第三話
「今日の君は一段と優美だ。名前のとおり、まさに花の冠だね」
「ありがとうございます?」
フェルディオスはステファニアの手を握って指先に唇を寄せる。甘い言葉と慈しむような態度に侍女達は頬を染めてうっとりしているけれど、とある事情からステファニアは素直に喜ぶことができずにいた。
「早く結婚したいね。結婚したら閉じ込めて可憐で美しい君を誰の目にも触れさせたくない」
「まあ、そんなご冗談を!」
「ふふ、これが冗談だと思う?」
フェルディオスは薄く笑った。迫りくる恐怖にステファニアは身を震わせる。この目は本気だ。そして彼の能力と権力があればそれができてしまう。わかっているからこそ愛を囁かれてもうれしくなんてなかった。
あのときは、まさかこんなことになるなんて思わなかったのよ!
だけどいまさら後悔しても、もう遅い。
誰もが羨むハイスペックな婚約者がいるにも関わらずステファニアの心はいつも憂鬱だった。だって彼の顔も容姿も好みじゃないの。ステファニアは日に焼けた肌と筋肉質でちょっと強引なくらいの男性が好きだ。そんな男性から熱烈に口説かれて姫のように扱われる未来を夢見ていたというのに。フェルディオス様は理知的で紳士だけれど、どうしても見た目が好きになれない。だからほんの少しだけ細工させてもらうことにしたのだ。
『ステファニア様、よろしいのですか?』
『命を奪うような毒でないことは鑑定済みよ。だったら相手に飲ませても問題はないはず』
『ですが……取扱説明書には』
『あら、店主の言葉を信じて私に逆らう気?』
『いいえ、そんなことは!』
『惚れ薬なら他人に使おうと思うのが普通じゃない。それを自分に使うものだ、ですって。笑ってしまうわよね! だから私が有効活用してあげるのよ。売り上げに貢献しているのだから、むしろ感謝してもらいたいくらいだわ』
鑑定の結果、正真正銘の惚れ薬であることは確認している。これがもし本物だとすればとんでもない代物だ。是非どれくらい効くものか効果を試してみたい。
『フェルディオス様は今でも私を大切にしてくれる。けれどこれを服用させれば、さらに深く溺愛されること間違いなしでしょう?』
『それは……たしかにそうですね』
侍女は表向きの理由に納得していたけれど、彼が言いなりになればステファニアにとって好都合なのだ。本当の目的はフェルディオスを言いなりにして愛人を囲いたい。そう、容姿も顔も私の好みに合った男性の恋人を作るのよ。
相手の男だって私の磨き抜かれた容姿とお金があれば選び放題だけれど、それでもうまくいかないようなら……そのときはこの惚れ薬を相手の男性に飲ませるの。
たとえばアルセニオ・ジョルダンなんかいいわね! 彼の容姿はステファニアの好みど真ん中だった。なのにあの男は好きな人がいるからとさんざん焦らした挙句に、伯爵家の娘と婚約してしまった。しかも初恋の人で、神の認めた運命の恋人同士だから横槍を入れることもできない。たしか伯爵家の娘でジュリエッタという名前だったかしら?
元々、彼の弟が婚約者だったはず。そんな弟に好きな人ができて、ジュリエッタが蔑ろにされていたのは有名だった。それを哀れに思ったアルセニオが婚約してくれたのでしょう。純粋無垢な顔をして、弱みにつけ込む意地の悪い女だわ。あんな女が婚約者だなんてアルセニオがかわいそう!
もし今回うまくいくようなら惚れ薬を使ってアルセニオのような望まない婚約に縛られる男性達を解放して差し上げるの。そして私の恋人にしてハーレムを作るのよ!
政略結婚では子を成す義務さえ果たせば恋愛の自由は保証されるのが暗黙の了解だった。私にはアッツァリティ公爵家とトルキア家の後ろ盾があるのだから、婚約者を奪ったとしても誰も文句は言えないわ。磨き抜かれた筋肉に囲まれる未来を想像してステファニアは上機嫌だった……あのときまでは。
「そうだ、君に似合う首輪を作ろう。それで君を繋げば部屋から出られないから、心変わりする心配もなくなる」
「……じょ、冗談ですよね?」
返事がないのが一番怖い。薬を飲ませてからずっとこの調子で、もはや溺愛なんて通り過ぎ、激しく束縛されるようになっていた。このままでは困るわ。ハーレムどころか、人と会うことすら制限されかねない。ステファニアはごねるフェルディオスをなだめて、なんとか城へと帰すと侍女を呼び出した。
「すぐにあの店へ行くわよ!」
「あの店とはどこですか?」
「あの惚れ薬を買った店よ! さあ、馬車を用意なさい!」
とにかく急いで、バレないように! 急かされるままに侍女が馬車を用意してあの日と同じ護衛の兵士をつけて、いざ御者に行き先を伝えようとしたときだった。
「ステファニア様、あの店ですが場所はどちらでしたでしょうか?」
「え、どこって……覚えていないの⁉︎」
「はい、それが全く。すっぽり抜けているというか、すでに行ったときの記憶すら怪しいというか」
「なんですって⁉︎ そうだ、あなたはどうなの⁉︎」
護衛の兵士は難しい顔をした。そして次の瞬間、誤魔化すようにへラリと笑う。
「全く覚えておりませんな、そんな店ありましたっけ?」
「なんですって⁉︎ どうして誰も覚えていないのよ⁉︎」
かろうじて御者が前回皆を下ろした場所を覚えていたのでそのあたりで馬車を止めてもらう。ところがこの期に及んで場所どころか店の名前すら覚えていないことがわかった。なんてこと、これじゃいらなくなった愛を売るどころか、残りの惚れ薬すら買えないじゃない!
「と、とにかくこのあたりをしらみつぶしに探して」
「ステファニア、君はこんなところで何をしているのかな?」
「何って……フェ、フェルディオス様! お城にお帰りになられたのでは?」
「君が急いで出かけたと聞いたから心配になって戻ってきたんだ。それで、ここには何しにきたの?」
「い、いいえ。特になんでもありませんわ」
ハーレムのために惚れ薬を買いにきましたなんて冗談でも言えない。この手際の良さ、まさか王家の影をつけられていたのかしら。やましいことに心当たりがあり過ぎてステファニアは視線を逸らした。彼女の様子を観察していたフェルディオスは、次の瞬間、しっかりとステファニアの手を握った。
「ステファニア、厳しいことを言ってごめんね。君が好き過ぎて姿が見えないと不安になるんだ」
「……」
「でも安心して、これからはずっと一緒だ」
「そ、それはどういう意味?」
「お茶会のあとでアッツァリティ公爵とセアモンテ王に相談したんだよ。君と早急に結婚させて欲しいと」
「な、なんですってー⁉︎」
時間が足りない。それではハーレムなんて夢のまた夢じゃないの⁉︎
「困りますわ! いろいろな準備が……」
「大丈夫、もう我が国の受け入れ準備は終わっているよ。君は文字どおり身ひとつでルクセンハイトに嫁いできてくれたらいい。公爵家からは嫁入り道具が、王家からも贈答品が後から届くように手配している」
「なんて手際のいい……」
「喜んでもらえてうれしいよ、がんばったかいがあったというものだ」
「って、褒めておりませんわ!」
フェルディオスはステファニアの指先に口づけた。そして蕩けるような眼差しをして微笑む。
「セアモンテ王からは、結婚の前祝いに君を王城へ招待していいと言われてきた。王族との晩餐のあとは貴賓室を用意しているから、二人きりでゆっくりと過ごしていいともね」
「……」
「今夜は離さないよ?」
「いやああああああーーーー!」
筋肉が遠ざかっていく。涙目のステファニアを優しく、若干強引にフェルディオスが自分の馬車に乗せた。うっとおしいくらいダダ漏れる愛情に侍女と護衛の兵士は瞳を潤ませる。
「ステファニア様の謎の行動はこれが目的でしたのね! 逃げて追わせるなんて恋愛上級者ですわ!」
「こんなに深く愛されて幸せになれること間違いなしだ。アッツァリティ公爵家も安泰だな」
そうじゃない。ステファニアの心からの叫びはフェルディオスのキスで封じられた。幸せそうなフェルディオスと、真っ青な顔で連行されていくステファニアを乗せた王家の馬車は王城を目指して軽やかに走り去っていく。その一部始終を、じっと植え込みの陰から見守る人物がいた。
「だから取扱説明書をよく読んでって言ったのに」
しかも顔を隠すために謎の草が鬱蒼としげる植木鉢を両手で抱えている。彼女の動きにも行動にも怪しさしかなかった。でも誰も咎めない。
なぜならよくあることだから!
「フォルテューナ、満足したかい?」
「はい、ものすごく!」
「あんたも毎度飽きずに物好きだねー。男女の痴話喧嘩なんて、このあたりじゃ珍しいものでもないだろうに」
「嫌ですねー、これも仕事のうちなんですよ!」
植木鉢をアンナさんに返却しながらフォルテューナは軽やかに笑った。商品の効き目はあったか、予期せぬ副作用はなかったか。そして商品が正しく使われたか。それは貴重な情報として次の商売につながる。
それに恋路を邪魔する者は馬に蹴られて地獄に落とされても文句は言えないのよ。
後で調べたら彼女がアルセニオ様に対する度の過ぎた執着は有名だった!
もうすぐジュリエッタは結婚すると聞いているし、横槍は無粋だものね。
後日談だが、足元のおぼつかないステファニアをお姫様抱っこしたフェルディオスが満ち足りた顔で王城を出立したのは三日後のことだった。彼女は拐われるようにしてルクセンハイトに嫁いで行った。
なお、ステファニアが筋肉好きと知ったフェルディオスは愛する妻のため剣の鍛錬に励み、日に焼けた肌と服から盛り上がるほどの立派な筋肉を手に入れたという。おかげで知識量だけでなく、有事の際は自ら剣を取って戦える文武両道の次期後継者となり評判がさらに上がった。それを後押ししたとされるステファニアはルクセンハイトでとても大切にされたようだが、嫁入り後、離宮に保護された彼女の姿を見た者はいない。
「望んだ未来とは違う形になっただろうけれど、お幸せに!」
フォルテューナはステファニアが惚れ薬を自分には使わないことくらい織り込み済みだった。そのうえで、彼女が幸せになれると判断したからあの薬を売ったのだ。はじまりは愛でなかったとしても、いつか情に変わることもある。情に絆されて、いつかそれが愛に変わることもあるだろう。それもまたよし、小さく呟いてフォルテューナは天を仰いだ。
「――――思えば、この場所にずいぶん長居してしまったわ」
居心地のよい場所だった。知り合う誰もが親切で、優しくて。どれほどの時間をこの場所で過ごしてきたのか覚えていないくらいだ。フォルテューナは夕焼けに染まる石畳を踏みしめながら己の浅はかさを笑う。違和感に気づかれないなら、このまま住み着いていいのではないかと思っていたくらいだ。
ずっとこのままでいられるわけがないというのに。思いのほか幸せで目を逸らしていた。
「ステファニア様のように、紹介のない人間が噂だけを頼りに店までたどり着いた。今はまだ噂に過ぎなかったとしても件数が増えれば情報として精査されるのは時間の問題。場合によっては、さらなる悪意を引き寄せてしまう」
会話の潤滑油代わりに使われる噂話というものは決してなくならないものだ。そして愛を買い取るという行為もまた、良くも悪くも人の興味を掻き立てる。フォルテューナはどれだけ細心の注意を払っていても興味本位の噂が真実のように語られるようになったら商売が成り立たないことを知っていた。
風を感じるように、そっと目を閉じる。さらなる悪意が引き寄せられる前に何をすべきかなんて決まっていた。フォルテューナは、ことさら明るい声を張り上げる。
「さあて、引っ越しの準備をしないと!」
私には店主として責任がある。買い取った愛の上に積み重ねた人々の幸せがあることを忘れるわけにはいかないの。そのためには自分にとって大切なものだろうと捨てていく。
冷血、薄情。それは愛を忘れたフォルテューナだけができることだから。
そうと決めたらフォルテューナに迷いはなかった。アレと、アレは処分しましょう。そしてコレは持っていく。仕分けていたフォルテューナの視線が木の下にある白いベンチへと向いた。脳裏に浮かぶのは、長々と横たわるかわいくないモノ。フォルテューナはベンチに腰を下ろした。
「このベンチは置いていきましょう。寝床を取り上げるのはかわいそうだもの」
ところどころに傷がついていたのを丁寧に削って真っ白に塗り直してくれたのは彼だから。
「野生のネズミみたいに図太くて、手がかかるけれど。あなたのこと嫌いじゃなかったわ」
こういうときに愛を忘れたことを後悔するのだ。気の利いた別れの言葉の一つも浮かんでこない。無愛想で、意地悪で。器用なところもあるおせっかいな王子様。ただひたすらフォルテューナを求めてくれたお礼に、心から感謝の気持ちを贈ろう。
「もう治してあげられないから怪我をしないようにね」
ほんの少しだけ、ベンチに加護の力を残した。温もりを感じるようになでて、フォルテューナは立ち上がる。
「リゲル、あなたに会えてよかった。どうか幸せになって」
こういうときに愛を忘れてよかったと思う。だって心から彼の幸せを願うことができるもの。フォルテューナは柔らかな笑みを浮かべて胸に手を当てた。たしかにリゲルが教えてくれたとおりだわ。この気持ちが愛ではなかったとしても、幸せになってほしいと願う気持ちは本物だ。それを教えてもらえただけで私は十分に幸せ。
――――たとえ、あなたが隣にいなくても。
リゲルの青に目が眩んで、全てを捨ててしまおうかと思ったことは私だけの秘密。秘密は秘密のままにしておくからこそ、いつまでも色褪せることなく美しい。
店の扉を閉める前、フォルテューナはゆっくりと振り返った。脳裏に楽しかった日々の思い出を刻み込む。そしてフォルテューナの唇が静かに古語を唱えた。ゆっくりと効果が現れて、術が完成すると同時に店は本来の姿を取り戻す。
「夕飯にはおいしい魚が食べたいわ。そうだ、次の行き先は港町にしましょう!」
海沿いの一軒家とかも悪くないわね。そういえば海のある方角なら東の空に青白い星が見える。あの野生のネズミのような図太さが名残惜しいと思う日がくるとは思わなかったわ! クスッと笑ってフォルテューナは静かに扉を閉めた。鍵がかかると同時に周囲はしんと静まり返る。店の扉はたしかに閉まった、そのはずなのに。
ドアベルの音は、もう鳴らない。




