第37話「完全自律型・怠惰の極み」
朝焼けの光が窓から差し込んだ時、俺の目の前には数十枚の木簡と革の巻物が積み上がっていた。
──終わった。
丸一日と一晩をぶっ通しで書き続けた。怠惰を愛する俺が徹夜するなんて、前世のブラック企業以来の快挙だ。いや、快挙じゃない。苦行だ。二度とやらない。
だが、その苦行の成果が今、俺の机の上で山を成している。
きっかけは単純だった。
毎日、毎日、朝から晩まで。開拓民どもが、ありとあらゆる些細なことを聞きに来るのだ。
「大賢者様、水路の石が詰まりました」「大賢者様、苗はどっち向きに植えれば」「大賢者様、木組みの凸と凹どちらが上でしたか」「大賢者様、漬物の塩加減が──」
うるさい。
俺は賢者でもなんでもない。ただの怠け者だ。なのになぜ毎朝、質問の行列ができる。これではブラック企業の何でも相談窓口と変わらない。
だから、決めた。
全部書く。全ての手順を、誰が読んでも迷わないように、一つ残らず書き残す。そうすれば、もう二度と俺に聞きに来る人間はいなくなる。
俺は仕組みを作る人間であって、仕組みを動かす人間じゃない。
仕組みさえ完成すれば、俺はお役御免だ。なんて甘美な響き。
昨晩、家に籠もって木簡に墨を走らせ始めた時のことを思い出す。
水路の維持管理手順を書こうとした瞬間、淡い青色の光が視界の端にちらつき、頭の奥であの声が響いた。
『水路の維持管理──最適な手順は三段階。第一に、取水口の落ち葉を毎朝取り除くこと。第二に、石の継ぎ目に溜まる泥を五日に一度掻き出すこと。第三に、雨季の増水時は上流の分岐板を差し替えて流量を絞ること──この手順を守れば、水路の寿命は十年は保つ』
俺はその声に従い、木簡に手順を書き写した。
次は農地の輪作だ。頭の中で【効率化】が間を置かず次の答えを吐き出す。
『輪作計画──作付けを四区画に分割し、根菜、葉物、豆科、休耕を一季ごとに巡回させること。豆科の根が土に残すマナの滋養が、翌季の根菜の育ちを二割ほど底上げする。この巡回を怠ると三季目には土が痩せる』
書いた。次。木材加工。
『治具に丸太を固定し、印の線に沿って鋸を引くこと。角度のずれが指三本分を超えると木組みが噛み合わなくなる──やり直しには倍の手間がかかるため、最初の一切りを丁寧にするのが最も効率的』
次。建物の補修。次。食料保存。次。柵の点検。
頭の中で【効率化】が止めどなく最適な手順を吐き出し続け、俺の手がそれを木簡と革の巻物に書き写し続けた。墨が乾く前に次の一枚。手が痛い。肩が軋む。それでも手は止まらなかった。
気づいた時には、窓の外が白み始めていた。
水路の維持管理、農地の輪作計画、木材の加工手順、建物の補修の仕方、食料の保存法、柵の管理──この集落のありとあらゆる作業の全手順が、数十枚の木簡と革の巻物に収まっている。
文字の読めない者でも分かるように、図解も入れた。
俺は積み上がった手引書を眺めて、深く息を吐いた。
「……完璧だ」
これさえあれば、俺がいなくても集落は回る。水は流れ、畑は育ち、家は建ち、食い物は腐らない。俺の知恵も、頭も、もう要らない。
全てが、この手引きの中に詰まっている。
俺は手引書の山を両腕で抱え、広場へ向かった。
朝の広場では、カイが作業の割り振りをしている最中だった。木簡の山を抱えた俺を見て、全員の目が丸くなる。
「おい、ユウト。なんだその荷物は」
「聞け。これは、この集落の全ての作業手順を書き出した手引書だ。水路、農地、木材加工、建築、食料保存、柵の管理──全部ある。ここに書いてある通りにやれば、俺に聞きに来る必要は一切なくなる」
広場が静まり返った。
「つまり」
俺は、この日のために温め続けた言葉を放った。
「俺は今日をもって引退する。以後、質問は受け付けない。全部ここに書いてある。あとはお前らだけでやれ」
風が吹いて、一番上の木簡がぱたりと揺れた。
最初に動いたのはカイだった。手引きの一枚を取り上げ、食い入るように読み始める。目が左から右へ、上から下へ。読み終えると次の一枚。また次。
「……ユウト。これ、全部一晩で書いたのか」
「ああ」
「徹夜で?」
「だから二度とやらん」
カイが木簡を持ったまま、妙な顔でこっちを見た。
「お前さ。書いてる間、楽しそうだったんじゃないか」
「は?」
「この手引き、めちゃくちゃ丁寧なんだよ。水路の掃除の仕方一つとっても図解入りで、季節ごとの注意まで書いてある。嫌々やった仕事には見えないぞ」
一瞬、言葉に詰まった。
楽しかった? 馬鹿を言うな。あれは苦行だ。二度とごめんだ。
「……黙れ。さっさと配れ。俺は寝る」
「はいはい。おーい! 大賢者様からありがたい手引きが届いたぞ! 一人一組ずつ取りに来い!」
開拓民たちがわらわらと集まり、木簡を手に取り、読み始め──一人、また一人と目を見開いていく。
「す、すげえ……水路の掃除って、こうやればよかったのか」
「農地の作付け順まで全部決まってる。もう聞かなくていいのか?」
「木の切り方、ここまで細かく……これさえあれば新入りにも教えられるぞ」
テオが恭しく木簡を両手で掲げ、深々と頭を下げた。
「大賢者様……これはもはや、我らの村の聖典です」
「聖典じゃねえ。ただの手引きだ。拝むな」
「建国の書だ!」
別の開拓民が叫んだ。
「大賢者様が、この地の礎を全て記した建国の書だ!」
おい。誰が建国したって?
「そして引退のお言葉! 国の礎を築き終えた偉大なる建国者が、書を民に託して身を引く! なんという潔さ!」
「建国宣言だ!」
「建国宣言! 建国宣言!」
待て。俺は「もう働きたくないから全部お前らでやれ」と言っただけだ。なぜそれが建国宣言になる。
「ユウト」
マーレンが腕を組んで、心底愉快そうにこちらを見ていた。
「あんた、逃げるなら今のうちよ。あの顔は止まらないわ」
広場では開拓民たちが手引きの木簡を頭上に掲げ、感涙を流しながら「建国者万歳!」と叫び始めている。
俺は全力で広場から逃げ出した。
集落の外れの丘まで走り、ようやく足を止める。
振り返ると、眼下に集落が広がっていた。
水路が朝の光を弾きながら静かに流れている。畑の緑が風に揺れ、木造家屋の屋根が整然と並ぶ。手引書を片手に、開拓民たちがもう作業を始めていた。
誰も、俺を呼ばない。
誰も、聞きに来ない。
完璧だ。
これで俺は本当に何もしなくていい。明日も、明後日も、来季も。この手引書がある限り、集落は俺なしで回り続ける。
丘の草に寝転がった。風が、草と土の匂いを運んでくる。空は雲一つなく高い。
──なのに。
ほんの一瞬だけ、胸の奥がすうっと冷たくなった。
前世の、誰もいないワンルームの天井を見上げていた時と同じ。あの、薄い空虚感。
──気のせいだ。徹夜のせいだ。寝れば治る。
「……寝よう」
目を閉じかけた、その時。
カーン……。
風に乗って、遠くから硬い音が届いた。
カーン……カーン……。
北の山の方角。規則正しいリズムで、何かを打ちつけるような甲高い金属の響き。
俺は身を起こし、霞む北の稜線を見つめた。
「……あの山に、誰かいるのか?」
風が止んで、音も途切れた。
聞き間違いかもしれない。まあいい。俺には関係ない。俺は引退したのだ。
それだけ決めて、俺は丘の草の上で目を閉じた。
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