第60話「耳ぴこぴこと、朝ごはん」
朝、柵の外に料理を置きに行こうとして──足が止まった。
集落の入口に、銀色の耳の少女が立っていた。
昨夜あの草むらに消えていったはずの、あの子だ。逃げていない。こっちを見ている。
朝日が草原を金色に染め始めたばかりの時間帯だった。柵の隙間から差し込む光が、銀色の髪と三角の耳を鮮やかに照らしている。
あの子は俺を見つけた瞬間、両手を胸の前で合わせた。ぎこちない動きで、ぺこり、と頭を下げる。
声が出ていなかった。全身が震えている。でも足は地面にしっかりとついていて──逃げる気配がなかった。
何を言いたいのか、言葉は分からない。
でもあのお辞儀の意味は、どう見ても一つだ。
──ここにいたい。
そう、全身で言っている。
面倒だ。なのに、足が動いた。あの子に近づく方向に。
「……待ってろ。飯、持ってくる」
通じるわけがない。でも声を出すと、あの子の呼吸が少し変わった。
俺が背を向けても逃げない。それだけで、昨夜とは何かが変わったと分かった。
食堂に向かう途中で、マーレンとばったり出くわした。朝一番で仕込みをしていたらしく、エプロンに粉がついている。
「あんた、朝早いじゃない。珍し──」
「マーレン。来てくれ」
「は?」
「柵の入口に、あの耳の子がいる。逃げてない」
マーレンの目が見開かれた。粉だらけの手をエプロンで叩き落として、俺より先に歩き出す。相変わらず行動が早い。
入口に着くと、あの子はまだそこにいた。マーレンの姿を見て、体がわずかに後ずさりかける。でも、踏み止まった。
マーレンがしゃがみ込む。あの子と目線を合わせて、ゆっくりと手を差し出す。掌を上に向けて。
「……お腹、空いてるでしょ。おいで」
いつもの豪快さとは違う、静かな声だった。
あの子は差し出された手をじっと見ていた。琥珀色の瞳が揺れている。足先がかすかに動いて、踏み出しかけて、また止まって──迷っている。
五秒。十秒。
小さな手が、おずおずとマーレンの掌に重なった。
「よし。朝ごはん食べましょ」
マーレンが笑った。豪快でも姉御肌でもない、ただ温かい笑顔だった。
あの子の尻尾が、ぱたぱたと小さく揺れ始めた。
食堂に連れてきた瞬間、ハンスが真っ先に反応した。
「おっ! あの銀色の! 来たのか! マーレンさんの朝粥がまたうっめぇんだ、食え食え!」
通じていない。全く通じていないが、ハンスの底抜けに明るい声にはあの子も鼻をひくひくさせていた。悪意のない声は言語を超えるらしい。
騒ぎを聞きつけて、リタが駆けてきた。
「おねえちゃん! みみがある! ししょー、みみ!」
「見りゃ分かる」
リタは迷いなくあの子に駆け寄り、手を握った。あの子がびくっとしたが、リタの無邪気な笑顔を見て──少しだけ、肩の力が抜けた。
リタの後ろから、ノルがおそるおそる覗いている。
「……みみ、もふもふ?」
小さな声。怖がっているかと思いきや、ノルの目は好奇心でいっぱいだった。動物好きの血が騒いでいるらしい。
マーレンがあの子を長椅子に座らせた。
朝の粥が運ばれてくる。干し肉と根菜を煮崩した粥に、マナ香草をひとつまみ散らしたやつだ。湯気がゆるゆると立ち上って、ほのかに甘い香りが食堂に広がった。こんがり焼けたパンも添えてある。ちぎると中からふわりと湯気が溢れる、マーレン自慢の一品だ。
あの子の前に、木の椀が置かれた。
「クゥ……?」
小さな声。鼻をひくひくさせて、粥の匂いを嗅いでいる。
マーレンが自分の匙で粥をすくって食べてみせた。あの子が真似をする。ぎこちなく匙を口に運んで──。
瞳が丸くなった。匙を握る指が、ぎゅっと力を込める。
「アゥッ……!」
甲高い声。琥珀色の瞳から涙がこぼれた。
涙がぽろぽろと落ちて、それでも匙を止めない。一口、もう一口。体ごと揺れそうなほど夢中で食べている。
食堂が静まっていた。住民たちが言葉をなくして、あの子を見つめている。
「……かわいい」
誰かが呟いた。全員が頷いた。
マーレンが頬杖をついて、満足そうに笑った。
「新しい妹ができたわね。言葉通じないけど」
「妹って、お前が勝手に決めるな」
「あら、あんたの嫁にする? 顔真っ赤よ?」
「赤くねぇ! 暑いだけだ!」
「朝の食堂、そんなに暑いかしら」
マーレンがにやにやしている。この世話焼きをどうにかしたい。……寝に帰りたい。
あの子が三杯目の粥を食べ終えた頃には、住民たちが遠巻きにぞろぞろと集まっていた。
「賢者さまが異種族の子を受け入れたぞ……」
「言葉も通じない相手を食卓に招くなんて……さすが怠惰の賢者さま……」
……俺じゃない。マーレンが勝手に連れてきたんだ。だが住民たちの目はもう完全に「崇拝」のそれになっている。
──もう寝たい。朝からこの濃さは体力が持たない。
エルマが一歩前に出た。腕組みをして、食堂と集落の方を見渡している。
「この子の寝る場所を確保しないと。動線を考えると、北の空き小屋がいいかと。食堂にも水場にも近いですし」
さすが実務が早い。
カルルが黙って席を立った。何も言わず食堂を出ていく。
「……カルル、どこ行くんだ」
「あの空き小屋、屋根の端が傷んでいたので。直してきます」
それだけ言って、もう歩いている。寡黙だが、こういう時の動きは誰よりも速い。
食堂の騒ぎがひと段落した頃、あの子は外に出て、木陰を見つけて丸くなっていた。
膝を抱え、銀色の尻尾が体に巻きつくように添えられている。呼吸が静かに落ち着いて、小さな獣が眠るように体を丸めていた。
名前も、言葉も、何も分からない。
でも──この子がここにいたいことだけは、確かに伝わった。
「……言葉、だな」
俺は腕を組んで、木陰で眠るあの子を見つめながら呟いた。寝ていても、鼻が微かに動いている。
「まず言葉をどうにかしないと、何も始まらない。名前も聞けない。事情も分からない。非効率にもほどがある」
効率化のスキルでどうにかなるのか。それすら分からない。でも──放っておけば、もっと面倒なことになる。
言葉をどうにかしないと。効率が悪い。
風が木の葉を揺らして、木漏れ日があの子の銀色の髪の上で踊った。
柄にもなく、考え込んでいた。




