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第20話「そして文明が始まり、南からの影が揺れる」

 あの夜の宴から数日。

 集落は──いや、もう村と呼んでいい。間違いなく、村だ。


 丘の上から見下ろすと、整然と並んだ住居の屋根が朝日を浴びている。畑には薄緑の芽が規則正しく顔を出し、水路が朝の光を弾きながら村を貫いていた。かまどの煙が三筋、まっすぐ空に伸びている。

 鍬を振る音。笑い声。誰かの歌。風に乗って、生活の匂いが届いてくる。


 あの日、草原の真ん中で一人きり目を覚ました時には、風と草の匂いしかなかった。

 今はここに、二十五人の暮らしがある。


「……悪くない」


 口をついて出た言葉に、自分で少し驚いた。最近こればっかりだ。

 疲れてるのかもしれない。


 ぼんやり景色を眺めていると、頭の奥にスキルの声が響いた。


『現在の防衛網で対応できるのは中型の魔物まで。大型以上が来た場合、堀の深さと土塁の高さが足りない。補強には二十人の手で十日ほどかかる』


 大型、ねえ。

 今のところ大狼より大きいのには出くわしていない。オークの群れだってこの前全滅させた。


「まあ、今すぐって話じゃないだろ」


 面倒なことは先送り。これが俺の生き方だ。前世から変わっていない。

 ただ、「大型以上」という言葉だけが、なんとなく耳の奥に引っかかった。


 丘を降りて村に戻る途中、マーレンの小屋の前を通りかかった。

 昨日預けた巡回の報告をまとめた木板を返してもらう用事がある。


「マーレン、昨日の──」


 声をかけながら入り口の布をめくった。

 その瞬間、俺は石のように固まった。


 朝の光が差し込む小屋の中で、マーレンが着替えの真っ最中だった。

 薄い肌着一枚の姿。逆光に浮かぶ、すらりとした肩の線と白い肌。赤い髪が背中に散って、差し込む光に透けている。


「──ノックくらいしなさいよ」


 マーレンは振り返ったが、慌てる気配はまるでない。腰に手を当てて、呆れた顔で俺を見ている。

 肩にかかった布を直す仕草が、やけに自然だった。


「い、いや、すまん。出る。すぐ出る」


「あんた、そういうとこほんっとに初心よね」


 にやりと笑うマーレンから目を逸らし、全力で後ずさった。

 見てない。断じて見てない。肩の肌が朝日に光っていたことも、鎖骨のあたりが綺麗だったことも、一切記憶に残っていない。嘘じゃない。


 赤い顔のまま小屋を飛び出すと、外にいた住民が目を丸くした。


「村長! お顔が真っ赤ですが、お熱でも!?」


「……何でもない」


「大変だ、村長が倒れる! 誰か水を持ってきてくれ!」


 善意の連鎖が始まった。頼むからやめてくれ。


 昼過ぎ、騒ぎがようやく収まった頃。

 俺は気分転換も兼ねて、南の草原に足を延ばした。レオンが朝の見回りで「南の方に変な跡がありました」と報告していたのが引っかかっていたのだ。


 村を出て南に歩くこと、しばらく。

 草原の背の高い草をかき分けて進んでいくと、それは唐突に現れた。


 足跡だった。

 ただし──ありえない大きさの。


 草がなぎ倒され、地面が深くえぐれている。足跡の端から端まで、人の背丈ほどもあった。巨大な何かが、のしのしと歩いていった痕だ。


 風が止んだ。草原が静まり返る。


「……でかすぎだろ」


 大狼でもオークでもない。こんな足跡を残す生き物を、俺は知らない。

 スキルに聞いてみる。


『該当する既知の生物なし。足跡の深さから体重を推定しようにも──情報が足りない。周囲の痕跡が不足している』


 情報が足りない。

 あの万能みたいな顔をした【効率化】が、「わからない」と答えた。初めてだった。


 背筋を、冷たいものが一筋走り抜ける。


 足跡の向きを確かめた。南から北へ。つまり、こちらに向かって歩いてきた何かが、途中で方角を変えて東に逸れている。

 今はこちらに来ていない。たぶん。


「……たぶん、な」


 村に戻る足取りは、行きより少しだけ速かった。

 振り返ると、南の草原はいつも通り風に揺れているだけだ。何もいない。だが、あの足跡はこの大地のどこかに「何か」がいることを、はっきりと示していた。


 夜。

 巡回の報告を聞き終え、マーレンとカイに任せて、俺は寝床に潜り込んだ。

 藁を詰めた寝台は、カルルが改良してくれたおかげで腰が痛くならない。最初の頃とは雲泥の差だ。


 目を閉じる。南の足跡のことが頭をよぎったが、考えても仕方ない。スキルが情報不足と言うなら、今の俺にできることはない。

 明日でいい。全部明日だ。


 眠りに落ちかけた、その時──


 窓の外で、何かが光った。


 銀色の、光。


 跳ね起きて窓に駆け寄った。

 月明かりに照らされた木々の間を、何かが走り抜けていく。ほんの一瞬だった。


 銀色の、ふわふわした影。

 獣のような姿形。だが、ただの獣じゃない。月の光をまとったような、不思議な輝き。毛並みが夜風になびいて、銀の粒子が散るようにきらきらと煌めいている。

 美しかった。怖いとは思わなかった。


 あれは──なんだ?


 追いかけようかと思った。だが、布団の温もりが俺を引き留める。夜風は冷たいし、裸足で走り回るのは効率が悪すぎる。


「……明日でいいか」


 窓の外にはもう何もいない。月明かりだけが、静かに木々を照らしていた。


 寝台に戻り、目を閉じる。


 草原で一人きり目を覚ました日から、随分経った気がする。あの日の俺は、ただ楽に生きたかっただけだ。働きたくなかった。それだけだった。

 なのに今、この寝床の外には二十五人の寝息がある。畑がある。水路がある。屋根がある。かまどがある。全部、楽をしたくて作ったものだ。


 そして今夜、銀色の何かがこの村の傍を走り抜けていった。

 まだ名前も知らない、不思議な来訪者。


 明日になったら考えよう。全部、明日でいい。


 こうして、俺の怠惰な文明の最初の章は──静かに幕を閉じた。

お読みいただきありがとうございました!


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― 新着の感想 ―
執筆速度がすっごい……。 私も見習いたいです。
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