第26話「水と泥と、馬鹿げた達成感」
「ついに……開通だぁぁぁぁっ!!」
山でも崩れたのかと思うような大歓声が、森の静寂を切り裂いた。
泥だらけの男たちが一斉に雄叫びを上げる。西の森から引いた水路の最後の土壁を、丸太で勢いよく突き崩したのだ。
ドゴォッ! と腹の底に響く鈍い音。
堰き止められていた川の水が、数日がかりで掘り進め板で補強した乾いた溝を、一気に駆け下りていく。
ゴオオォォッ!
濁流が轟く。俺が計算した通りの緩やかな勾配を下り、土を巻き上げながら、あっという間に集落の中心に掘ったすり鉢状の貯水池へと流れ込んだ。ひび割れていた赤土の底が、みるみるうちに水に覆われていく。
「やった……やったぞおおっ!」
「俺たちが引いたんだ、この水路を!」
男たちが抱き合い、泥水をはね上げながら肩を叩き合う。その場に崩れ落ちて男泣きする者もいた。土と汗の猛烈な匂いが広場中に充満している。
現場監督として先頭で一番泥を被ったカイに至っては、顔を涙と鼻水でぐちゃぐちゃにしながら、両手を広げて天を仰いで泣き叫んでいた。
たかが水路一本でなんでこんな大騒ぎなんだ。
俺は高台の木陰に設置した日除け付き特等席のハンモックから、その狂喜乱舞を見下ろしつつ、大きくあくびを噛み殺した。
たしかに、人力だけで川から集落まで溝を掘り、石や粘土で補強するのは、彼らにとっては信じ難い大工事だろう。
だが俺から言わせれば、仕組み自体は単純な力仕事だ。地形を読み取り、水が流れる最低限の勾配を割り出して、「あそこの土を五十センチ掘れ」と指示しただけである。
しかし――。
ボロボロになりながら、顔をくしゃくしゃにして子供のように歓喜する彼らの姿を見ていると。
俺の胸の冷え切っていた部分に、じわりと温かいものが湧き上がってくるのを感じた。
自分が頭の中で引いた、ただの線。
それが他人の手と汗で現実の形となり、大地を削り、水の流れを変えて、今この瞬間に目の前に広がっている。
前世のブラック企業で、深夜に一人きりで書類の山と格闘していた時には、絶対に味わえなかった感覚だ。
これが本物の達成感ってやつか。
俺が柄にもなく感慨に浸っていた、その時だった。
「ユウトォォォォォ!!」
振り向くと、全身が泥まんじゅうと化したカイが満面の笑みでこちらへ猛烈に突進してくる。その後ろには同じく泥だらけの男たちが、血走った目で地響きを立てて続いていた。
「待て! お前ら近寄るな、泥が飛ぶ!」
「照れんなよユウト! お前のとんでもない頭がなきゃ、百年かかっても無理だった!」
「来るなと言ってるだろ! 俺の服が汚れる!」
「さあ皆、俺たちの導き手ユウトを胴上げだぁぁぁっ!!」
「「「おおおおおっ!!」」」
「やめろ馬鹿! 触るな! 俺は一滴も汗をかいてないし、ただ水汲みに行かず昼寝がしたいだけなんだああっ!」
悲痛な叫びは三十人の野太い歓声にかき消された。
泥だらけの太い腕に四肢を掴まれ、俺は青空へと高々と放り投げられる。
空はどこまでも青く、森の風は心地よかった。
そして俺のお気に入りの清潔な服は、熱い抱擁と強引な胴上げによって、完璧な泥色に染め上げられたのだった。
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その日の夜。貯水池のそばで祝いの宴が始まった。
パチパチと爆ぜる焚き火の光が、満々と水をたたえた池の水面に揺れている。あちこちで笑い声と肉の焼ける匂いが交錯していた。
ふと、池の縁に水が溢れそうになっているのが目に入った。水路から流れ込む水量が、想定よりやや多い。このまま放っておけば明日には広場が水浸しだ。
……めんどくさいが、ここで放っておいたら俺のテントまで浸水する。
俺は渋々腰を上げ、水路の分岐点まで歩いた。手を土壁に当てて【効率化】を起動する。
『現在の流入量は想定の一・三倍──分岐点の傾斜を二寸ほど緩めれば、余剰分は元の川筋に戻る。池の水位は安定する』
なるほど。要するに、ここの土を少し盛ればいいだけか。
俺は足元の土をざっと固め、水の流れを微調整した。ちょろちょろと余分な水が脇の溝へ逸れていき、貯水池への流入が穏やかになる。
よし。これで俺のテントは安泰だ。
「美味いか、ユウト」
丸太に腰掛けたカイが、木のジョッキを傾けながら声をかけてきた。
泥まみれにされた恨みで、俺はまだ少しツンケンしている。
「……マーレンが作った果実酒だ。不味いわけがない。泥の味がしなくて助かるよ」
「ははっ、すまんな。水が勝手に村まで来たのが信じられなくて、皆どうにかなってたんだ」
カイは焚き火に揺れる貯水池を眩しそうに見つめた。
「これで毎日の水汲みがなくなったな。重い樽を担いで川まで往復する地獄から、やっと解放されたんだ」
「ああ。これでやっと心置きなく昼寝ができる。労働からの解放、その第一歩だ」
俺の声には、隠しきれない安堵が混じっていた。
「そうだな! ……で、ユウト。次は何を作るんだ?」
ぴたり。
果実酒を持つ手が止まった。
「……は? なんで『次の労働』なんて恐ろしい単語が当然のように出てくるんだ」
「水が使えるなら次は畑だろ! 美味い作物が育てられるじゃないか!」
カイの目が希望でキラキラ輝いている。この生粋の体力馬鹿の頭には、「仕事が終わったらしばらく休む」という概念が存在しないらしい。
「ふざけんな。俺は明日から三日間、テントから一歩も出ない。完全休業だ」
俺はカイを睨みつけ、果実酒を一息に飲み干した。
しかし、その時。
貯水池の暗い水面に、何か小さなものが浮かんでいるのが見えた。
「ん……?」
水路から絶え間なく流れ込む水に乗って、それはゆっくりと岸辺の俺の足元に寄ってきた。
手を伸ばして拾い上げる。
ただの落ち葉ではなかった。数枚の青い硬い葉を、極細の蔓で器用に縫い合わせて作られた、手のひらサイズの小舟だ。葉の形を活かした流線型。丁寧に、意志を持って結ばれた蔓の結び目。
自然にできたものじゃない。
何者かが明確な意図を持って編み上げた、精巧な細工物だ。
「上流から……水路を通って流れてきたのか」
カイの声が、先ほどの陽気さから一転して緊張を帯びた。
水路の水源は、誰も足を踏み入れない西の森の奥深く。あんな場所に、こんなものを作れる存在がいるというのか。
俺は手のひらの小舟と、漆黒の闇に沈む西の森を交互に見つめた。
「どうやらこの森は……俺たちだけの貸切状態ってわけじゃないみたいだな」
完璧な昼寝への道が、また少し遠のいた気がした。
ひやりと冷たい夜風が、西の森の奥から吹き抜けていく。
お読みいただきありがとうございました!
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