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フォルテューナ・パンタシア魔道具店の秘密〜魔道具店の店主が守護天使につかまるまでのおはなし〜  作者: ゆうひかんな
四章 蜘蛛の咬み傷

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裏話 嵐の前触れ


 セアモンテという国が一番輝く時期は春から夏にかけて。街中に植えられた花が一気に芽吹いて国全体が花園のように色づく。人気の花は毎年変わり、その年に流行った新種の苗や種が真っ先に売れて、競うように各家庭や公園の花壇に植えられるのだ。

 今年の一番人気は()()()()()という名の赤いバラ。理由は単純明快、嫁いでゆく花嫁が愛している花だから。フォルテューナも赤いバラの苗を買って庭に植えた。どちらかというとハーブや慎ましい野花の多い庭で赤い花が女王のように君臨する。日々、存在感を増していく姿はまるで彼女そのもののように思えた。


 失った婚約者を偲び喪服ばかりを着ていた王女殿下が、赤バラのようなドレスを身に纏って夜会に登場したとき、人々の反響は凄まじかった。なにしろ当日の絵姿が庶民にまで出回ったくらいだ。ここ三年ほど黒いドレスに黒いベールで顔を隠していたから、赤の似合う華やかな顔立ちであることを誰も想像していなかったらしい。ちなみに当日の絵姿は即完売、王室での彼女の人気は鰻登りだ。


 余談だが、あの日以降もオリヴィア様はフォルテューナの店に顔を出している。買い物のついでだし、それは別にいいのだけれど、問題なのは彼女がくると自動的に()()もついてくるわけで。

 あの野生ネズミのような男は、いつのまにかベンチの上に長々と横たわっているのだ。最初はうっとうしく思っていたのだが、最近は私の手が届かない外壁の修理や屋根の修繕をしてくれるようになってそれは正直なところ助かっている。


 借りを作るのが嫌なのでレティが作った麻痺薬と麻酔薬を渡したら、一般的なものよりよく効くということで、たいそう喜ばれた。いい頻度で魔法薬を買いに顔を出すようになって、そのついでに納品があれば王城へ持って行ってくれる。そのときもけっこう雑に扱っているつもりなんだけれど……なんでなつかれたのかしら?


 そして今日、ついにオリヴィア様がテナモジュール王国へと嫁がれる。


 沿道には、たくさんの国民が最後に花嫁姿を一目見ようと押しかけていた。王女殿下――――夫婦の誓いを立てた今はもうオリヴィア・グレース・テナモジュール王弟妃殿下となったが、彼女はセアモンテで結婚式を行ったあと、今度はテナモジュールでもう一度式を挙げて国民にお披露目をするらしい。さすが国同士を繋ぐ婚姻というだけあって、豪華だ。


 式が終わったあと、馬車に乗って夫とともに手を振る彼女は王都の至るところで咲き乱れる赤いバラに感激し、涙をあふれさせた。人の話は聞かないしアクが強いけれど、情に厚く、お茶目な愛され気質を持つ女性だった。根は真面目だし、頭の回転も早いから妻となれば立派に社交をこなせるだろうに公爵閣下はもったいないことをしたわね。


 そんなわけで式が終わったあとも街中はお祭り騒ぎだ。飲食店も大繁盛らしい。フォルテューナも浮かれた気持ちで出店を覗いたりしたから、結局店に戻ったときは昼を過ぎていた。


 さて、掃除をしないと。今日の作業がまだ終わっていない。オリヴィア様には感心されたけれど、フォルテューナは別に掃除好きというわけではなかった。ただ、部屋数が多く、敷地が広いから毎日掃除をしないと終わらないというだけのこと。今日は床のモップがけの日だ。気合いを入れて年季の入ったバケツとモップを握りしめる。水で濡らしたモップの先を固く絞ると、無心になって床を拭き始めた。どのくらい時間が経ったか、視界の端に見慣れた靴先が映る。


「真面目だな、祝祭日ぐらい休めばいいのに」

「仕事中の人間に言われたくないわね」


 視線を上げると、そこには呆れた顔をしたリゲルがいた。陽も落ちてきたところだし、今日のところはここまで。片付けようと手を伸ばしたらバケツが目の前から姿を消した。


「排水溝に捨ててくる」

「ありがとう、助かるわ」


 こういう気遣いができる人なのよね。影の仕事をこなすには細かいところに気がつく性格でないといけないのかしら? するとリゲルはニヤッと笑った。


「バケツの水をひっくり返しそうだからな」

「だから一言多いのよ!」


 言わなければ親切な人なのに、そういうところが腹立つの!


「それで、今日は何を買いに来たわけ?」

「特に用事はない。夕飯がまだなら食べに行かないか?」

「あら珍しいわね。どうしたの?」

「どうもしないが奢るから一杯だけ付き合ってくれ」

「……本当に珍しいわね」


 そういう馴れ合いを好まない人だと思っていたのに。


「仕事はいいの?」

「明日から別の任務に就く。だから今日はもう終わりだ。もちろん、予定があるなら無理にとは言わないが」

「いいわよ、話くらいなら聞いてあげるわ」


 まあ、今日は仕方ないかな。この国を出られないという彼はオリヴィア様と別々に暮らすこととなる。ずいぶんと長い時間を影として寄り添ってきたみたいだし、感情が揺さぶられることもあるだろう。


「連れて行ってくれるのなら、おいしいお店にしてね!」

「食い意地が張っているよな、遠慮ってものはないのか?」

「失礼ね、どうせならおいしいものが食べたいだけよ!」


 自炊もするけれど、プロの作るおいしいものは別腹だ。フォルテューナは浮かれた足取りでモップをしまうと財布の入った鞄を手にした。ささっと身だしなみを整えて、鞄の紐を肩から斜めがけにして準備万端。


「さあ、行くわよ!」

「普通はもっと準備に時間がかかるところじゃないのか?」

「ごはん食べに行くだけでしょう? 納品や商談に行くわけじゃないし普段着でいいじゃない」

「色気がないな」

「冗談抜きで失礼だから!」


 どこか呆れられている気もするが、おいしい食事が待っているなら気にならない。


 リゲルが連れてきてくれたのは隠れ家のような雰囲気の店だった。皆話に夢中で、席同士も離れているから他人の姿が気にならない。フォルテューナはクスッと笑う。なんとなくだけど彼の好きそうな店だわ。


「よく来るの?」

「たまにな。でも仕事で使うことのほうが多い」


 お任せでいくつか料理を注文して、フォルテューナは切ったフルーツの入ったワインを注文した。フルーツの甘味とワインのほろ苦い香りが口に広がる。


「……ふふ、おいしいわ」


 チーズと軽くローストしたナッツ、次々と運ばれてくる出来立ての料理。好きなお酒を飲みながら、おいしいものを食べる。フォルテューナにとって最高の贅沢だ。


「素敵なお店に連れてきてくれてありがとう」


 フォルテューナの顔に自然と笑みが浮かんだ。リゲルの口元が孤を描く。


「よかった、気に入ったみたいで」

「ほら、飲みながらちゃんと食べなきゃダメよ。酔いやすいし、体に良くないわ」

「酔わないから大丈夫だ」

「そういう問題じゃないでしょう!」


 たしかに先ほどから度数の高いお酒を飲んでいるけれど酔ったような様子はなかった。お酒は好きだけれど、そこまで強くないフォルテューナにとってはうらやましい限りだ。


「それで、いろいろ話したいのでしょう? 愚痴でも文句でも聞いてあげるわ」


 焼きたての肉を一口サイズに切り分けていたフォルテューナは、準備が整ったとばかりに自分の口へと放り込んだ。ああ、あふれる肉汁とソースの味がピッタリだわ。これは噛みごたえのある肉を食べている間は大人しく話を聞くというフォルテューナなりの意思表示だ。


「それはもうよくなった」


 ちょっと、いきなり目的を見失ってどうするのよ⁉︎ あいにく口が塞がっているのでフォルテューナは表情で抗議することしかできない。するとリゲルはフォルテューナの膨らんだ頬にそっと触れた。


「……!」

「話を聞いてもらおうと思っていたけれど、フォルテューナの幸せそうな顔を見ていたら満足したからもういい」


 リゲルは小さく笑いをこぼした。柔らかで、慈しむような微笑みだった。


 直撃したフォルテューナは肉の欠片が喉に詰まりそうになり、あわてて飲み込んだ。真っ赤な顔で水を飲むとリゲルを睨みつける。死ぬかと思ったわ。ほんとなんなのよ、この男は! 


「からかうだけのつもりなら帰るわよ!」


 我ながら可愛げがないとは思うけれど、相手を勘違いさせるような態度はよくない。一息ついて、フォルテューナは軽く受け流した。


「口説くなら相手は選ばないとね!」

「どうして?」

「私とあなたは違うの」


 ――――そう、彼は私と違う。


 感情をきれいに隠した顔でフォルテューナは笑った。そして表情を読ませないフォルテューナの横顔を長い前髪の隙間からリゲルの青白い光を宿した瞳が見つめている。


 ――――どうしても心は開かないか。


 触れようとすると、するりとかわされる。まるで難攻不落の巨城、不可侵の神域だ。フォルテューナの固く閉ざされた心には一種の覚悟のようなものがあった。そのことには気がついていたけれど、それでも……冗談だとはぐらかすことができるほどリゲルは器用ではない。

 

 だって、はじめて欲しいと願った女性だから。彼女をもっと自分のそばに引き寄せて自分だけのものにしたい。そのためならいくらでも待てるし、手は惜しまないつもりだ。リゲルにとって、フォルテューナはそれだけの価値があった。


「相手は選んでいる」

「え?」

「私はフォルテューナがいい」


 リゲルは真剣な表情で言葉を重ねた。自分なりの覚悟のつもりだったけれど、彼女からの返事はない。ただ、困った顔であいまいに笑うだけだ。さて、どうしたら彼女の心は開くのだろう?


『お飲みにならないと思いますが一杯だけお付き合いくださいね』


 彼女が差し出した紅茶のカップはリゲルが人として認識された証。影である自分にフォルテューナは光を当てた。そのうえ名までつけて……彼に彼女の存在を刻みつけたのだ。あのとき決めた、この幸運を逃しはしないと。


『いいこと、チャンスというものは一度逃したら二度と捕まえられないものなのよ。だから逃げられないうちに掴み取るの』


 企む顔をしたオリヴィアに手伝ってもらいながら、少しずつ距離を詰めていく。だから予想もしていなかった。納品のために城を訪れるフォルテューナが兵士や使用人を次々と虜にしていくなんて。


 チョコレートのような甘い色をした瞳と髪、二十代前半くらいの謎めいた独特の雰囲気を持つ女性。空気を読むのが上手く、人当たりの良い彼女は王城に勤務する一部の男達から熱狂的に愛された。しかもよりにもよって身分はさほど高くないけれど有能で人望厚い男ばかりだ。身分によらず抜きん出た実力を持つ彼らだからこそ、彼女の内側に秘めた非凡な才を感じ取れたのだろうか。


 冗談じゃない、取られてたまるか。

 彼らが不用意に近づいて彼女を傷つけてしまっては困る。


 焦りはじめたころに、フォルテューナの店には魔法がかかっていて簡単にはたどり着けないようになっていることを聞いた。自分だけはたどり着けることを幸いと、商品は取りに行くから城には来ないようにと説得する。最初は渋っていたけれど、それに慣れた今では、ちょっとしたおみやげ代わりの魔法薬や軽食まで用意してくれるようになった。意外と情に脆いところがある。想定外だったが、うれしい誤算だ。


「リゲル?」


 出会ってばかりのころは、どこかよそよそしい態度だったフォルテューナも今はずいぶんと打ち解けたものに変わっている。リゲルがからかうと、店主の仮面は剥がれ勢いよく喧嘩を買い、呆れたような顔で笑うのだ。いついかなるときも対等の立場を崩さないフォルテューナはリゲルにとって奇跡そのもの。

 

 もう少しだけ、近くに。だけど伸ばした手はやはり届くことなく、するりと抜けた。

 

「撤回する気はないよ。私はフォルテューナがいい」

「……」

「だから逃げないで。願うことはそれだけだ」


 今がダメなら、せめて次の機会を。そこではじめてフォルテューナの瞳が揺れた。とまどうように何度か口を開いては、言葉にならない台詞を飲み込んで……最終的に小さな声で呟いた。


「もの好きね」

「好きな人を好きと言って何が悪い」

「普通はここまで邪険にされたら脈なしとあきらめるものよ?」

「ならば普通じゃないと逆にあきらめてくれ」


 強引ね、とフォルテューナは呆れた顔で笑った。笑った顔を見たリゲルは安堵したように息を吐く。フォルテューナがリゲルに恋愛感情を抱いていないことはわかっている。でもこの想いはきちんと言葉にして伝えておきたかった。


「今日はもうひとつ、別のことも伝えにきたんだ」

「何を?」


 リゲルの表情が甘く優しいものから、暗く厳しいものへと変わる。フォルテューナには見せることのない影として生きるときの顔だ。凍てつく冬の色をした瞳は、暗く厳しい表情によく映えるということをフォルテューナは今日はじめて知った。


「あと少しで()()()()。王都の中心部には近づくな。運が悪いと巻き込まれる」


 リゲルの言葉にフォルテューナは息を呑んだ。何年かおきに突如吹き荒れる嵐の前触れ。影が唯一、表舞台に出ることを許される任務といえば一つしかない。


 国を挙げての一斉摘発。セアモンテという国が建国以来滅ぶことなく、豊かでいられる理由の一つがこれだ。何年もかけて餌を仕掛け、罠を張り、自国の脅威となるものを徹底的に排除する。標的は不特定多数、狼が獲物に飛び掛かるように罠を張って一気に叩く。


 庶民に混乱を招かぬよう水面の下で水が流れるように行われるが、そのぶん数多の血が流れるという。検挙する側も無傷のままとはいかず、命を落とす人間も少なからずいると聞く。規模も、実施される時期すら全くわからない。手口や被害状況も隠されているからわからないけれど、フォルテューナは町中に漂う異様な香りと建物の残骸や破壊行為の名残りで察するのだ。


 ――――嵐がきた、と。


「教えてもいいの、それ?」

「私は嵐がくるとしか言っていない。意味がわかる時点でフォルテューナはこちら側だ」


 たしかに、わかる人間にだけはわかる符牒だ。だからってあっさり巻き込むんじゃないわよ、もう。心底面倒という顔をしたフォルテューナの隣で、リゲルの持つ器の氷がカラリと涼しげな音を立てた。


「私は何を手伝えばいいの?」

「何も。ただ、フォルテューナはおとなしく店で待っていてくれ」

「え?」

「必ず生きて帰るから」


 そして流れるような動きでフォルテューナの手首に唇を寄せた。セアモンテにおける求婚の証……しまった、話の内容に気を取られて許してしまったわ。真っ赤な顔であわてて自分の手を引っ張る。それをいなしてフォルテューナの体を深く引き寄せるとリゲルは耳元で囁いた。


「絶対に帰ってくるから、待っていて」


 鼓膜を震わせる切なる願いにフォルテューナは瞳を伏せた。そこまで言われて、いやだと拒絶できる人はいるのだろうか? 視線をさまよわせて、ついには深々と息を吐いた。


「そのやり方はずるいわ」

「使えるなら、どんな手だろうと使う」


 長い前髪の隙間から獲物を狙う獣のような青白い眼がのぞいていた。フォルテューナは眉根を寄せる。


「まさか無茶する気じゃないでしょうね?」

「それでもきっと店に戻ってくる。約束するから」


 否定しないということは無茶するのだろう。一瞬黙り込んで、フォルテューナはあきらめた顔で笑った。


「しょうがないわね」

「どうした?」

「いいこと、絶対に動かないで」

「は?」


 フォルテューナはリゲルの頬に唇を寄せた。反射的に身を固くした彼の頬にフォルテューナの柔らかな唇が触れる。そのままの位置で彼女の唇が古語を紡いだ。


加護(ヴェネト)


 すると突然ふわりと柔らかな風がリゲルの体を包んだ。思わず目を見開く。まさか、これは。


「……魔法?」

「ささやかなものよ。あなたの運がほんの少しだけ良くなるの」


 ただ戦場においては、わずかな運の差が生死を分けることもある。そのときにはきっと役に立つはずだ。さらりと告げたフォルテューナにリゲルは言葉を失った。魔法が失われつつある世界で、まさか自分が体験することになるとは。


「すごいな、幸運の女神の加護だ」

「そんなたいそうなものじゃないって言ってるでしょう。本当にささやかなんだから」


 子供のように喜ぶリゲルをフォルテューナは呆れたような顔で笑った。


「これはさっきのお返し。断りもなくいきなり襲うのは紳士のすることではないわ」


 いつのまにか自らの手を奪い返したフォルテューナは、リゲルの目の前で自由になった手をヒラヒラとさせる。


「フォルテューナは襲ってもいいのか?」

「私のは儀式の手順どおりよ。文句があるならご先祖様にお願いね」


 ちょっと意地悪な顔で笑って鞄を掴むとフォルテューナは静かに席を立った。見回せば周囲にいたはずの客の姿がずいぶんと減っている。


「満腹になったし、帰るわ」

「家まで送ろう」

「いいわよ、危ないことはないから。それよりも明日からに備えなさいな」

「いや、送らせてくれないか? 明日からまた新しい場所でがんばれるように」


 乞い願うような眼差し。フォルテューナがこれに弱いとわかってやっているなら確信犯というものだ。逆に無意識だとしたら余計にタチが悪い。フォルテューナは逡巡して、あきらめたように息を吐いた。


「ガーゴイルの噴水のところまでお願いするわ」


 だからそんなうれしそうな顔をするんじゃない! しかもお代を払おうとしたら精算が済んでいて奢られていた。いつのまに……リゲルこそ、本当は魔法が使えるんじゃないかしら?

 差し出されたリゲルの手に、自分の手を重ねる。無言のまま歩き続けて、あっという間にガーゴイルの噴水のある場所までたどり着いた。振り向いたリゲルは静かにフォルテューナを抱き寄せた。


「断りもなく、いきなり襲うのはダメって言ったでしょうに」

「今だけは許してほしい」


 思いのほか余裕のない声に身を固くした。深く息を吐いて、覚悟したように身を委ねる。彼の服越しに感じる鼓動と温もり。彼の体温が上がって、染みついたような血の香りが一層強く香った。


「きっと帰ってくる。だからフォルテューナの店で待っていて」


 たとえ深く傷ついたとしても。


 下から覗き込めば夜空に浮かぶ星のようにリゲルの青白い光が瞬いた。絶対に帰ってくるのだと、彼自身に言い聞かせているみたいだ。彼にとって、今のフォルテューナは船の(いかり)のようなもの。この世に留まるためのおまじないだ。気休め程度の価値しかないとわかっていても、フォルテューナにこの手を振り払うことはできない……()()()も、今も。


「しょうがないわね、待っていてあげる」

「ありがとう」


 リゲルは安堵したように笑って掠めるようなキスをした。睨みつけるフォルテューナに、いつもと変わらないふてぶてしい笑いを口元に浮かべてリゲルは身を翻した。一瞬にして彼の体が闇に溶ける。さすが影、その中でも彼は上位に君臨する者だ。魔法ではない純粋な戦闘力だけで人を従える者。そんなところもよく似ている。


 こうして因果は巡り、また始まりに戻る。

 お願いだから、せめて命だけは繋いで――――フォルテューナは祈るような気持ちで瞳を閉じた。


 彼の気配が消えると同時にガーゴイルの石像がわずかに身を震わせる。暗い夜道に、ノイズ混じりのしわがれた声が響いた。


 ……血のニオイがスル。アラシがクルか?


「ええ、しかもかつてないほどの規模でね」


 胸が、痛む。この痛みはなんだろう。この心は痛みを感じなくなったはずなのに……。痺れるような痛みが何なのかフォルテューナには覚えがなかった。それともかつては知っていたけれど、忘れてしまったものだろうか。


 戦いはすでに始まっているのかもしれない。

 だけどフォルテューナは嵐が過ぎ去るのを待つことしかできなかった。




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