第20話「そして文明が始まり、南からの影が揺れる」
あの夜の宴から数日。
集落は──いや、もう村と呼んでいい。間違いなく、村だ。
丘の上に立つと、朝風が頬を叩いた。眼下に整然と並ぶ屋根が朝日を浴びている。水路を流れる水音が風に混じり、畑では薄緑の芽が規則正しく顔を出していた。
三筋のかまどの煙が、まっすぐ空に吸い込まれていく。
誰かが鍬を振り、誰かが歌い、どこかで笑い声が弾ける。踏みしめた丘の草が朝露で湿っていて、靴の底がかすかに滑った。
あの日、草原の真ん中でひとりきり目を覚ましたとき、風と草の匂いしかなかった。
今はここに、二十五人の暮らしがある。
「……悪くない」
口をついて出た言葉に、自分で少し驚く。最近こればっかりだ。
疲れてるのかもしれない。
景色をぼんやり眺めていると、頭の奥にスキルの声が響いた。
『現在の防衛網で対応できるのは中型の魔物まで──大型以上が来た場合、堀の深さと土塁の高さが足りない。補強には二十人の手で十日ほどかかる』
大型、ねえ。
今のところ大狼より大きいのには出くわしていない。オークの群れだってこの前全滅させた。
「まあ、今すぐって話じゃないだろ」
面倒なことは先送り。これが俺の生き方だ。前世から変わっていない。
ただ、「大型以上」という言葉だけが、なんとなく耳の奥に引っかかる。
***
丘を降りて村に戻る途中、マーレンの小屋の前を通りかかった。
昨日預けた巡回報告の木板を返してもらう用事がある。
「マーレン、昨日の──」
声をかけながら入り口の布をめくる。
足が止まった。
朝の光が差し込む小屋の中で、マーレンが着替えの真っ最中だった。
薄い肌着一枚の姿。逆光に浮かぶ、すらりとした肩の線と白い肌。赤い髪が背中に散って、差し込む光に透けている。
「──ノックくらいしなさいよ」
マーレンは振り返ったが、慌てる気配はまるでない。腰に手を当てて、呆れた顔で俺を見ている。
肩にかかった布を直す仕草が、やけに自然だった。
「い、いや、すまん。出る。すぐ出る」
「あんた、そういうとこほんっとに初心よね」
にやりと笑うマーレンから目を逸らし、全力で後ずさる。
肩の肌が朝日に光っていたことは、視界の端に残っている。残っているが、今は考えない。考えてはいけない。
早口で「出ます、今すぐ出ます」と繰り返しながら小屋を飛び出すと、外にいた住民が目を丸くした。
「村長! お顔が真っ赤ですが、お熱でも!?」
──村長。
いつからそう呼ばれるようになったのか、正確には覚えていない。宴の翌日あたりから、カイの「この村を任せていいのはあんただけだ」という一言が広まって、気がつけば住民の口から自然と出てくるようになっていた。
大賢者様よりはましだが、村長も村長で勘弁してほしい。
「……何でもない」
「大変だ、村長が倒れる! 誰か水を持ってきてくれ!」
善意の連鎖が始まった。頼むからやめてくれ。
***
昼過ぎ、騒ぎがようやく収まった頃。
俺は気分転換も兼ねて、南の草原に足を延ばした。レオンが朝の見回りで「南の方に変な跡がありました」と報告していたのが引っかかっていたのだ。
村を出て南に歩くこと、しばらく。
草原の背の高い草をかき分けて進んでいくと、それは唐突に現れた。
足跡だった。
ただし──ありえない大きさの。
草がなぎ倒され、地面が深くえぐれている。足跡の端から端まで、人の背丈ほどもある。巨大な何かが、のしのしと歩いていった痕だ。
風が止んだ。草原が静まり返る。
「……でかすぎだろ」
大狼でもオークでもない。こんな足跡を残す生きものを、俺は知らない。
スキルに聞いてみる。
『該当する既知の生物なし。足跡の深さから体重を推定しようにも──情報が足りない。周囲の痕跡が不足している』
情報が足りない。
あの万能みたいな顔をした【効率化】が、「わからない」と答えた。初めてだった。
喉が、わずかに引きつる。
足跡の向きを確かめた。南から北へ。つまり、こちらに向かって歩いてきた何かが、途中で方角を変えて東に逸れている。
今はこちらに来ていない。たぶん。
「……たぶん、な」
村に戻る足取りは、行きより少しだけ速かった。
振り返ると、南の草原はいつも通り風に揺れているだけだ。何もいない。だが、あの足跡はこの大地のどこかに「何か」がいることを、はっきりと示している。
***
夜。
巡回の報告を聞き終え、マーレンとカイに任せて、俺は寝床に潜り込んだ。
藁を詰めた寝台は、カルルが改良してくれたおかげで腰が痛くならない。最初の頃とは雲泥の差だ。
目を閉じる。南の足跡のことが頭をよぎったが、考えても仕方ない。スキルが情報不足と言うなら、今の俺にできることはない。
明日でいい。全部明日だ。
眠りに落ちかけた、そのとき──
窓の外で、何かが光った。
銀色の、光。
跳ね起きて窓に駆け寄る。
月明かりに照らされた木々の間を、何かが走り抜けていく。ほんの一瞬だった。
銀色の、ふわふわした影。
獣のような姿形。だが、ただの獣じゃない。月の光をまとったような、不思議な輝き。毛並みが夜風になびいて、銀の粒子が散るようにきらきらと煌めいている。
美しかった。怖いとは思わなかった。
あれは──なんだ?
追いかけようかと思った。だが、布団の温もりが俺を引き留める。夜風は冷たいし、裸足で走り回るのは効率が悪すぎる。
「……明日でいいか」
窓の外にはもう何もいない。月明かりだけが、静かに木々を照らしている。
寝台に戻り、目を閉じる。
草原でひとりきり目を覚ました日から、随分経った気がする。あの日の俺は、ただ楽に生きたかっただけだ。働きたくなかった。それだけだった。
なのに今、この寝床の外には二十五人の寝息がある。畑がある。水路がある。屋根がある。かまどがある。全部、楽をしたくて作ったものだ。
そして今夜、銀色の何かがこの村の傍を走り抜けていった。
まだ名前も知らない、不思議な来訪者。
明日になったら考えよう。全部、明日でいい。
こうして、俺の怠惰な文明の最初の章は──静かに幕を閉じた。
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