第三話
「チェチーリア・クレイン伯爵令嬢。私と婚約しないか?」
突然呼び出されたかと思ったら、これか。ちょっと考えて、ハッとひらめいた。
「ああ、最近恋愛小説で流行りの偽装婚約というものですね」
「は?」
「私から妹に婚約者が変更になったという情報を掴んだのでしょう? それで対外的にも婚約者のいなくなった私に声をかけた。しかも悪評にまみれた私に縁談がくるとすれば、後添えが必要な高齢の貴族か、金はあるが性格に難のある貴族しかおりませんもの。それに比べたらマシだろうということで、偽装婚約を提案する相手には最適です」
よく考えたものだ。婚約避けというだけでなくチェチーリアにも利益がある。なにせ相手は一国の王子様だ。マウケーニア王国の第二王子エドガルド=アルタイ・マウケーニア殿下。両親は絶対に反対しないだろうし、彼に文句がつけられる人間なんてそうはいない。
「それで理由は何ですか? 運命の恋人の身分が低いとか、公にできない相手とか」
「……」
「三年経って離縁したらマウケーニア王国に住みたいので、永住権と職の斡旋をお願いします。その代わり白い結婚でかまいません。お相手にも干渉しませんので、ご安心ください」
小説から得た知識をもとにチェチーリアにとって都合のいい条件を積み上げていく。先手必勝、こういうときは遠慮と配慮はしない主義だ。すると呆然として言葉を失っていた彼が、肩を震わせて笑い出した。今度は逆に私が呆気にとられる。
「どうされたのですか?」
「いや、まさか初手から不貞を疑われると思わなくてね」
「違うのですか?」
「もちろん。誠心誠意、裏表なく全力で君を口説いている」
まさか本気だったとは。だけどそれもまた疑わしい。
「もしかして同情ですか? それなら気遣いは不要です。強がりではなく本気で婚約者に心残りはありませんの」
チェチーリアの中でラウルへの愛は失われた。正直なところ、今は彼が誰を好きになろうが、誰と結婚しようがどうでもいい。チェチーリアが冷めた口調でそう答えると、エドガルド様は眉を顰めた。突き放すような言い方を不愉快に思われただろうか。
「さっきは笑って悪かったな。それだけ君の傷が深いと思っていなかった。最近は吹っ切れたような明るい表情をしていたから、もう大丈夫なのかと思っていたけれど」
「何の話です?」
「本当はわかっているだろう? 彼への愛は失われたとしても、心の傷は癒えずに残っている」
チェチーリアは視線をそらした。たしかにラウルへの愛は失われている。だが残念なことに、過去に受けた心の傷までは消えていなかった。悪意ある噂によってついた傷口は膿んだまま、他人に対する不信感としてチェチーリアに残されている。唯一家族で味方となってくれた兄と、一握りの友人。彼らだけがチェチーリアの信頼できる人物であり、それ以外は家族だろうと敵にしか思えなかった。
「ご理解いただけたのなら、このまま私を放っておいてくださいませんか? 今はまだ傷を癒したいのです」
「だが調べたところによると、君の両親は早急に君を嫁がせたいと新たな縁談を探しているそうだ。候補者は君の想定するような癖のある相手ばかり。今のままでは君の傷は癒えるどころかもっと深く広がるだろう」
チェチーリアは唇を噛んだ。両親にはせめて半年は次の婚約を決めないでほしいと伝えたのに。きっとダリアに泣きつかれたのだろう。まだラウル様を諦めていないとか、そういうありもしない理由で。彼への愛は捨てたのに。現実は残酷で、自分は無力なままだ。
うつむいたチェチーリアの目の前に、大きな手が差し出される。
「私だって傷ついた君の弱みにつけ込むようで心苦しいと思っている。だが君に残された時間はあまりにも少ない。だからこうして呼び出した。今はまだ愛どころか情もないだろうし、利用するつもりでかまわない。私を選んでくれないか?」
「第二王子殿下……ですが」
「名前で呼んで。エドガルドと」
「っ、ですが国を跨ぐ婚約は滅多なことでは解消できません。こんな私とでも結婚するしかないのですよ!」
「それこそ望むところだ」
エドガルド様は明るく笑って行き場を失ってさまようチェチーリアの手をすくい上げた。視線を合わせたまま、指先に彼の唇が触れる。マウケーニアの文化では指先に落とされる口づけは男性が女性へ求婚するときの合図だという。だが知識でしか知らないチェチーリアは慣れない感触と温もりに頭が真っ白になって、あわてて自分の手を奪い返した。
「ななななな……何をするの!」
「世の中の男はバカばかりだ。こんな初心な反応をする女性が遊び慣れた悪女なわけがないのに」
「……」
「本人を知ろうとしないから噂に踊らされる。愚かだと自ら証明するようなものだ」
そして彼は柔らかく目を細めた。
「こんなだなんて君が自分自身を卑下しないで。君は聡明なだけでなく真面目な努力家だ。王族としてさまざまな知識を叩き込まれた私と上位争いができる頭脳と、遅くまで図書館に残って自習する勤勉さを持ち合わせている。それは誰もが持ち合わせる資質ではなく、むしろ君が誇っていいものだ」
「図書館で自習していることをご存知なのですか?」
「テストの成績が常に自分の近くにいるのだから、どんな人物なのか気になるじゃないか。勉強の仕方や工夫が参考になるかも知れないし。そのうえ悪評に晒されながらも成績が落ちないなんてすごいよね。むしろ尊敬する」
褒められたとわかって、チェチーリアの頬が赤く染まった。
「そう、でしょうか……」
「君が気がつかなくても、ちゃんと見ている人間はいるということだよ」
そしてエドガルド様の視線が真剣なものへと変わる。
「一学年の中間テストのときに、君が私の順位を抜いたことがあったよね」
エドガルド様が三位、私が二位だったときだ。それまでかすりもしなかったので、とても驚いたことを覚えている。
「結局、あのときの一度きりでしたけれどね」
「一度きりでも悔しくて、抜かされないように次からもっとがんばったんだ」
「ふふ、そうでしたか!」
「それで掲示板に成績が張り出されたとき、たまたま君は私の横にいてね。どんな顔をしているのかとのぞいたら……順位を見た瞬間、きらきらと瞳が輝いてほんの少しだけ口元が笑ったんだ」
思い出したのか、エドガルド様は頬を赤らめて口元を手で隠した。
「あの表情が、とても愛らしかった」
そして一瞬で恋に落ちたのだ、と。
声にならない悲鳴をあげてチェチーリアは両手で顔を覆った。二人の間になんとも言えない甘酸っぱい空気が漂う。頭は働かないし、恥ずかしすぎて声も出ない。羞恥に堪えるチェチーリアの顔を、エドガルドは両手の隙間から覗き込んだ。
「あのときからずっと君を見ていた。仲のいい友達と楽しそうに過ごす姿も、根拠のない批判にさらされ反論する姿も、……悪評に耐えかねて泣いている姿も見た。本当は助けてあげたかったのだけれど、君には婚約者がいたから」
胸の痛みに耐えるよう、エドガルド様は眉根を寄せた。
「表立って君をかばえば、さらに噂は酷いものとなるだろう。だから裏でチマチマと手を回すことしかできなかった。たいした手助けができなくて、申し訳ない」
「いいえ、エドガルド様に謝っていただくことは何もありません! 私が、もっとうまく立ち回るべきでした」
社交が得意ではないと避けていたから誤解されるままに広まった。ダリアに好き勝手させた私の落ち度でもある。
「実は私も社交はあまり得意ではないんだ」
「まあ、そうなのですね!」
「だから、そっちの方面は王太子である兄に任せることになっている」
「ではエドガルド様は国に戻られて何をされるのですか?」
「内務と財政に携わる予定だ」
「素晴らしいですわ! 実は図書館にある参考資料でエドガルド様の書いた論文を読ませていただいたことがあるのです。特に商業の発展と福祉の充実を両立させる案が秀逸だと思っていましたの!」
そして、パアッとチェチーリアの笑顔が輝いた。直撃したエドガルドはとっさに赤くなった目元を押さえる。普段あまり表情が変わらないだけに、笑顔の破壊力がすごい。これって本人は自覚がないのだろうな。かわいい、もっと見てみたい。でもそのためには彼女を手に入れないと!
「チェチーリア・クレイン伯爵令嬢、どうか婚約者となってほしい。国をさらに発展させるためにも、私には君の手助けが必要だ」
「社交が苦手でつたないところもある私に、お手伝いができるでしょうか?」
「もちろん。私の案を理解して評価してくれる女性はそういない。それにモンタルク公爵家のご令嬢を筆頭とした有力貴族のご令嬢と交友関係を築いているから、この国での影響力を考えれば十分だ」
「モンタルク公爵家のエミリアーナ様をご存知なのですか?」
「しっかりしろと怒鳴られて、目一杯焚きつけられた」
「は?」
「なんでもない。とにかく見ている人は見ているということだよ」
エドガルド様がチェチーリアに手を差し出した。
「私を選んでほしい。きっと君の役に立てる」
「では私の願いを叶えてくださいますか?」
「もちろん、私ができることであれば何でも叶えよう」
なんだかエドガルド様が必死だ。そんなところがかわいらしく思えてチェチーリアはクスッと笑う。愛はなくとも、尊敬して支え合う関係は築けるはずだ。覚悟を決めたチェチーリアは彼の手をそっとつかんだ。
「私以外の女性に心を揺らさないで」
「それだけでいいの?」
「はい!」
「こんな慎ましく健気な人を手放すなんて、元婚約者は見る目のない馬鹿な男だ」
甘く、とろけるような視線。エドガルド様の手を握り返すと、チェチーリアの指先に再び唇が触れた。
「相手が君でなければ、ここまで待たないよ。もちろん他の女性はいらないし、君の妹は絶対に許さない。他にはどんな確約が必要?」
「ふふ、十分ですわ。末永くよろしくお願いします」
「さっきは触れただけでも驚いたのに、もう平気になったの?」
「少しずつ、こういう触れ合いにも慣れていかないといけないかなと思ったので……」
でも、慣れるにはまだ程遠い。触れた唇の温度がさっきよりも高かった。些細な違いですら感じる自分が恥ずかしくて、じわじわとチェチーリアの顔や首筋が赤く熱を帯びる。
「ですがまだ、わたしには甘すぎるかもしれません……」
だんだんと声がしぼんでいく。エドガルドの顔が一瞬だらしなくゆるんだ。なんかもうチェチーリアの全部が愛おしい。もっと甘やかして、とろけ落ちるところが見てみたい。エドガルドは彼女の手を引くと立ち上がった。
「では婚約を結ぶために、まず挨拶に行こうか」
「どこへですか?」
「クレイン伯爵家だよ」
チェチーリアは、息を呑んだ。途端にさっきまでは輝いていた表情が曇る。するとエドガルドは彼女の手を握り返した。
「大丈夫、私を信じて」
「エドガルド様」
「すでにいくつか手を打ってある。何を言われようと最後に笑うのは君だ」
伯爵家には先ぶれを出し、二人を乗せた馬車は伯爵家へと向かう。到着すれば、そこには着飾ったダリアと両親が使用人を従えて立っていた。そしてそのまま流れるように応接室へと案内される。
「出迎え、感謝します。私がエドガルド=アルタイ・マウケーニアです」
「ようこそおいでくださいました。クレイン伯爵家当主アルフレッドにございます。こちらが、妻のイザリー、そして我が娘ダリアにございます。息子は来客中のためお会いできず申し訳ございません」
父の言葉に、母とダリアが揃って頭を下げた。ダリアは、どこか夢見るような眼差しをしている。まるで自分に会いにきたと思っているような顔だ。チェチーリアの嫌な予感は増す。そして満面に笑みを浮かべた父が口を開いた。
「我が娘、ダリアに縁談を申し込みにいらしたと聞きました。もちろん喜んでお受けいたします」
「どういう意味だ?」
「先ぶれの方に聞きましたところ、クレイン伯爵家の娘に婚約を申し込みに参られたとか。当家で、婚約者のいない娘は一人しかおりません。それはこのダリアです!」
想定していなかった展開にチェチーリアは青ざめ、エドガルドは不愉快そうに眉を跳ね上げた。
「婚約者のいない女性はチェチーリア嬢ではないのか?」
「この娘には、すでにラウル・サバティーノ伯爵子息という婚約者がおります」
「おや、婚約者の変更を国に届出されていると聞いているが?」
「ああ、どうやら手違いがあったようですね。急ぎ、取り下げましょう」
チェチーリアの顔から完全に血の気が引いた。話が違う。両親は嬉々として婚約者の変更を受け入れたはずだ。今にも倒れそうな彼女の肩をエドガルドが支える。
「なぜ、手違いだと?」
「そもそも二人の婚約が結ばれたのは、チェチーリアがラウル殿との婚約を望んだからです。それを勝手に反故にするなどと……全く、貴族の義務をなんだと思っているのか。お恥ずかしい話ですが、甘やかし過ぎてしまったようです」
父は母とともに心底呆れたという顔で深々と息を吐いた。チェチーリアは呆然として言葉を失う。意味がわからない。彼らのためを思って愛を捨てたのに、彼らの一存でまた縛り付けようとしている。何の目的で、誰のために?
「自分が望んだ婚約を妹に押しつけるなんて無責任すぎる。少々邪険に扱われたくらいで、愛が失われるわけはないじゃないか」
「なるほど、それで?」
どこか冷ややかなエドガルドの声が響く。
「ご存知ないかもしれませんが、この娘は醜聞まみれでして。恥ずかしくて国の外には出せません」
父親の口から語られるチェチーリアの醜聞には本人が知らないものも含まれていて、あまりの酷い内容に反論すらできなかった。もはや喜劇だわ。噂が一人歩きするうちに矛盾が生じていて、すでに破綻していた。それなのに彼らは醜聞を事実だと信じて疑ってもいないのだ。
なぜなら彼らにとってチェチーリアは悪い娘だから。
「それに対してダリアは清楚で可憐、穏やかで気立てのよい娘です。姉に劣らず優秀ですし、どこに出しても恥ずかしくありません。もちろん、王子妃の職務を立派に務め上げてみせるでしょう」
チェチーリアにだけ見える角度でダリアの口元が歪んだ。どうしてあなたは私から愛を奪うの……追い詰められたチェチーリアは思わず叫んだ。
「ダリア、あなたはサバティーノ伯爵子息を愛していたのではなかったの⁉︎」
「まあ、姉の婚約者を奪うようなマネ私がするわけがないじゃないですか。お姉様が婚約者を蔑ろになさったから代役を務めただけです。不貞を疑われて、私は悲しい」
ダリアは声を震わせて涙を一粒こぼした。真っ黒なダリアから生まれたのに、彼女の涙は濁りもなく澄み切っていて清らかで可憐で――――また愛を失う予感にチェチーリアは絶望した。
だがうつむいた彼女の背に温かい手が触れる。大丈夫、大丈夫。軽く叩きながら刻むリズムが、そう伝えてくるみたいだ。顔を上げるとエドガルド様が微笑んでいる。チェチーリアだけを見つめて、甘すぎる柔らかな眼差しで。そして彼は両親とダリアに視線を向け、冷ややかな声でばっさりと切って捨てた。
「あなた方は私を馬鹿にしているのか?」
「は?」
「自分の婚約者となる女性の素行調査くらいするのは当然だろうが。醜聞まみれというのなら、いつどこで彼女が何をやったのか、日付と時間を正確に言ってみろ」
今度は両親とダリアの顔色が悪くなる。
「先に言っておくが事実とする証拠は全くなかったぞ」
「で、ですが……」
「その代わり別の人物について別の面白い調査結果が出ている」
護衛に合図を送り、資料を受け取ると両親に手渡した。そこに何が書かれているのかは、両親とダリアの顔色が真っ青になったことで予想がついた。
「妹が姉の名を騙って悪さをする。一人の少女の尊厳を踏みにじる悪意しかない卑劣な行為だ」
エドガルドの言葉を聞いて腑に落ちた。そうだ、噂だけでこんなに醜聞が広まるわけがない。そこまで執着しておきながら、なぜラウル様との婚約を蹴ってエドガルド様との婚約を望んだのだろう。チェチーリアには、矛盾するようなダリアの思考が全く読めなかった。
「いや、とんでもない人たちだね!」
どこからか呆れたような声がして、人々の視線がそちらの方角に向いた。父と母、そしてダリアの絶望感に満ちた顔をみれば相手が誰かなんてすぐわかる。
「ク、クラウディオ王太子殿下……!」
「イヴァーノから相当だと聞いていたけれど、嫌がらせにしては度が過ぎている」
「家族の恥ずかしい姿をお見せすることになり、誠に申し訳ありません」
兄のイヴァーノが神妙な面持ちで頭を垂れた。クラウディオ・リエト・セアモンテ王太子殿下。兄の同級生で、時折こうしてお忍びで遊びにくる。この場に兄が不在であったのは、急用があるという殿下と面会していたからだ。
「ど、どうしてこちらに?」
「王から頼まれた書類があったので直接届けにきたのですよ。はい、どうぞ」
王太子殿下から直接父に手渡されたのは玉璽が押された書類――――ラウル様とダリアの婚約を認める証書だった。両親とダリアは呆然として言葉を失う。
「届出書類の不備不足もなく、両家当主の署名もある。この期に及んで手違いだとは言わせないよ」
「……」
「臣下として王の裁可をなんだと心得ているのかなぁ? それでも手違いだというのなら、この場で証書を破棄してもいいよ。特別に私が許可しよう」
「あ、ありがたき幸せ……」
「その代わり、今後一切、ラウル・サバティーノ伯爵子息とダリア・クレイン伯爵令嬢の婚約は認めない。相手が変わったとしても、どんな相手だろうとね」
「そんな……」
「当然だろう、国の決定を覆したのだから。あなた達に残された選択肢は二つ。運命の恋人同士にふさわしく、このまま二人の婚約を維持するか。婚約を破棄して二人共に独身生活を謳歌するか」
さあ、選ぶといい。
そう言い放った王太子殿下の視線とエドガルド様の視線が一瞬、交錯する。
チェチーリアは悟った。ああ、この偶然は仕組まれたものなのだと。




