第75話「壁の厚さの問題」
「一つだけ確認させろ」
ルガの金色の瞳が、俺を正面から射抜く。
「この人間は──ルナに、手を出していないだろうな」
朝の光が集落の広場に差し込んでいる。
昨夜の宴の残り火がまだ煙を上げていた。
ルガの声は低く、落ち着いている。
だが「落ち着いている」からこそ怖い。
焚き火を囲んで酒を飲んだ昨夜とは、別人のような顔だ。
「出してない」
即答した。
即答するしかない。
「ならば、なぜ同じ建物に住んでいる」
……来た。
一番めんどくさい質問が来た。
「隣の部屋だ。壁もある」
マーレンが横から口を挟む。
「そうそう。ちゃんと壁で仕切ってあるのよ。あたしも最初に確認したから」
ルガの金色の耳がぴくりと動いた。
「壁の厚さは」
沈黙。
……なんで厚さを聞くんだよ。
脳裏にスキルの文字列が浮かぶ。
『対象者の体温上昇率と瞳孔拡大から怒りの度合いを推定──現在七割二分──上昇中──』
黙れ。
今それを知ってどうする。余計に焦るだろうが。
「……五寸ほどだ」
正直に答えた。
嘘をついてもルナの耳が反応するだろうし、そもそもルガの嗅覚なら建物を嗅いだだけで分かりそうだ。
「五寸」
ルガが繰り返した。
声の温度が、さらに下がる。
『怒りの度合い──七割八分──引き続き上昇中──』
だから黙れ。
「人間」
ルガが一歩近づいた。
朝日を背にした大きな影が、俺の足元に落ちる。
金色の毛並みが風に揺れて、獣の匂いがした。
「五寸の壁で、妹の隣に寝ていると」
「……壁はある。鍵もある」
「声は?」
「……は?」
「声は通るのか。五寸で」
通る。
めちゃくちゃ通る。
ルナが夜中に寝言で「くぅん……」と鳴くのが聞こえるし、寝返りを打つたびに尻尾がぱたんと床を叩く音まで聞こえる。
答えに詰まった俺を見て、ルガの目が細くなった。
『八割五分──危険域が近い──退避を推奨──』
退避って、どこにだよ。
「にい!」
その声で、場の空気が変わった。
ルナが駆けてきた。
銀の耳をぴんと立てて、ルガと俺の間に割り込む。
小さな体で兄の前に立ちはだかる。
尻尾が逆立っている。怒っている──兄に対して。
「ユウト、やさしい! なにもしない!」
……うん。
ありがとう、ルナ。
擁護してくれてるのは分かる。
分かるんだが。
「なにもしない」が褒め言葉として成立するこの状況に、俺は微妙に傷ついていた。
いや、実際なにもしてないから正しいんだけど。
正しいんだけどさ。
ルガがルナを見下ろした。
金色の瞳が、ほんの一瞬だけ揺れる。
ルナは構わず続けた。
片言の人族語が、感情に押し出されるように溢れてくる。
「ユウト、ごはん、くれた! ことば、おしえた! こわくない! ここ、すき!」
耳がぴこぴこ動いている。
尻尾がぶんぶん揺れている。
必死だった。
「にい、すき! ここ、すき! りょうほう!」
昨夜、絵図カードで伝えた言葉。
今度は自分の声で、兄に向かって叫んでいる。
ルガの喉が、小さく鳴った。
それから、長い沈黙が落ちた。
朝の風が広場を通り抜けた。
焚き火の残り香が、かすかに鼻をくすぐる。
住民たちが固唾を呑んで見守っている。
戦士たちも動かない。
昨夜の宴で警戒を解いたはずの彼らが、長の判断を静かに待っていた。
ルガが、ルナの頭にそっと手を伸ばしかけて──止めた。
拳を握って、腕を下ろす。
……こいつ、不器用だな。
妹が泣きそうな顔で訴えてるのに、どうしていいか分からないらしい。
なんだ、俺と同じじゃないか。
ルガが目を閉じた。
長く息を吐く。
開いたとき──金色の瞳から、殺気は消えていた。
「……条件を出す」
俺はまっすぐ立って、聞いた。
「一つ。これはあくまで一時的な滞在だ。永住の許可ではない」
「分かった」
「二つ。ルナは定期的に部族に顔を見せろ。月に一度は戻ること。部族の者として、繋がりを断つな」
ルナの耳がぴこりと動いた。
嬉しいのか不安なのか、判断がつかない。
「了解した。ルナが帰る段取りは俺が整える」
「三つ」
ルガの声が、再び低くなった。
金色の瞳が、俺だけを見ている。
「妹に手を出したら──首を刈る」
周りで見ていた住民たちが「ひっ」と息を呑んだ。
カイが大剣の柄に手をかけかけて、俺の顔を見て、やめた。
「了解」
即答。
迷う理由がない。
……めんどくさいが、首は惜しい。
首がなくなったら寝られなくなる。それは困る。
ルガがわずかに目を見開いた。
たぶん、こんなにあっさり了承するとは思っていなかったのだろう。
「……変わった人間だ」
「よく言われる」
マーレンが腕を組んで、にやにやしている。
「あらあら。首を刈られる前に壁を厚くしなさいよ、ユウト」
「……言われなくても」
脳裏でスキルが動く。
『隣室の壁厚を再設計──防音を最優先の基準に変更──推奨厚さ二十寸──素材に粘土と藁の二重構造を提案──』
四倍か。
めんどくさいな。
だが首よりはましだ。
ルナが俺の袖を引いた。
見上げてくる銀色の瞳は、きらきらと光っている。
「ユウト。にい、ゆるした?」
「ああ。お前、ここにいていいってさ」
ルナの耳が、ぴこんと跳ねた。
それから目一杯の笑顔になって──俺の腕に抱きついた。
銀色の尻尾が、嵐のように暴れている。
柔らかい毛並みが腕に触れる感触に、不覚にもどきりとした。
『対象者──ルガの怒りの度合いが再び上昇──』
離れろルナ。今すぐ離れろ。
ルガがルナの頭に、ぽんと手を置いた。
大きな手。金色の毛に覆われた、武骨な手。
ルナの銀の耳が、その手の下でぺたんと伏せる。
獣人語で、短く何かを言った。
ルナの目が潤んで──それから、兄の胸に飛び込んだ。
尻尾がぶんぶん揺れている。
ちぎれそうなほど、揺れている。
……まあ。
めんどくさかったけど。
悪くない結末だ。
昼前に、ルガたちは南へ向けて出発した。
戦士たちがルナの頭を順番に撫でていく。ルナは一人ひとりに「またね!」と手を振った。
覚えたての人族語を、得意げに使っている。
ルガが最後に振り返った。
俺だけに聞こえる声で、低く言う。
「……壁は、厚くしろ」
マーレンが横でにやにやしている。
ルナの耳がぴこぴこ揺れている。
カイが「いい兄貴だな、あれ」と呑気に笑っている。
──帰った後、まずやることは決まった。
壁だ。壁を、死ぬほど厚くする。
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