言葉は残りやすい、ってことか」
脳裏にスキルの文字列が浮かんだ。
『言語習得の定着率を分析──感情の強さと記憶の定着に相関あり──怒りが最も高く、次いで喜び、驚き、平常時の順──』
なるほどな。
ルガとの再会、別れ際の涙。
あの五日間で、ルナは相当な数の言葉を感情ごと叩き込んだらしい。
「ユウトさんラブ!」
広場から、やたら元気な声が飛んできた。
ルナが住民の輪の中で、こっちに向かって手を振っている。
耳がぴこぴこ。尻尾ぶんぶん。満面の笑み。
……は?
「ユウトさんラブ! ユウトさんラブ!」
二回言った。
二回言う必要はない。
住民たちがにやにやしている。
特にドスとレオンの笑顔が怪しい。
「お前ら、変な言葉を教えるな」
「い、いや賢者さま、あっしらは別に……」
「何も教えてないっすよ」
嘘をつけ。
その顔は完全に共犯者の顔だ。
「あらあら〜♡」
背後からマーレンの声が降ってきた。
振り返ると、食堂の窓から身を乗り出して、にやにやしている。
「ルナちゃん、新しい言葉覚えたのね〜。素敵じゃない」
「素敵じゃない。住民の悪ノリだ」
「ユウトさんラブ!」
三回目。
ルナは意味を分かっていない。
分かっていないからこそ、あの無邪気な笑顔で連呼できる。
……めんどくさ。
顔が熱い。
マーレンが笑いすぎて窓枠にしがみついている。
カイは横で「いい朝だな」とか呑気なことを言っている。
いい朝じゃない。
──とにかく、このままだと住民がルナに余計な言葉を教え放題になる。
変な方向に語彙が偏る前に、手を打たなきゃならない。
めんどくさいが、言葉が通じないままの方がもっとめんどくさい。
ルナの学習を、仕組みとして整えよう。
昼過ぎ。
自宅に戻って、絵図カードを机に広げた。
ルナが向かいに座っている。
銀の耳がぴこぴこ揺れて、こっちを見上げている。
目がきらきらしていた。
「よし。お前の言葉の覚え方を、効率よくする」
「こうりつ?」
「少ない手間で、たくさん覚えられるようにする、ってことだ」
スキルが動いた。
『言語学習の最適な手順を設計──1日に新しく覚える言葉は8つまで──復習の間隔を広げるのが定着の要──1日後、3日後、7日後、14日後に繰り返す──』
忘却は時間が経つほど緩やかになる。
だから、復習の間隔も徐々に広げた方がいい。
前世でもそんな話を聞いた気がする。
絵図カードを分類し直す。
暮らしの言葉、食べ物の名前、気持ちを伝える言葉、危険を知らせる言葉。
四つの束に分けて、優先順を決めた。
「今日はこの八枚だ。全部覚えなくていい。繰り返してるうちに勝手に頭に入る」
「はちまい……」
ルナの耳がぺたりと伏せた。
不満そうだ。
「もっと! もっとおぼえたい!」
耳がぴーんと立った。
瞳がまっすぐこっちを見ている。
「詰め込みすぎると効率が落ちる。上限は上限だ」
「やだ! もっと!」
「ダメだ」
「もっとー!」
尻尾がばたばた暴れている。
子供が駄菓子をねだるのと同じ勢いだった。
……サボりたいのに、教え子のやる気が高すぎて休めない。
これはこれでめんどくさい。
結局、八枚を二周した。
ルナの飲み込みは早い。
感情を乗せた言葉は一発で覚えるし、絵図と実物を結びつけるのも得意だ。
ひと通り終えたところで、ルナが言った。
「ユウトさん」
「ん?」
「もふっても、いい?」
……は。
「もふっても、いい?」
二回。
なぜ二回言った。
銀の耳がぴこぴこ揺れている。
尻尾がゆらゆら動いている。
首を少し傾げて、こっちを見上げている。
誰だ。
誰がこの言葉を教えた。
「だ、誰に教わった、その言葉」
「んー。みんな! 『ユウトさんにもふってもいいですか』って聞けって」
住民。
住民だ。
あいつら、次に会ったら全員農作業三倍にしてやる。
「……もふる、の意味は分かってるのか」
ルナが首を傾げた。
「さわる? ふわふわする?」
……合ってる。
合ってるのが余計にまずい。
銀色の耳が、無防備にぴこぴこ揺れている。
あの耳の柔らかさは知っている。
知っているから、余計に。
──けしからん。
「……八枚覚えたご褒美だ。少しだけだぞ」
言い訳が苦しい。
自分でも分かっている。
ルナの耳がぴこーんと跳ねた。
飛びつくように頭を差し出してくる。
銀の毛並みに指を通す。
柔らかくて、温かくて、ほんの少しだけ甘い匂いがする。
耳の付け根を撫でると、ルナが目を細めた。
「ん……ユウトさん、じょうず」
上手いとか下手とかの話じゃない。
尻尾がゆるゆると俺の腕に巻きついた。
……これは、もう、色々と限界だった。
「はい終わり」
「えー!」
「終わりだ。次は三日後の復習だ」
「みっかご……ながい」
頬を膨らませて不満を表明するルナの耳が、それでもぴこぴこ揺れているのを見て──まあ、悪くないか、と思ってしまった。
昼寝の時間を返せ。
──と思ったが、窓の外でリタとルナが音当て玉で遊ぶ音がかさかさ鳴っている。
中身が三種類しかないから、すぐ全部当てられて「もういっかい!」の無限繰り返しだ。あれが夕方まで続くと思うと、むしろ今のうちに手を打った方が楽だ。
『中身の素材を変えれば音色の幅が広がる。小石は高い音、乾燥した豆は柔らかい音、砂はさらさら──組み合わせで識別可能な種類は大幅に増やせる』
……めんどいが、しゃーない。
革の切れ端で包みを作り直し、中身を詰め替える。一つ、二つ、三つ──気づいたら、机の上に二十個並んでいた。色分けまでしてある。
「ししょー! いっぱい!」
リタが飛びつき、ルナが片っ端から嗅ぎ、ノルが一個ずつ丁寧に振っている。
二十個は明らかにやりすぎだ。
だが、子供が遊んでいる間は俺に絡んでこない。静かな昼寝のための先行投資──という理屈で自分を納得させた。
夕方、食堂に向かう途中で広場を通りかかった。
ルナが住民たちの間に混じっている。
もう遠巻きに見ているだけの「お客さん」ではなかった。
「ドスさん、すごい力! この、おもい?」
「おう! こんなの軽い軽い! ルナちゃんも持ってみるか?」
「もつ!」
ドスが木材を差し出す。
ルナが両手で受け取って、よろめく。
尻尾でバランスを取ろうとして、余計にふらつく。
周りから笑い声が上がった。
ルナも一緒に笑っている。
「レオンさん、あし、はやい! あたし、おいつけない!」
「はは、獣人のルナちゃんに言われると照れるなぁ」
今朝よりも言葉が滑らかになっていた。
使うたびに馴染んでいくのだろう。
マーレンが食堂の入り口から、その様子を眺めている。
俺と目が合って、小さく微笑んだ。
「いい子ね、あの子」
「ああ」
「みんなのこと、ちゃんと名前で呼ぶのよね。ドスさん、レオンさん、って」
確かに。
俺なんか未だに「お前ら」で済ませているのに。
「……俺より社交性がある」
「あんたが低すぎるだけよ」
否定できない。
日が傾いて、空がオレンジ色に染まり始めた。
ルナが広場の真ん中で立ち止まる。
夕焼けに照らされた銀の耳が、やわらかく光っている。
「ここ、あたしの、いばしょ」
小さな声だった。
でも、はっきり聞こえた。
ルナが振り返って、俺を見る。
耳がぴこぴこ。尻尾がゆらゆら。
「ユウトさんの、おかげ」
「……俺は楽がしたかっただけだ」
「うん。しってる」
知ってるのか。
知ってて、あの顔をするのか。
──まあ。
昼寝の時間は減ったが。
悪くない一日だった。
穏やかな夕食が終わって、食堂を出た。
星が出始めている。風が少し冷たくなった。
ルナが隣を歩いている。
尻尾がゆるやかに揺れて、鼻歌のように聞こえる。
その耳が──突然、ぴんと立った。
箸を洗っていたマーレンも、広場にいたカイも、まだ笑っている。
ルナだけが、動きを止めていた。
鼻がひくひくと動く。
「……ユウトさん」
声が、震えていた。
銀の耳が南を向いている。
尻尾が膨らんで、逆立っている。
「なにか、おおきいの、くる。すごく──おおきいの」
お読みいただきありがとうございました!
本人はやる気ゼロですが、周りの環境がどんどん激変していきます。
本日から一旦100話まで【毎日 朝7時・夕方17時】の2回更新で投稿していきます!
もし『この怠惰な主人公、面白いな』と思っていただけたら、下の【☆☆☆☆☆】やブックマークで応援いただけると、執筆の励み(と睡眠時間の確保)になります!




