第八章 第五話
部屋は沈黙に満たされていた。
侵入者騒動の後、アスタール近衛兵団長とバルデス将軍が出て行ってから……誰も口を開かない。
……開こうとしない。
──何しろ……今のこの部屋は、どんな権力者だろうと迂闊な一言で己の未来が吹っ飛びかねないのだ。
つい先ほど、軍事を担当するバルデス将軍がこの状況になってまでラルヴァ王子に対して忠誠を示したことで、室内のパワーバランスは一転した。
王国の法律を護るならばラスカル王子が跡を継ぐのは当然だろう。
実際、ラスカル王子は王国法に基づいた上でラルヴァ王子に対して自害まで迫っている。
だが、ラルヴァ王子がそれを拒み叛乱を起こした場合……戦局は間違いなくラルヴァ王子に傾くのだ。
それほどバルデス将軍は軍部に力を持っている。
──いや、ここ暫くの暗殺騒ぎでラスカル王子の影響力が減った、というのが正解か。
だからこそ……地方貴族たちは迂闊に口を開けない。
負ける方についた時点で……自分の地位が危ういからだ。
同時に、王国の重鎮たちも動けない。
彼らにしてみれば王国法を護るのは当然と言え、下手にラスカル王子につけば……ラルヴァ王子による粛清の対象となりかねない。
恐らく、ラスカル王子もそのことを痛いほど理解していたのだろう。
「──っ、───っっ」
いつも涼しげな顔を崩さなかった彼が珍しく焦りに顔を歪めながら……何かを言おうと口を開きかけ、また閉じる。
……それの繰り返しだった。
『鮮血』のキリアによる暗殺が行われる前ならば、バルデス将軍一人の影響力くらいなら封じることは出来たのだろう、
だが、今ではラスカル王子の手駒は半分にまで数を減らしており……ラスカル王子ですらこの場では迂闊な言葉を発せられないのだった。
結局、その状況を打破したのは……この王位継承に最も関係の深い人間でありながら、今この場で最も王位に関心のない人物……ラルヴァ王子その人だった。
「で、親父の遺言には何を?」
どちらかと言うと王位継承権よりも外の騒ぎの方が気になっていたラルヴァだったが、いい加減、この茶番に付き合うのも飽きてきていた。
「……なるほど、確かに」
「……そうですな、王のご遺言でなら」
ラルヴァの一言で、拮抗していた空気は一変する。
自分で決断して滅びを待つより、前国王の遺言に従って……つまりは責任転嫁をしようというだけの話だったが、それでも彼らにしてみれば、重大な決断から逃れられる格好の言い訳だった。
「──っ!
───っっ!」
その言葉に一番動揺したのは、恐らくラスカル王子だろう。
またしても何かを叫びかけ、言葉が浮かばないのかその口を閉じ……酸欠に陥った金魚の真似をしているようにも見えた。
「では、ご遺言を読み上げます」
そして、どちらに付くという態度すら見せなかったアルス政務官は、いつも通りの冷静な声で……その書物を読み上げる。
「ランシア次期国王は……ラルヴァ=ランシアに継承するものとする」
……と。
「バカなっ!」
その言葉を読み上げられた瞬間、一つだけ大きな叫びが響き渡った。
室内中の人間がその声の主……即ち、次期国王を指名されていたラルヴァ王子その人を注視する。
「……何故、親父は、俺なんかを?」
「……本気で気付いていなかったのですか、兄上?」
動揺したラルヴァの呟きに応えたのは、弟の冷静な声だった。
「私は法で部下を従えていただけに過ぎません。
つまり、私の部下は王国という存在があってこその部下なのです。
なのに兄上は……人徳で部下を従えていました。
次期国王の座が危ぶまれている状況でさえ、兄上を裏切ろうとしない忠実な部下を、しかもあれほど我が国の有力者で、あれほど癖のある人材を従えていたのです。
その差がどれだけ大きいか……ご自分で分からなかったのですか?」
口惜しそうにそう呟く弟の声は、ラルヴァの耳に入ったかどうか。
ただラルヴァは……呆然としたまま固まって動かない。
「勿論、兄上の短慮は問題でした。
しかし、それもいずれ年を取り子供が生まれれば落ち着くだろう……父上はそう考えていたのです」
いつもの能面を歪ませながら、ラスカル王子はそう語る。
……その顔を歪ませていたのは兄への劣等感か、自分を選ばなかった父への怨恨か。
ただ少なくとも、彼ら二人の父は間違えてはいなかったのだ。
事実、ラルヴァは手のかかる子供……キリアという少女と暮らすことで、短慮さを抑える術を身に付け、他者への思いやりを学び……
──以前のラルヴァにはなかった、王としての資質を手に入れていたのだから。
「大体、アルス政務官が私ではなく兄上のところに仕事を運び始めた時点で、何故だか考えなかったのですか?」
それは……決定的な証拠なのだろう。
名前を呼ばれたアルス政務官もラスカル王子の言葉に頷く。
「……何なんだよ、それは……」
未だに納得出来ないという表情で、首を左右に振りながらラルヴァは呟く。
だが、その声に応える人間なんてこの場にはいなかった。
「じゃあ、俺は、何のために……」
「……それだけに、今回の暗殺騒動は残念です、ラルヴァ王子」
アルス政務官の言葉はそれだけだった。
行政を担当している彼は……法に従うべき存在だと知っているからこそ、ラルヴァ王子には従えない。
言外にそう言っている彼の言葉は……室内の貴族にも響いていた。
──だが、それでも動き出す人間はいない。
アルス政務官は確かに行政上の力は持っていたが、ただ事務的に行政を行うだけの彼は人徳というモノが致命的に欠けていた。
だからこそ、彼がラスカル王子を擁護する立場に立ったとしても、それに呼応する貴族はいなかった。
いや、どちらかと言うと……大勢の貴族たちの間には、二人の王子が何かを言うのを待とうという空気が漂っている。
……二人が自発的に動くことで、両者の間に決定的な差がつく、その瞬間を。
そして、その沈黙は破られる。
二人の王子による言葉ではなく、室外からの闖入者によって……
「……く、くかかかかか」
純白に突き立った柱に身体を預けたまま、バルデス将軍は笑っていた。
その右胸には、キリアの短剣が埋め込まれている。
だと言うのに、己の技量のみを誇りとして生きてきた彼は、その矜持のみを理由に床に膝を突くことを拒否していた。
「まさか、あれほどとはな」
致命傷を負わされているというのに、その顔から笑みが消えることはない。
悲鳴と怒号は遠ざかり、既にキリアは王宮の奥へ進んでいったことが窺える。
だが、もう致命傷を負ってしまったバルデス将軍にとって、既に王宮の警護なんて何の意味も持たない。
「……あの小娘がここまでするとは」
床に転がっている小さな腕を眺め……バルデスは笑う。
剣術と剣術の戦いならば……確かにバルデスの方が上だった。
体捌きと剣速には僅かにキリアが上回っていたものの、技量と腕力はバルデスが上。
そして、何より長剣と短剣という武器の差と、体格という名のリーチ差は大きかった。
加えるならば、『鮮血』という二つ名を持つキリア自身が、幸せな日々の中でその身体能力を衰えさせてしまったことも大きかっただろう。
いや、キリアの最善期の動きでも、バルデスの斬撃は避けられたかどうか。
それほどまでに数多の戦場で鍛え上げたバルデスという剣士の腕は凄まじいものだった。
無論、バルデス自身も無傷とはいかず……数箇所の切り傷を負っていたが、それでも彼はキリアを追い詰めていたのだ。
だが、トドメを刺そうとしたその刹那……
「……まさか、あの『鮮血』の名がついた小娘が……王子のために命を捨てて突っ込んでくるとは、な」
バルデスの斬撃を敢えて避けず、右腕を差し出すことでキリアは即死を避け……斬られる刹那の間に左手に持ち替えていた短剣をバルデスの胸に突き刺したのだ。
「このバルデスこそが……ラルヴァ王子の器量を見誤ったということか」
結局、彼が致命傷を負った原因は……キリアという名の少女を、ただの獣と見たことだった。
──獣である以上、恐怖から逃げ、強敵から逃げる。
そう前提しての戦術を組み立てていたからこそ、相手が窮鼠となることを恐れ、背後の逃げ道を塞ぐ真似はしていなかった。
そして、獣ならば逃げるだろうと予想を立てていただけに……突然の捨て身の突撃に不意を突かれたという訳だ。
……いや、キリアの思考回路は間違いなく獣に他ならなかったのだろう。
ただ、彼女にとってラルヴァという存在だけが、敵の多い場所に飛び込む恐怖よりも、身体の痛みよりも、疲労よりも……そして彼女自身の命よりも遥かに大切な存在になっているというだけで。
「……流石は我が王」
バルデスは壮絶な笑みでそう呟くと、笑顔のまま目を閉じ……
それが……ランシア王国最強と謳われた剣士の……最期の言葉となったのだった。




