第61話「もふもふとの朝」
朝日がまぶたを刺す。
柔らかい。何かが腕に巻きついている。温かくて、ふわふわしていて──尻尾だ。
銀色の耳が、俺の鼻先で、ぴくぴくと動いていた。
──は?
思考が三秒ほど停止した。
昨日の記憶が、じわじわと戻ってくる。朝食を食べて、泣いて、木陰で丸くなって寝ていた、あの耳の子。
その子が、なぜか俺の腕の中にいる。
いつの間に。どうやって。なんで俺の寝床に。
銀色の髪がさらりと広がって、朝日を受けて淡く光っている。小さな寝息が聞こえる。規則正しくて、穏やかで、安心しきった呼吸だ。
尻尾は俺の左腕にしっかり巻きついていた。ほどこうとすると、きゅっと力が入る。寝ながら掴んでいるのか。この尻尾、意思があるのか。
──もふもふだ。
いかん。理性を保て。俺は大人だ。もふもふに負ける男ではない。
……いや、もふもふだな。これは。間違いなく。
寝ている少女の鼻がひくっと動いた。それから小さな手が、俺の袖をきゅっと掴む。寝ぼけているのか。俺の匂いでも追っているのか。
……めんどくさ。朝からこの状況はめんどくさい。心臓に悪いし、動けないし、腕は痺れてきたし。
ふと、頭の奥で【効率化】が起動した。
勝手にだ。俺が頼んだわけじゃない。
少女の寝息を拾ったのか、淡い光の文字が視界の端に浮かぶ。
『心の拍動──安定。栄養の巡り──やや不足。体の温もり──正常の範囲。総じて──疲労の蓄積あり、十分な休息と食事が必要』
……勝手に分析するな。
いや、助かるけど。
栄養がやや不足。そりゃそうだ。昨日の朝食まで、この子がまともに食べていたかも分からない。保存食を毎晩食べに来ていたとはいえ、それだけで足りるわけがない。
「かわいい」だけで済ませていい相手じゃない。ちゃんと食べさせないとまずい。
──面倒だ。面倒だが、放っておいたら後でもっと面倒になる。
「あらあら〜♡」
声と同時に、寝床の入口の布がめくれた。
マーレンが、朝食の盆を両手に持って立っている。湯気の立つ煮込みと、焼きたてのパンの匂い。香ばしくて、ほんのり甘い。朝の空気に溶け込むその香りが、鼻をくすぐった。
そして、マーレンの視線が、俺の腕に巻きつく尻尾に向けられた。
「……あんた、朝からお楽しみ?」
「違う! 起きたらこうなってたんだ!」
「言い訳が下手ねぇ、ユウト」
「うるさい!」
マーレンがけらけら笑いながら、盆をテーブルに置く。
「まあいいわ。朝ごはん、この子の分も持ってきたから。パン多めにしといたわよ」
……寝る前から二人分の準備をしていたのか。こうなると読んでいたとしか思えない。この世話焼き姉御は。
そのとき、外からざわざわと声が聞こえた。
窓の外を見ると、住民たちが遠巻きにこちらを覗いている。朝っぱらから何をしている、お前たちは。
「賢者さまが、異種族の子と一緒に寝て……」
「ついに嫁を迎えたのか……」
「異種族との架け橋……さすが怠惰の賢者さま……」
「嫁じゃない! 言葉も通じてない!」
叫んだ俺の声で──腕の中の少女が、びくっと跳ねた。
しまった。
琥珀色の瞳がゆっくり開く。ぱちぱちと瞬きして、ぼんやりとあたりを見回す。
目がまだ半分閉じている。焦点が合っていない。
キョロキョロと首を巡らせて──俺と目が合った。
尻尾が、ぶんぶん、と振れた。俺の腕に巻きついたまま振るものだから、腕ごと持っていかれそうになる。
「クゥン!」
朝起きて、隣に誰かがいて、それがよっぽど嬉しかったのか。尻尾の振りが止まらない。小さな手が俺の袖を引っ張って、琥珀色の瞳がきらきら光っている。
……朝から破壊力が高い。まだ脳が起きてないんだが。
「ほらほら、ルナちゃん、おはよ〜」
マーレンが手を振ると、少女はそちらを見た。
それから──少女は自分の胸を、ぽん、と小さな手で指差した。
「ルナ」
短い一音。でも、はっきりと聞こえた。
「……ルナ?」
俺が繰り返すと、少女の声が一段高くなった。
「ルナ!」
自分の胸をもう一度指差して、口の端がぐいっと上がる。
名前だ。この子の名前は、ルナ。
「ルナちゃんね〜。かわいい名前!」
マーレンがにこにこしながら手を叩いた。
「ルナちゃん、もう一回言ってみて? ル・ナ」
「ルナ!」
自分の名前を呼ばれるのが嬉しいらしい。
「ルナ……か」
口にすると、妙にしっくりくる。それ以上は考えないことにした。
「クゥン♪」
ルナが俺の手をぎゅっと掴んだ。小さくて温かい手だ。離す気配がない。尻尾も相変わらず腕に巻きついたままだ。
……こいつ、懐きすぎじゃないか。
「あんた、顔真っ赤よ?」
「暑いだけだ」
「朝は涼しいわよ?」
マーレンが盆の煮込みをルナの前に差し出した。ルナが匂いをくんくんと嗅いで、両手で器を持って、はふはふと食べ始めた。
食べている間も、尻尾だけは俺の腕に巻きついたままだった。
……しゃーない。腕一本くらい貸しておくか。
***
朝食を終えて、俺はルナを連れて広場に出た。
……正直、まだ寝ていたかった。朝からもふもふに腕を拘束されて、心臓を削られて、体力の消耗がひどい。
そこで、問題が起きた。
住民たちが物珍しそうにルナを取り囲んだ。
「賢者さまの嫁だ」
「違うわ、妹でしょ」
「怠惰の賢者さまの新たなる弟子に違いない」
好き勝手言っている。俺の意見は誰も聞かない。いつものことだが。
ルナは最初、目を輝かせて好奇心を見せていた。だが、住民たちが話しかけるたび、表情が曇っていく。
何か伝えたそうに口を開く。
「ア……クゥ……」
言葉にならない。通じない。
住民たちが首を傾げる。
ルナの耳が、ぺたんと伏せた。尻尾が、力なく垂れる。
──伝えたいのに、伝わらない。
その顔を見ていたら、放っておけなくなった。
「……言葉だな。まずは、言葉だ」
ルナの伏せた耳を見ながら、俺は腕を組んだ。めんどくさい。本当にめんどくさい。でも、あの耳が伏せたままなのは、もっとめんどくさい。
未来の面倒を潰すために、今動く。
【効率化】なら、何かできるかもしれない。
お読みいただきありがとうございました!
本人はやる気ゼロですが、周りの環境がどんどん激変していきます。
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