第40話「誰かあのもふもふを捕まえてくれ」
「きゃああああ! 銀色のなんか出たああ!」
女の開拓民の悲鳴で叩き起こされた俺は、窓から外を覗いて、心の底から後悔した。
昨夜——トロールの群れを追い払った後、柵の中で何か小さなものが動いている気配があった。疲れた目が捉えた銀色の残像を「夢だ」と片付けて寝たのだが、あれは夢じゃなかった。
柵の隙間から忍び込んだ銀色の影を放置して寝た、あの判断。俺の怠惰人生において五本の指に入る失策だった。
集落の中央広場を、銀色のふわふわした毛玉が、凄まじい速さで駆け回っている。
小動物──というには少し大きい。丸くて、もこもこで、やたらと銀色に輝いている。昨夜の暗がりでは正体がわからなかったが、朝日の下で見ると、想像以上にふわふわしていた。
朝露に濡れた銀色の毛並みが、陽の光を弾いてきらきらと輝く。
「捕まえろ!」
広場の向こうから、カイの怒声が轟いた。大剣を腰に佩いたまま全力で走っているが、毛玉の動きが尋常ではない。
水路の上を、水面を蹴るようにして渡った。
建築中の二棟目の屋根を猫のように駆け上がり、反対側に飛び降りた。
カイが息を切らして追いすがるが、毛玉は広場の隅に積んである丸太の山をぴょんぴょんと跳ね渡り、鮮やかに方向を変える。今度は農地のほうへ一直線だ。
「待てこの──うおっ!?」
畑の畝を飛び越えようとしたカイの右足が、朝露で湿った泥に深々とめり込んだ。体勢を崩し、派手に前のめりに転倒。顔面から泥の中に突っ込んで、盛大な飛沫が上がる。
「……ぶはっ! くそっ、待てえ!」
泥だらけの顔で立ち上がるカイ。だが毛玉はとっくに農地を横切って、今度はマーレンの食事処のほうへ走っていく。
俺はハンモックに寝そべったまま、一部始終を眺めていた。引退した身だ。走る理由がない。
「ユウト、お前も手伝え!」
「断る。俺は引退した」
「引退二日目でこの騒ぎだぞ!」
「だからこそ、俺の仕事じゃない」
完璧な正論だ。手引書に『正体不明の毛玉が広場を疾走した場合の対処法』なんて項目は書いていない。そもそもそんな項目が必要になる集落がおかしい。
毛玉がマーレンの食事処に飛び込んだ。
「あら」
マーレンが妙に落ち着いた声を上げた直後、食事処の奥から激しい物音が響く。鍋がひっくり返る音。皿が割れる音。そして焼き魚の匂い。
「あ、こら! あたしの朝飯の焼き魚!」
マーレンの怒声と同時に、毛玉が食事処から弾丸のように飛び出してきた。口に、こんがり焼けた魚をしっかりくわえている。
食い逃げだ。このふわふわ、食い逃げしやがった。
「神の遣いだ……!」
広場の端にいた開拓民の一人が、突然、両膝をついて手を合わせた。
「あの銀色の輝き! あの人の手の届かぬ俊敏さ! まさに天から遣わされた聖なる使い!」
「いや、あいつ今マーレンの魚を盗んだぞ」
「聖なる使いが地の食をお召し上がりになった……! これは我らの食が天に認められた証!」
頭が痛い。
さらに別の開拓民が、どこから取り出したのか──木彫りの丸い人形を掲げて拝み始めた。銀色っぽく塗られた、ふわふわした形の像。昨夜の間に彫ったとしか思えない。仕事が早すぎるだろ、お前ら。
「やめろ。拝むな。頼むからなんでもかんでも崇めるのをやめてくれ」
俺の懇願は、誰の耳にも届かない。
カイが泥だらけのまま広場に戻ってきて、大の字に倒れ込んだ。
「……無理だ。速すぎる」
「知ってる。ずっと見てた」
「見てたなら手伝え」
「嫌だ」
俺はハンモックに深く体を沈めながら、頭の中に意識を向けた。この騒ぎで、俺の仕組みがどれだけ狂っているか。気になる。それだけだ。断じてそれだけだ。
【効率化】が、頼む前から勝手に稼働状況を読み取り始めた。
『水汲み班が持ち場を離れて見物中、農作業班は畑に何か走り込んだとの報告で被害確認に移行、建築補修班は班長のカルルが捕獲用の罠を設計し始めたため補修は中断──全工程の停止原因は同一、正体不明の毛玉一匹』
「…………」
俺の完璧な仕組みが、たった一匹のふわふわに蹂躙されている。
手引書通りに回っていた集落が、朝日が昇ってわずか半刻で機能停止した。毛玉一匹だぞ。想定外にもほどがある。
毛玉は魚を食べ終わったらしく、水路沿いを悠然と歩いている。銀色の毛が風になびいて、きらきら光る。
ふわふわだな。
……いや、関係ない。
やがて、毛玉はふいに足を止めた。丸い頭の上にある三角の突起──耳のようなもの──がぴくりと動く。西の森の方角を見ている。
それきり、毛玉は一目散に走り出した。柵の下の排水用の小さな隙間をするりと抜けて、あっという間に西の森の中へ消えていった。
広場に、沈黙が降りる。
「……行っちまったな」
カイが泥だらけの顔で、ぽつりと呟いた。
「ああ」
「なんだったんだ、あれ」
「さあな。ただのふわふわだろ」
俺はハンモックから立ち上がり、マーレンの食事処へ歩いた。
中は毛玉の暴走で少し散らかっている。ひっくり返った鍋、割れた皿。マーレンが腕まくりして片付けを始めていた。
「災難だったな」
「まあね。焼き魚三匹分、食い逃げされたわ」
マーレンが苦笑しながら、床の食器を拾い集める。
「にしてもさ。毎日同じ飯は飽きたな。魚焼いて、芋煮て、干し肉炙って。たまには違うもん食いたいよ」
それは──まあ、わからなくもない。マーレンの料理はうまい。だが食材の種類には限りがある。先日の旅人が持ってきた香辛料で変化はあったが、量は限られている。
「……考えておく」
「あら、引退したんじゃなかったの」
「飯の問題は別だ。飯がまずくなるのは俺の暮らしに直結する」
マーレンが呆れたように笑った。
食事処を出ようとした時、足元に何かが落ちているのに気づいた。
銀色の毛。
数本の、細くて柔らかそうな毛の束。毛玉が飛び出した時にこぼしていったのだろう。
俺はしゃがみ込んで、それをそっと拾い上げた。
──驚くほど、柔らかい。
指先で触れると、雲を摘んだような、この世のものとは思えない手触りだった。朝日を受けて、淡い銀色の光を帯びている。
顔を上げて、集落を見渡す。
水路が穏やかに流れている。畑の若い苗が風に揺れている。木造の家屋が朝日に照らされて、温かい色をしている。カイが泥だらけのまま開拓民に指示を出して、止まっていた作業を再開させている。
俺がいなくても、回っている。俺が作った仕組みが、俺を必要としないまま、ちゃんと動いている。
完璧だ。
完璧な、はずだ。
手のひらの上の銀色の毛が、風にふわりと浮き上がりかけた。俺は反射的に、指を閉じて握り込んだ。
なぜ捨てないのかは、自分でもわからない。たぶん疲れているのだろう。昨夜のトロール騒ぎの緊張が抜けていないだけだ。
それ以上の理由は、ない。
銀色の毛を握ったまま、俺はハンモックに戻った。
仕組みは完璧だ。村は回っている。俺は引退した。何の問題もない。
──なのに、手の中のふわふわを手放せないのは、きっと、ただの気まぐれだ。
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