入浴と秘密と 6
お湯の張っている高さからバスタブを登らなければいけないのに、毎日綺麗に掃除されているであろう、汚れ一つ無いバスタブには、当然小さくなった人が手や足をかけるための足場のようなものはない。数メートルの高さのツルツル滑る垂直の壁を登る方法なんて、残念ながらわたしは持ち合わせていない。その間にも、後ろから何度も波がわたしを襲ってきていて、その度に体を壁に叩きつけられている。
「登り方なんてわからないけれど、登るしかないよね……」
小さくため息をついてから、壁に手を置いて、足で水を蹴り上げるようにしながら、上に跳ぼうとするけれど、滑ってまったく登れそうにない。
えいっ、えいっ、と何度も挑戦したけれど、糸口なんて当然見当たらない。壁に体をくっつけながら滑り落ちていく行為を無意味に繰り返しているだけで、無駄に体力の消費をしてしまうだけだった。
「どうしよ……」
アリシアお嬢様がいつ目を覚ますかわからないから、エミリアが戻ってきて掬い出してくれることを信じるしかないのだろうけど、あの意地悪メイドが素直にわたしを水から掬ってくれるのだろうか。下手をしたら、「もうお風呂の時間は終わりなのでお片付けをしなくては」なんて言って、そのままバスタブの栓を抜いて排水溝にでも流されてしまうのではないだろうか。
「それは嫌だなぁ……」
いろいろと思考がネガティブになってしまっているから、一旦落ち着くことにした。とりあえず、壁に背中をくっつけて、できるだけ力を抜いて、無駄な体力を使わずに浮いておく。誰がいつ助けてくれるかもわからないし、体もふやけてきているし、不安は募っていく。
「こんなことなら家を飛び出してくるんじゃなかった……」
同じことは、路上で空腹に倒れた時にも思った。けれど、やっぱり好きでもない人と家の繁栄のためだけに愛のない結婚をするなんて、わたしには耐えられなかった。
「まあ、無理に結婚するくらいなら今の方がマシか……」
アリシアお嬢様みたいに素敵なお嬢様にも出会えたわけだし。
目鼻立ちがくっきりとしたアリシアお嬢様が優しく微笑んでいるところが目に浮かんだ。幼少期に一度森で遊んだ時から、わたしにとっては大切な友達だった。今は主従関係に変わっているけれど、大切な人であることには変わりない。いずれにしてもこのまま排水溝に流されて、会えなくなるわけにはいかない。
「なんとしても登ってやるわ!」
もう一度気合をいれて登ろうと試みた。けれど、やっぱり滑って落ちてしまう。他のやり方を考えた方がいいのだろうかと悩んでいると、バスルームの外から声が聞こえてくる。
「ねえ、先に誰か入った形跡があるんだけど? 次期当主のこのわたしを差し置いて、どうしてアリシアの入浴を許可したわけ?」
苛立った声がする。聞いたことのない声だから、誰なのか見当もつかなかった。けれど、誰かがこのバスルームに入ってくれるならチャンスだ。その人に掬い上げてもらえば……。
苛立った様子で、大きな音を立てながら扉を開けて入ってきたのが誰かというのは高いバスタブの壁に阻まれているわたしにはわからなかった。
「まあ、別に良いんだけどね。どうせわたしはパトリシアお姉様みたいに優秀じゃないもの……」
バスタブの外から小さなため息混じりの声が聞こえてきた。先ほどまでの苛立った様子とは打って変わってしょんぼりとした様子でバスタブの方に少女が向かってくる。
ほとんど波も立てずに静かに入ってきた少女がバスタブに座り込むと、わたしの上に影ができる。嫌な予感がしたのと同時に、少女の背中がこちらに向かってきた。
「ま、待って! いますから! ここにメイドがいますから!!」
必死に訴えかけたけど、声が届かなかったようで、少女が遠慮なくわたしの上に体を預けに来た。
滑らかな肌がわたしを押し潰そうとしてきたのと同時に、少女の方が「きゃぁあ!!」と驚いた声を立てた。本日3度目の内臓が飛び出そうな圧力を受けたわたしよりも、なぜか少女の方が怯えていた。
「ネ、ネズミ!?」
少女が慌ててバスタブの外に出ると、お湯の方を怯えた顔で見つめてくる。そして、お湯の中でゼーゼー息を荒げているわたしと目が合ってから、一転して冷たい視線をこちらに向けてきた。