第39話「破滅の足音と、月夜の銀色」
振動が止まらない。
足の裏から這い上がってくる、ずん、ずん、ずん、という地面そのものの脈動。窓枠がカタカタと乾いた音を立て、壁に掛けた干し肉の束がゆらゆらと振り子のように揺れている。
昨日見た南の草原の獣道。あの、バカみたいに広い踏み跡を作った連中が——来やがった。
「ユウト! 南だ、南から来てる!」
家の外でカイの怒声が響いた。松明の炎が窓の外を走り抜ける。
続けてテオの甲高い「全員起きろ!」と、ドスの腹の底から絞り出すような号令が重なって、深夜の静寂を木っ端微塵に叩き割った。
俺は裸足のまま外に飛び出した。
冷たい夜気が肌を殴る。広場にはすでに松明を手にした住民たちが青ざめた顔で集まり始めていた。全員の視線が南——柵の向こうの暗闇に釘づけになっている。
「武器を取れ! 男は全員——」
「待て」
俺はカイの肩を掴んだ。
「戦うな。全員、家に入れ」
「は? 何言ってんだ、この状況で!」
カイが振り向いた。目が据わっている。腰の斧に手が伸びかけている。こいつが本気で覚悟を決めたときの顔だ。
気持ちはわかる。仲間を守りたい。自分の手で。だが——
「カイ、お前ら全員で束になっても、あの群れには勝てない」
俺は南の闇を指した。地響きはさらに強まっている。足裏で、土が小刻みに跳ねるのがわかった。一匹や二匹じゃない。
俺は意識を集中して、【効率化】を起動した。
頭の奥に、冷たい声が滑り込んでくる。
『南方より接近中の群体——推定十以上。個体の重量は家畜の牛を大きく超える。ただし移動方向は南南東から北北西への直進経路であり、この集落を目的としていない。通過する』
——通過。
こいつら、ここを狙ってるんじゃない。ただの通り道だ。
続けて、もう一つ。柵のことを訊く。
『防衛柵の構造を照合——三角組みの荷重分散。使用木材はマナの含有率が高い原生林材で、通常の木材の約一・五倍の耐久を持つ。群体が接触した場合でも柵の倒壊する見込みは極めて低い。部分的な損傷は生じうる』
俺はカイの目を見た。
「大丈夫だ。あの柵は耐える。俺が設計した仕組みだぞ。信じろ」
カイの拳が震えていた。
こいつは戦いたいんじゃない。仲間を、自分の手で守りたいのだ。だから家に引っ込んでただ待つなんて性に合わない。
「カイ。お前がやるべきことは、戦うことじゃない。全員を家に入れて、柵から離れさせることだ。それが今、お前にしかできない仕事だろ」
数秒の沈黙。
カイが歯を食いしばって、短く頷いた。
「……わかった。全員、家に入れ! 柵から離れろ! 走れ!」
カイの声が夜の集落を貫いた。住民たちが蜘蛛の子を散らすように家屋へ駆け込んでいく。俺もカイに押されるようにして家に戻り、窓から南を見つめた。
——来る。
最初に聞こえたのは、獣の咆哮だった。低く、腹の底を震わせる唸り声が何重にも重なって闇から押し寄せてくる。
次に、衝撃。
ドン、と。
家全体が横揺れした。窓枠から細かい砂埃が散る。壁板がギシッと悲鳴を上げた。
柵に、何かがぶつかったのだ。
ギイイイ、と木の繊維が限界まで引き伸ばされる音。杭が地面にめり込む振動が床板から足裏に伝わってくる。聞いたことのない音だった。木が、踏ん張っている音だった。
二度目の衝撃。
さっきより重い。天井から干し草の束が落ちた。窓の外で、柵の一部が目に見えてたわんでいる。
——頼む、持ってくれ。
三度目は——来なかった。
代わりに、地響きの方向が変わった。南から北へ抜けていた振動が、西寄りにずれていく。
通過し始めている。
群れの端が柵をかすめただけだ。本隊は少し東寄りの草原を突っ切っていく。
ずん、ずん、ずん。
振動が少しずつ遠ざかっていった。西の方角で木々がなぎ倒される轟音。無数の重い足音。そして次第に薄れていく獣の唸り声。
長い、長い沈黙が落ちた。
虫の声が、一匹、また一匹と戻ってくる。
「……終わったか?」
窓の外で、カイの掠れた声。張り詰めた糸がようやく緩んだような響き。
「ああ。通り過ぎた」
俺が答えた瞬間、集落のあちこちから歓声が弾けた。誰かが泣いている。テオが「生きてる! 生きてるぞ!」と叫んでいる。
カイが窓の下から俺を見上げた。松明の残り火に照らされた顔が、くしゃっと歪んでいた。笑っているのか泣いているのか、よくわからない顔だ。
「……お前の仕組みに、また助けられた」
「俺は計算しただけだ。体を張ったのは柵と、皆を家に入れたお前だよ」
カイは何か言いかけて、やめて、小さく笑った。
俺はそっと窓枠から手を離した。指が白くなるまで握りしめていたことに、今さら気づく。
——まあ、正直に言えば。心臓はまだ馬鹿みたいにうるさかったし、膝もちょっと笑っていた。
だが、仕組みは機能した。俺が引退した後でも、柵は俺の代わりに働いてくれた。
それでいい。それが理想だ。俺は一歩も動いてない。動いたのは柵だ。
---
深夜。歓声も泣き声も落ち着いた頃、俺は一人で外に出た。
柵の確認だ。あれだけの衝撃を食らって無傷ということはないだろう。明日の補修箇所を把握しておけば、朝から楽ができる。
——別に、眠れなかったわけじゃない。
雲が晴れて、満月が集落を青白く照らしていた。
南側の柵は、思ったより頑丈だった。外向きにたわんで杭が何本か傾いてはいるものの、倒壊している箇所はない。マナを含んだ木材の粘り強さに、改めて舌を巻く。この世界の木は本当に優秀だ。
柵に沿ってゆっくり歩いていると、ふと。
首の後ろが、チリッとした。
視線だ。
だが獣特有の、鋭くて据わった目つきとは違う。もっと——遠慮がちで、おずおずとしていて、それでいて好奇心だけは抑えきれない、そんな種類の気配。
俺はゆっくりと振り返った。
月光に照らされた草原。群れが踏み荒らした跡が黒い筋になって続いている。その向こう——背の低い草が風に揺れるあたりに。
銀色の何かが、月の光を弾いて、きらり、と一瞬だけ光った。
——小さい。
さっきの群れの連中とは比べものにならない。
小さくて。丸くて。
やけに、ふわふわしていた。
銀色の毛並みだけが月明かりの中で淡く光って、風にふわりと揺れて——。
瞬きをした。
消えていた。
草が風に揺れているだけだ。最初から何もなかったかのように、月の光だけが静かに草原を照らしている。
「……夢か。疲れてるんだな、俺」
地鳴りで叩き起こされた上に心臓が止まりかけたのだ。幻のひとつくらい見ても不思議じゃない。
俺は頭を振って、柵の確認に戻った。
だが——もう一度だけ、振り返った草原には、やはり何もなかった。月と、草と、風だけの静かな夜だ。
なのに。
あの銀色が、妙に目の奥に焼きついて、離れなかった。
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