第59話「寝ようとしたら、月明かりの中に耳が見えた」
夜風に乗って、マーレンの煮込み料理の匂いが集落の外まで流れていた。
柵の外に置いた保存食は、毎朝きれいになくなっている。
代わりに、南の木の実や薬草が、少しずつ増えていた。
もう何日目だろう。あの銀色の耳の子が、夜ごと集落の近くに来ているらしい。
こっちが料理を置く。向こうが贈り物を残していく。顔を合わせない物々交換だ。面倒がなくて助かる──と思っていた。思っていたのだが。
今日の夕飯の時、リタが「あたしも柵の外に料理置きに行きたい!」と騒ぎ、マーレンに「夜更かしは成長の敵よ」と一蹴されたらしい。ノルも窓から南の草むらを眺めていたそうだ。
子供たちが銀色の来訪者に興味を持ち始めている。面倒事の芽だ。
だが今は、それより先にやることがある。
俺は木の器にマーレンの煮込みをよそい、柵の外へ向かった。別にあの子のためじゃない。余っただけだ。毎晩余るのは、マーレンが多めに作るからであって、俺の指示ではない。断じて。
……こういう言い訳を並べている時点で、相当怪しいことは自覚している。
柵の隙間から器を出し、いつもの場所に置く。煮込みからゆらりと湯気が立ち、夜風に溶けていった。根菜と干し肉を炊き込んだ素朴な匂いが、暗い草原へ広がっていく。
さて。置いたら帰って寝るだけだ。古代遺構の調査は明日に回したし、揉め事の仕掛けも順調に回っている。俺がやるべきことは何もない。
何もないはずなのに、足が動かなかった。
夜空には、ほぼ満月の月が浮かんでいた。銀色の光が草原を照らし、遠くの丘の稜線を浮かび上がらせている。虫の声が規則正しく響き、風が草を揺らす音に混じっていた。
静かだ。
──ぴこ。
草むらの奥で、何かが動いた。
十歩ほど先。草の間から、銀色の三角形が二つ、ぴょこりと覗いている。月明かりを受けて、淡く光っていた。
耳だ。
片方がぴこぴこと揺れ、もう片方はぺたりと伏せている。嬉しいのか怖いのか──あの耳を見ているだけで、感情が全部わかる。
言葉より正直だ。前の会社じゃ、言葉を山ほど並べてもちっとも伝わらないことばかりだったのに。
いつもなら、俺が柵の外に出た時点であの子は逃げる。気配を感じただけで草むらに消えていくのが、ここ数日のかたちだった。
なのに──今夜は、そこにいた。
俺は動かなかった。下手に距離を詰めれば逃げる。前にぶつかった時のことを考えれば、近づくのは悪手だ。
木の器を少し前に押し出して、一歩だけ後ろに下がった。
耳が、ぴくんと反応した。草がさらさらと鳴って、影が動く。
──出てきた。
月明かりの中に、あの子が立っていた。
銀色の髪が夜風に揺れている。琥珀色の瞳が、まっすぐに俺を見ていた。
小柄だった。俺の肩くらいまでしかない。南方の獣人族らしい薄手の衣を纏い、華奢な肩のやわらかな輪郭が月光にぼんやりと浮かんでいる。腰の後ろでは、ふさふさの尻尾がゆらゆらと揺れていた。
……けしからん。何がけしからんのかは、あえて言語化しない。
あの子は片手でお腹を押さえていた。耳がぺたんと倒れ、琥珀色の瞳がうるうると潤む。
「……食っていいぞ」
意味は通じない。でも、声の調子くらいは伝わるだろう。
あの子はおずおずと近づいてきた。裸足が草を踏む音が、やけに小さい。
木の器の前にしゃがみ込み、蓋を開ける。湯気がふわりと立ち上がって、煮込みの匂いが広がった。
「クゥ……ン」
小さな声。そして──耳が、ぴこーんと立った。
尻尾が、ぶんぶんと揺れ始めた。
両手で器を持ち上げて、煮込みを一口すすった瞬間。
「アゥッ!」
甲高い声。耳がぴこぴこと忙しなく動き、目元に涙が滲んでいた。
泣いている。温かい飯を食べて、泣いている。
どれくらいまともに食ってなかったんだ、この子。
尻尾はぶんぶんどころか、体ごと左右に揺れている。小さな体で器を抱えるようにして、夢中で煮込みを食べていく。頬がほんのり赤く染まり、涙の筋が月光を反射してきらりと光った。
マーレンの煮込みは、根菜と干し肉をマナ香草でじっくり味付けした逸品だ。カイは毎晩おかわりしているし、ハンスに至っては三杯目を狙って怒られている。
あの子の口に合うかは賭けだったが──この尻尾の暴走を見る限り、完勝だ。
二分もかからず、器が空になった。
あの子は木の器を丁寧に草の上に置いて、俺の方を見た。琥珀色の瞳がまっすぐにこちらを見つめている。耳がぺたんと倒れかけて、でもまたぴこんと立って──迷っているみたいだ。
「クゥン……」
甘くて、少し掠れた声が、夜の空気に溶けていった。
何を言っているかは分からない。でも──ありがとう、と聞こえた。
あの子は両手を胸の前で合わせ、小さくぺこりと頭を下げた。ぎこちない仕草だった。人族の礼儀を真似ているのか、それとも獣人にも似た作法があるのか。その拍子に銀色の髪がさらりと揺れて、月の光を弾いた。
「……どういたしまして。作ったのはマーレンだけどな」
通じないのに返事をしている自分が間抜けだ。でも、黙っているのも違う気がした。
あの子が立ち上がる。尻尾がゆらりと揺れ、夜風に銀色の髪が流れた。
一瞬だけ──ほんの一瞬だけ、目が合った。琥珀色の瞳の奥に、何か言いたげな光が揺れている。口が開きかけて、でも声にはならなかった。
──やわらかそうだな、と思った。
何が。
耳だ。耳のことだ。あの時触れた感触がまだ指先に残っている。ふわふわで、温かくて、根元のあたりが特に──。
脳の奥で、【効率化】がちかちかと反応した。
『接触時の記録を参照──耳の柔軟度と毛並みの密度を分析し──』
「黙れ」
全力で却下した。分析するな。記録を呼び出すな。お前は寝ろ。俺も寝る。
……言葉が通じないのに、こんなに伝わるのは反則だろ。
腹が減れば耳が伏せる。飯がうまければ尻尾が暴れる。ありがとうは、両手を合わせてぺこり。言葉なんかよりずっと正直で、嘘がつけない。
面倒だな。面倒なはずなのに、明日も多分ここに来る。マーレンの煮込みを持って。
あの子が草むらの向こうに消えていく直前、一度だけ振り返った。
月明かりの中で、銀色の耳がぴこぴこと揺れていた。
言葉は分からない。名前すら知らない。
でも──明日も、あの子はここに来る気がした。




